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大徳寺 興臨院 その4



大徳寺 興臨院(こうりんいん)その4 2009年11月29日訪問

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大徳寺 興臨院 北庭

 興臨院は大徳寺の山門の西に位置する。東面する平唐門とその先の玄関の唐破風屋根は、ほぼ東西軸上にある。玄関の北側には本堂があり、ここまでの表門玄関そして本堂が創建時の建物とされ重要文化財に指定されている。なお本堂東側の庫裏は後世に再建されている。慶長2年(1597)の校割帳により、創建時は本堂と庫裏で構成されていたことが分かる。ここには本堂と庫裏の諸室とその大きさ(畳数)が記されている。
本堂:真前
   客殿
   礼間(12)
   檀那間(12)
   書院(眠蔵長床とも13)
   小座敷(6.5)
   同北寮(3.5)
   西寮(二間侍真寮眠蔵とも4.5)
   御影侍者寮(8)
   番寮(2)

庫裏:茶堂(東寮とも19)
   納所寮(眠蔵とも9)
   典座寮(5)
   庫司

 この他にも、祠堂寮、味噌部屋、衆寮、炭部屋、柴部屋、雪隠が存在していた。現在の興臨院の本堂の平面構成と比較すると、礼間、檀那間、眠蔵長床を除く書院、衣鉢間(=御影侍者寮)の畳数が一致するのに対して、それ以外の眠蔵長床、小座敷、同北寮、西寮を足し合わせると19.5畳となる。また真前部分の柱に改修痕跡が見られることから、川上氏は当時の興臨庵本堂の北側に10.5畳分の座敷が接続していたのではないかと推測している。すなわち書院が大書院と小書院に分化し、さらに小書院が本堂とは異なる別棟となる以前の形状を、慶長2年(1597)時点で興臨庵の本堂が示していたと考えている。なお寛永11年(1634)の米銭銀納下帳より、すでに小書院が大書院と別に存在していたことが示されている。つまり、この間の時期に小座敷や同北寮などという部屋によって拡張されてきた書院空間は、別棟の小書院のへと変化していったことが分かる。大徳寺においても興臨院と玉林院が、このような発展形式を辿ったのに対して、大仙院(永正6年(1509)創建)、聚光院(永禄9年(1566)創建)そして龍光院(慶長11年(1606)創建)は別棟形式の小書院が造立されている。

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大徳寺 興臨院 南庭
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大徳寺 興臨院 南庭
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大徳寺 興臨院 南庭

 方丈南庭は蓬莱山形式の枯山水式庭園。禅宗庭園の様式を継承した矩形の白砂に、南西から中央部にかけて築山が作られている。どことなく新しさを感じる庭であるが、上記の方丈を修繕した昭和50年(1975)に中根金作により、唐時代の国清寺に暮らしていたと言われる伝説的な僧・寒山と捨得の蓬莱世界を復元している。天台山は中国浙江省中部の天台県にあり、最高峰の華頂峰を中心に洞栢峰・仏隴峰・赤城峰・瀑布峰などの峰々が存在する中国三大霊山の一つである。ここに中国天台宗の開祖智顗が開創した国清寺がある。庭の南西隅の石組を天台山と見立て、その手前に置かれた2つの立石と横に渡された平石で玉澗式の橋を表現している。
 方丈西庭は南庭とつながるものの雰囲気は異なっている。そのためか斜めに延段が、2つの庭を分離するために入れられている。生垣に覆われた堂宇とその先の墓地につながる路地であろう。西庭は南庭とは対照的に緑の比率が高くなる。奥行きの浅い西庭は、歩きながら鑑賞するように平面的な構成となっている。白砂に替わり苔が植えられ、所々に配された井戸や石燈籠、そして石組が次々と現れ、色彩とともに目を楽しませながら、見るものを北庭へ導いていく。昨年の写真と比べると今年の紅葉の素晴らしさが分かる。
 方丈北側に廻ると庭は一層自然さを増してくる。方丈の北東にある茶席涵虚亭は、中国北宋代の政治家であり詩人の蘇東坡の詩から名づけられ、古田織部好みの四帖台目となっている。

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大徳寺 興臨院 西庭
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大徳寺 興臨院 西庭 爪塚
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大徳寺 興臨院 西庭 琴心塔

 都林泉名勝図会には興臨院の障壁画と扁額に関しての記述が残されている。

     客殿中ノ間 墨画山水    古法眼筆
     礼ノ間   彩色花鳥麝香猫 同筆
     檀那ノ間  彩色      土佐光信筆

興臨院ノ額 為日本国天啓和尚大明梅屋方伯行書 此十六字あり。

 興臨院の寮舎には、玉雲軒、真常軒、臨流軒、威徳院、瑞光院などがあった。

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大徳寺 興臨院 北庭

 玉雲軒は、龍宝摘撮では天文年間(1532~55)第101世雲叔宗慶が創め、師である第94世天啓宗歅を開祖としているとし、龍宝山大徳禅寺志では、「興臨院寮舎、玉雲軒、十六石ニ斗二升六合、天文年中造、天啓宗歅和尚」としている。雲叔宗慶は仏心広通禅師の諡号を賜っている。後に南派輪住の寮舎となる。

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大徳寺 興臨院

 真常軒は、龍宝摘撮では永禄年間(1558~70)第121世明叔宗哲が玉雲軒の北に創建したとしている。ただし龍宝山大徳禅寺志では、文禄年間(1592~96)の創建。明叔宗哲は天正6年(1578)大徳寺に出世し、慶長10年(1605)6月12日に後陽成天皇から霊燈普光禅師の諡号を賜り、4日後の16日に世寿76をもって示寂。明叔が大徳寺を退院してからの退居所として、真常軒を開創したと考えれば、文禄年間創建の方が正しいように思える。南派兼帯で護持されてきたが文化年間(1804~18)に廃壊する。

 臨流軒は慶長(1596~1615)の初めに、第136世心溪宗安が創建。南派兼帯で護持されてきたが文政・天保年間(1818~44)に廃されている。

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大徳寺 興臨院

 威徳院は慶長年間(1596~1615)に明叔宗哲の法嗣俊叟座元を開祖として創める。天瑞寺北の寮舎甘棠院を改めて威徳院と号している。なお甘棠は、織田信雄の娘で豊臣秀吉の養女となった小姫で、天正18年(1590)に徳川秀忠と結婚し、翌19年(1591)に7歳で亡くなっている。小姫の法名が甘棠院殿桂林であることから、甘棠院殿桂林少夫人と呼ばれていた。天瑞寺は秀吉の母の病気平癒を祈願して建立された塔頭であるので、その寮舎の名称にこの法名が用いられても不思議ではないだろう。威徳は檀越の対馬領主宗氏20代当主にして対馬府中藩初代藩主となった宗義智の継室の法名。
 その後、威徳院は第213世雪渓宗雪に付与されたが、文化年間(1804~17)には欠住となり、黄梅院が代行していたが、安政元年(1854)廃寺となる。

 月心庵は威徳院住持の寝室とされているが、開基は不詳。威徳院と同じく安政元年(1854)廃された南派の寮舎

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大徳寺 興臨院

 瑞光院は慶長年間(1596~1615)に明叔宗哲の法嗣で第149世琢甫宗璘を開祖として、山崎家盛が建立している。山崎家盛は戦国武将で因幡国若桜藩初代藩主。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いにおいて、石田三成挙兵を下野国小山にいた徳川家康に伝えている。また大垣城に拠っていた石田三成と面会し西軍に与することも約束しているが、西軍として細川幽斎が守る丹後国田辺城攻めに加わるも、積極的に攻め入ることがなかった。戦後、義兄の池田輝政の尽力や三成挙兵の報告の功が認められ、慶長6年(1601)因幡若桜3万石に加増転封となる。慶長19年(1614)死去。
南派独住で護持され、後に兼帯となる。天保年間(1830~44)に火災に遭う。
 瑞光院は堀川鞍馬口にあったが堀川通拡幅に伴い、昭和37年(1962)に山科区安朱堂ノ後町移る。現在でも大日本スクリーン製造本社工場の地には瑞光院前の地名が残っている。元禄初期、第3世陽甫和尚が播州赤穂城主浅野内匠頭長矩の夫人瑤泉院と族縁に当るところから、浅野家の香華祈願所となっている。このあたりの経緯は、嘉永7年(1854)に建てられた瑞光院遺躅碑に詳しく記されている。

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大徳寺 興臨院

「大徳寺 興臨院 その4」 の地図





大徳寺 興臨院 その4 のMarker List

No.名称緯度経度
01  大徳寺 興臨院 山門 35.0423135.7457
02  大徳寺 興臨院 庫裏 35.0424135.7455
03  大徳寺 興臨院 玄関 35.0423135.7454
04  大徳寺 興臨院 方丈 35.0424135.7453
05  大徳寺 興臨院 南庭 35.0423135.7452
06  大徳寺 興臨院 西庭 35.0424135.7451
07  大徳寺 興臨院 北庭 35.0425135.7452
08  大徳寺 興臨院 涵虚亭 35.0425135.7454

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