妙心寺 退蔵院
妙心寺 退蔵院(みょうしんじ たいぞういん) 2008/05/14訪問
妙心寺の塔頭である退蔵院は三門の西側にある。
応永11年(1404)越前の豪族 波多野重通は、深く帰依していた妙心寺第三世住持 無因宗因を開山として千本通松原に退蔵院を創建する。
応永6年(1399)守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こし、堺に籠城するという応永の乱が起こる。3代将軍足利義満は有力守護大名の弱体化と将軍家への権力の集中を図るため、守護大名の相続問題への介入や討伐を積極的に行ってきた。応永の乱により大内義弘は討死、大内氏は政治的影響力を失うこととなった。妙心寺第6世住持の拙堂宗朴は大内義弘と関係が深かったため、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉、妙心寺は寺領没収、龍雲寺と改名させられた。妙心寺を去る者もある中、無因宗因禅師は大徳寺への誘いを固辞して西宮の海清寺に隠棲していた。このような時期に退蔵院が創設されたため、妙心寺の境内でなく千本通松原に創建したと思われる。
退蔵院は日峰宗舜により妙心寺山内に移された。永享4年(1432)日峰宗舜禅師の時代に将軍家から返還されたので、その後のことだと考えられる。応仁の乱では戦火で焼失し、衰退する。その後、後奈良天皇の帰依が深かった亀年禅愉禅師によって中興される。
順路に従って退蔵院を見ていく。
退蔵院の山門は入口側に2本、内側に2本、計4本の柱で屋根を支える構造の薬医門となっている。江戸時代中期の小ぶりな門であるが、屋根の大きさも程よく、勾配の線も美しい門となっている。この山門を潜ると正面に庫裏が現れる。緩やかなむくりのついた屋根は華やかさを感じさせ美しい。厳しい禅宗の寺院としては珍しく思える。庫裏の正面右の腰壁には笠と草鞋が掛けられていた。市中托鉢を行う際の必需品である。
庫裏の前を過ぎ、方丈の南庭に入るところに玄関がある。唐破風造りの屋根は優美な曲線によって構成されているが、退蔵院の門は曲線ではなく5本の直線で結んだ形式となっている。このような折板状の屋根を袴腰造りと呼び、茶道石州流の祖片桐石州の発案した様式だとも言われている。この玄関は江戸初期の富豪 比喜多宗味居士より寄進されたもので、法要儀式その他高貴な人々の出入り以外には使用されていなかったらしい。現在は退蔵院を訪れる人はこの門を通って方丈に向う。細い路地の突き当たりにあるのではなく、路地を右に曲がって入る位置に設けられているため、引きが取れずに撮影が難しい。その上逆光となっていたため、袴腰造りの特徴を確認できる写真が撮れていない。
方丈は慶長年間(1596~1615)の建立で、先の玄関とともに重要文化財に指定されている。方丈前の庭は南庭となるが、この部分を撮影した写真も印象も残っていない。先の玄関を入った部分の空間があまり広くなかったため、撮影できなかったのだろう。拝観時に頂いたしおりによると
「南庭は一面の苔に松樹一本を植えるのみで背景には、椿、かなめ等常緑樹が植えられている。」
とある。
方丈の中には国宝に指定されている瓢鮎図の複写が置かれている。オリジナルは京都国立博物館に寄託されている。瓢鮎図の「瓢」は瓢箪を表し、「鮎」は「あゆ」ではなく「なまず」を意味する。「鯰」は日本固有の文字であり、中国由来の「鮎」で表記されているためである。画面上部には大岳周崇の序と玉畹梵芳など30人の禅僧による画賛が書かれ、下部には、水流の中を泳ぐなまずと、瓢箪を持ってそれを捕らえようとする一人の男が描かれている。大岳周崇の序から、この作品は「大相公」が如拙に命じて、「座右之屏」に「新様」をもって描かせたものであることが分かる。「大相公」は足利義持を指し、「新様」とは「南宋の新しい画法」を意味するものと考えられている。そして現在は上下をつないだ掛軸装となっているが、元は義持の「座右之屏」の表裏に絵と賛が分けられていたとされている。この絵の制作年代については、賛者から応永20年(1413)前後と考えられている。
如拙は足利将軍家と密接な関係を持ち、相国寺にいたことは確実とされている。同じく相国寺の画僧雪舟に祖と仰がれていた。また序を書いた大岳周崇も等持寺や円覚寺などで修行した後、応永9年(1402)に京都相国寺の住持となっている。どのような経路を辿って室町将軍家の持ち物が相国寺ではなく、妙心寺の塔頭にもたらされたのだろうか?
方丈の南庭は印象に残っていないが、西庭は元信の庭として有名である。この庭は室町時代の画家狩野元信の作品とされている。方丈の西側のわずか50坪あまりの空間に滝組・蓬莱島を中心に石を配置しているが、全体的には柔らかい線が浮かび上がる庭となっている。この庭が作られた頃には双ヶ丘を借景としていたらしいが、現在は周囲に樹木が植えられているため、庭の広がりが感じられなくなっているのは残念である。
都林泉名勝図会には異なった縮尺で描かれているものの、現在と同じ形となっていることが確認できる。また図会には方丈が描かれていないが、この庭の見るべき方向は示されている。現在、この庭は南側に置かれた手水から北には入れず、正面から鑑賞することができない。2009年7月現在、退蔵院の公式HPには特別拝観という記述もあるので、もしかしたら方丈内からの見学も可能なのかもしれない。いずれにしても方丈の西側の部屋あるいは縁から鑑賞するために作られた庭であることは確かである。
狩野元信は文明8年(1476)室町時代の絵師で、狩野派の祖 狩野正信の子として京都に生まれ。元信は漢画の水墨画法を基礎としつつ、大和絵系の土佐派様式を取り入れ、書院造建築の装飾にふさわしい日本的な障壁画様式を確立した。それとともにヨーロッパの工房のような新たな制作体制を確立し、顧客からの注文の多様化と増加に対応して行った。
元信は60歳代にあたる天文年間に大きな仕事に携わっていることが遺されたものから分かる。天文8年(1539)から約15年間を費やして石山本願寺の障壁画制作に携わる。この間、天文12年(1543)内裏小御所、同時期に妙心寺霊雲院の障壁画も描いる。こうした大作以外にも絵付けした扇の販売も行うなど当時の扇座の中心人物でもあった。元信は幕府、朝廷、石山本願寺、妙心寺や町衆などの時の有力者達より庇護を受けつつ、戦国の乱世を生き抜いた絵師であった。
退蔵院の公式HPには下記のように記されている。 「彼が画家としてもっとも円熟した70歳近くの頃の築庭と推測されています。自分の描いた絵をもう一度立体的に表現しなおしたもので、彼の最後の作品が造園であったことで珍しい作品の一つと数えられています。」
元信は永禄2年(1559)79歳で亡くなったこととなっている。退蔵院の方丈が慶長年間(1596~1615)に建てられたとすると、建立以前にこの場所に作庭されていたこととなる。いずれにしても方丈と元信の庭の時代関係を明らかにすることが必要とされる。
この庭の特徴を記したものを読むと、狩野元信の作庭であるということを前提としているものが多く見受けられる。決して悪いことではないと思うが、これらの説明が単に画家という職能を持った人の作った庭の特徴という範囲から脱せないのが残念である。例えば絵画ならば元信と雪舟の違いは説明できても、雪舟の作った庭とこの庭がどのように違うということを説明することは難しい。さらにそれが画風の違いによって生じているかと言う部分までの踏込みはできないでいる。その中で(財)京都市都市緑化協会の公式HPでは退蔵院の庭を比較的客観的に記している。 ・宇多野・衣笠の黄褐色の山石、灰色の御影石、四国の青色など、色合いのはっきりした石を各所に据えている。
・白砂全体を枯池とし、中島を設けて石橋でつなぎ、中島の左手に、魚が背びれを見せて泳ぐ姿を思わせる鮒石を配している。
・鮒石が比較的間の空いた白砂部分をひきしめる効果を果たしている。
・植物は低木の刈り込みのほかはツバキ、クロガネモチ、アラカシ、モッコクなど常緑樹が多く植えられている。
多少簡略化させていただいたが、このような特長を見出すことによって、庭の性格と庭を造った人の狙いの一端が見えてくる。
また田村篤昌さんのHP(http://atsumasa.cocolog-nifty.com/blog_kyoto/2006/05/__1651.html : リンク先が無くなりました )では、この庭の構成が水平に広がる石組みと低く抑えられた潅木から、視線を下へ向けさせるように造られていることを指摘し、方丈壇那間より覗き込まない限り、庭園を鑑賞することは出来ないとしている。また寛政の都林泉名称図会には方丈が描かれていないことより、方丈が増築されて現在のような鑑賞法になったと推測している。 この前半の指摘は非常に共感できる。最初にこの庭を見た時、特にその周りに植えられた常緑樹の高さから、窪地に造られた庭のような印象を受けた。深い緑の中に白砂と色味のある石が浮き上がってくるように感じられと同時に、外側から絵を覗き込むような気持ちの悪さも感じた。多分、今見ている光景と正面から見るものは違うということである。
方丈の南側には中根金作の作庭による余香苑がある。この庭園は3年の月日を費やし昭和41年(1966)に完成している。方丈南庭から袴腰造りの玄関を出て、再び庫裏の脇の道を戻る途中に南へ向かう路地がある。両側を2メートル近い刈り込みで囲われた路地を進むと正面に丸い穴の空いた石のオブジェがある。ここを右に曲がると中門がある。欄間には鯰の彫刻が施された中門を潜ると余香苑が始まる。正面に大きな枝垂桜が植えられ、その周りに苑路が作られている。苑路の外側、左に「陽の庭」、右に「陰の庭」と名付けられた枯山水の庭が作られている。陽の庭は白砂、陰の庭は黒い砂が用いられている。この2つの庭を過ぎると円錐状の茅葺屋根を持った東屋が現れる。庭の周りに植えられた高木と刈り込み、そしてその中に点在する石が見えるが、まだこの位置では水の流れは見えない。この東屋を巻き込むように苑路は続き、次第に下っていく。庭も徐々に姿を見せ始める。
池の端にある藤棚の下に立ち、庭の正面から見ると東屋がかなり高い位置にあることが分かる。この高低差が奥行き感とともに、庭を広く見せることとなっている。東側上流に置かれた垂直に立つ滝石よりいくつかの段差を経て、手前に広がる池に注ぎ込んでいる。元の地形がどのようなものであったか分からないが、沢伝いの流れが造られている。池には飛び石と石橋が架けられているが、その先に渡ることは禁じられている。東屋の近くへ続く苑路があるのかも知れない。この池に面して大休庵と呼ばれる建物があり、瓢鮎菓子と抹茶がいただけるようだ。この大休庵と東屋の間に水琴窟がある。大橋家庭園 苔涼庭で聞いた水琴窟ほどの音色はなかったが、現役の水琴窟である。
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