実相院門跡
天台宗単立寺院 岩倉山 実相院門跡 (じっそういんもんぜき) 2008年05月20日訪問
円通寺の山門を出て、京都府道40号線下鴨静原大原線を少し大原方向に下り、民家の中に入っていく。円通寺 その2で触れたように、新しい道路が作られ、まさにこれから住宅街として開発されようとしていた。恐らく現在はさらに進んでいるのだろう。東の方向に進んでいくと10分程度で京都バスの円通寺道停留所に着いた。ここから岩倉の実相院に行くため、岩倉村松行きのバスに乗車し、国際会館駅前、岩倉駅を経由して岩倉中町で下車し、あとは徒歩で向かう。岩倉中道を北上し、途中で西側を並行に南北に走る京都府道105号線岩倉山端線すなわち岩倉街道に入り、再び北に進む。享保12年(1727)に建てられた鞍馬道の道標のある角で、現在の観光客用に作られた大雲寺と実相院の順路を教える標識に従い西に折れる。そのまま西に直進すると実相院の厳しい四脚門と白い築地塀が石垣の上に現れる。岩倉中町の停留所を下車してここまで徒歩で約20分程度であった。
実相院は天台宗寺門派の寺院として寛喜元年(1229)大納言鷹司兼基の子 静基僧正を開基とし、現在の京都市左京区小川通今出川を寺地とした。当初は紫野にあったが、後に五辻通小川(現在の上京区実相院町)に移り、応永18年(1411)大雲寺の塔頭寺院 成金剛院があった現在地に移される。
室町時代末の兵火により伽藍の多くを焼失するが、寛永18年(1641)17世義尊僧正が、皇室と徳川3代将軍家光の援助により再建している。このことは以下のように家系図を辿ると見えてくる。
義尊僧正の母は古市胤子で、天正11年(1583)に大和国の武将古市胤栄と近衛家出身の桂光院殿の間に生まれている。室町幕府15代将軍足利義昭の嫡子 義尋に嫁し二子を儲けている。すなわち実相院門跡となる義尊と円満院門跡の常尊である。円満院は大津円城寺の門跡のひとつである。さらに慶長10年(1605)義尋が没すると、胤子は母方の親戚である後陽成天皇女御の近衛前子の縁で宮中に出仕し、茶々局、三位の局の女房名で呼ばれる。後陽成天皇の召人となり、さらに三子を儲ける。第9皇女 冷雲院宮と第10皇女空花院宮は夭折するが第11皇子道晃法親王は、元和2年(1621)聖護院に入室し、寛永2年(1625)に落飾、翌寛永3年(1626)親王宣下を受け、聖護院第28世門跡となる。そしてこの3人の門跡は後水尾上皇の兄弟となる。
このように古市胤子すなわち法誓院三位局の3人の子供が、実相院、円満院そして聖護院門跡を継ぐこととなる。さらに三位局は後陽成院の晩年まで傍に仕えており、院が危篤の際には見舞いにきた後水尾天皇との面会の取り次ぎを行っている。寛永15年(1638)岩倉に閑居するが、その後も宮中との間に良好な関係を築いている。正保2年(1645)文智女王に同行して近江国永源寺の一糸文守をも訪ねている。
修学院離宮でも触れたように、後水尾天皇に出仕し典侍となった正二位権大納言四辻公遠の娘 四辻与津子の子として、文智女王は元和5年(1619)に-生まれている。この時期、娘の和子の入内を進めていたため、文智女王とその兄の賀茂宮の存在は、2代将軍徳川秀忠にとって許しがたいものであった。そのため元和5年(1619)後水尾天皇の側近である万里小路充房をはじめとする公家6名を処罰し、与津子の追放と出家が行われる。このように後水尾天皇の許から追い出された文智女王は、寛永18年(1641)修学院村に円照寺を結んでいる。その後、文智は京から離れることを望み、正保2年(1646)には近江国永源寺に移る。上記の三位局の同行がこれに当たるのだろう。 円通寺の項で触れたように、離宮造園の地を探す後水尾上皇は、実弟でもある聖護院門跡の道晃法親王の長谷の山荘にも度々の行幸している。また上皇と東福門院の娘である顕子内親王のために建設した岩倉御殿への行幸も行っている。実相院の寺宝からも、後陽成天皇、後水尾天皇、明正天皇そして霊元天皇と岩倉あるいは実相院との関係の深さが見えてくる。
義延法親王は後西天皇の第4皇子として寛文元年(1662)に生まれている。実相院に入室することで実相院は門跡寺院となる。以後法統は代々皇孫をもって継承されていく。実相院の正面門 四脚門、御車寄、客殿などの建物は、享保6年(1721)20世義周法親王の時に、東山天皇の中宮・承秋門院の旧殿を移築したものとされている。義周法親王(http://www.geocities.jp/operaseria_020318/aoitei/kyutyu/miyake/detail1.html : リンク先が無くなりました )の事はあまり詳しく分からないが、正徳2年(1712)伏見宮邦永親王の第5王子受宮邦光親王として生まれ、元文5年(1740)に若くして没している。
実相院には2つの異なった様式の庭がある。
西庭は、客殿から続く御茶屋と思われる建物と迫ってくる裏山の間に造られた回遊式池泉庭園。広縁に置かれた手水鉢の周りに季節の草花を植えるなど、自然に満ち溢れた優しい門跡寺院を髣髴させる庭を作り出している。訪問した時は閉門直前であったため、日は西に傾き逆光気味になっていた。そのためやや暗い印象を受けたが、もし午前中に訪問したら明るく大和絵のような和やかさ持つ庭となっていただろう。池泉に置かれた飛び石の上に苔が綺麗に植えられていることから、庭に下りることがほとんどないのだろう。一見すると自然に任せたままにも思えるが、細部まで人の手が入った庭である。
今ひとつの庭は客殿の東側に作られた枯山水庭園である。東の山並みを借景として比較的新しく造られた庭のように見えた。中田勝康氏の公式HPに掲載された実相院では、「白州に岩がゴロゴロとした庭」という表現をしているが、まさにその通りである。あまりやりすぎないで白砂と借景だけで見せる庭であっても良かったのだろう。
ところで、ここから見える山並みは、正伝寺や円通寺から見る印象的な比叡山のシルエットとは少し異なっている。円通寺のある幡枝から北に上ってきたため、比叡山山頂はここより南東に位置している。だから八瀬から大原、そして若狭へとつながっていく国道367号、鯖街道の西側の瓢箪崩山に連なる山並みが見えている。もし後水尾上皇がこの岩倉の地に離宮を造営した場合、南東を眺められる尾根を探さなければならなかっただろう。そういう意味で実相院より少し北にあったとされている万年岡の御茶屋が、最適であったのかもしれない。
この記事へのコメントはありません。