岩倉の町並み
岩倉の町並み (いわくらのまちなみ) 2008年05月20日訪問
岩倉の地名の由来は、山住神社にある巨石が神体となり石座神社と称される古代磐座信仰、あるいは平安京造営時に一切経を納めるために京の四方の山上に設けられた4つの岩蔵の一つとされている。平安時代の文献には石蔵として現れ、現在使用している岩倉となるのは鎌倉時代以降である。5世紀後半以降に開拓が始まる。幡枝地区は早い時期から集落が形成されており、律令制のもとでこれらの集落は山城国愛宕郡栗野郷に属する。特に平安時代以降、岩倉は貴人の別荘地・隠棲地や病者のための静養地とされるとともに、大雲寺・実相院・聖護院など多くの寺院・神社が創設され、これら寺社の所領地となる
この洛北でも有名な実相院門跡の周辺に多くの病院が建てられていたことは、今回訪問するまで知らなかった。多くの外来患者が受診するためにこの地に集まってくるため、交通の便が良くなった訳である。
林屋辰三郎著「京都」(岩波新書 1962年)では、敢えてこの岩倉の病院と大雲寺の関係を説明している。
「京都の人は、岩倉行きをあまり好まない。それは東京の人のいう松沢行きと同じように、岩倉には精神病院があるからだ。(中略)岩倉の精神病院というのは、一つの大きな病院あるのではない。三つも四つも、いわば精神病院の集落なのである。」
非常に分かりやすい説明である。ここで言う東京の松沢は、昔の地名であり現在は世田谷区上北沢にある東京都立松沢病院のことを指す。確かに少し古い東京人ならば松沢病院と言われれば、直ぐに何のことか分かる。これが書かれたのがおよそ50年前であるので、これらの病院も老健等に変わったかもしれない。
天禄2年(971)日野中納言藤原文範が沙門真覚を開山として創建した大雲寺に、永観3年(985)冷泉天皇の中宮昌子内親王が観音院を建立し金色の6観音を安置している。冷泉天皇は容姿が非常に端麗であったが、皇太子時代から精神の病ゆえの奇行が目立った。そのため僅か2年後の安和2年(969)に退位することとなる。昌子内親王は冷泉天皇の狂気を恐れて殆ど里邸で過ごしたとも言われている。大雲寺の観音に対して、夫冷泉天皇の脳病の平癒を祈ったとも考えられる。しかし退位した後の上皇はプレッシャーから開放されたのか、皮肉なことに後を継いだ円融天皇、花山天皇より長生きをし、寛弘8年(1011)に62歳で崩御している。哲学の道から東に入った櫻本陵に祀られる。 さて大雲寺も、園城寺長吏、法性寺座主を務めた余慶正が住するようになると寺運も興隆してくる。そして中世の大雲寺の宿坊は同じ病の信徒のための保養所として使われるようになっていく。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には江戸時代の大雲寺の伽藍が残されている。林屋は先の著書で、大雲寺が現在も行っている「おくすべ」と呼ばれる締め切った本堂の中で、松の青葉を燻べて無病息災を祈願する奇祭と精神病院で行われる電気衝撃(電気ショック療法)の対極的な比較に言及している。 現在、大雲寺はかなり規模を小さくしているものの存在している。公式HPでも、「どっこい!生きてます!! 大雲寺」と記している。どうしてこのようになったかについては、明確にしていないが、公式HPの年表にも、昭和60年(1985)5月20日 昭和の法難 旧本堂消失 寺宝・秘仏の悉くを散逸としている。
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