東福寺 天得院
東福寺 天得院(とうふくじ てんとくいん) 2008年11月22日訪問
即宗院の山門を出て、偃月橋を渡り、方丈と本堂の間を西に進む。日下門を出て右側に天得院の山門が見える。 前回東福寺を訪れた際は公開されていなかったため、山内の塔頭のひとつとして紹介はしたが、今回は龍吟庵や即宗院とともに、秋の特別公開が行われているので訪問する。
天得院の公式HPによると正平年間(1346~70)玉渓慧格をとして、東福寺第30世無夢一清によって開創された道場とされている。無夢一清は永仁2年(1294)に生まれ、玉渓慧瑃の法を嗣いでいる。嘉元年間(1303~06)に元に渡り廬山の竜巌徳真、百丈山の東陽徳輝らに師事し、正平5年(1350)帰国し、備中の宝福寺、東福寺の住持となる。正平23年(1368)75歳で死去。
天得院は東福寺五塔頭の一つであったが、寺勢は衰退し、何時のことか分からないが大機慧雄禅師によって一度は再興される。時代は安土桃山から江戸時代まで下ると、天得院は東福寺第227世文英清韓の住坊として使われるようになる。
文英清韓は永禄11年(1568)伊勢で生まれた臨済宗の僧。出家した後、文禄の役では加藤清正に従い朝鮮半島に渡っている。慶長5年(1600)に東福寺の住持となり、同9年(1604)南禅寺の住持にもなる。漢詩文に秀でていたため、慶長19年(1614)片桐且元より方広寺大仏殿の再建工事において梵鐘の銘文を起草するように命じられる。同年7月、この清韓が選定した銘文について徳川家康より「不吉な語句がある」との異議が唱えられ、落慶法要中止の求めがあった。これが大阪冬の陣の遠因となる方広寺鐘銘事件である。署名を除いた本文は以下のとおりである。
洛陽東麓 舎那道場 聳室瓊殿 横虹画梁
参差万瓦 崔嵬長廊 玲瓏八面 焜燿十方
境象兜夜 刹甲支桑 新鐘高掛 高音永鍠
響応遠江 律中宮商 十八声縵 百八声忙
夜禅昼誦 夕灯農香 上界聞竺 遠寺知湘
東迎素月 西送斜陽 玉笥堀池 豊山降霜
告怪於漢 救苦於唐 霊異惟夥 功用無量
所庶幾者 国家安康 西海施化 万歳伝芳
君臣豊楽 子孫殷昌 仏門柱礎 法社金湯
清韓は同年8月に且元に同行して駿府へ弁明に向かう。家康は五山の僧や林羅山に鐘銘文を解読させ、崇伝らは文中の「国家安康」「君臣豊楽」を、「国家安康」は家康の諱を分断し、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願い徳川家に対する呪詛が込められていると断定する。また林羅山は「右僕射源朝臣家康」(右僕射は右大臣の唐名)を「家康を射る」ものであると解釈している。
現在では方広寺鐘銘事件は、崇伝の強引な言いがかりによって引き起こされたとも取られているが、当時は名字と官職名もしくは通名等で呼ぶことが一般的であり、諱で呼ぶことは非常に無礼なことであった。そのことからも豊臣側の意図的な挑発あるいは、軽率な行為が徳川側の付け入る隙を与えたという見方もできるだろう。
南禅寺金地院の項でも触れたように、この事件によって以心崇伝は同じ南禅寺の禅僧であった文英清韓を駿府での拘禁へと追い込み、南禅寺からの追放と東福寺天得院の取り壊しとなる。
清韓は出家した後、文禄の役では加藤清正に従い朝鮮半島に渡ったように、清正そして豊臣氏とのつながりが深い。そのあたりが同じ南禅寺住僧で徳川家康の顧問であった金地院崇伝と政治的に対立し、それを契機となり宗教界からも追放されることとなったと思われる。事実、崇伝が元和5年(1619)に僧録となり、以後金地院僧録は崇伝の法系に属する僧で占められている。僧録は五山以下の諸寺の寺格決定やその住持の任免、所領・訴訟などの処理を行う役職であり、相国寺塔頭鹿苑院の絶海中津(1334~1405)が任じられて以来、同院の住持が兼務してきたものである。それを崇伝が南禅寺金地院に移してしまう。
蟄居中の文英清韓は林羅山と知り合うことにより、後に許されたと言われている。
現在に残る天得院の堂宇は天明9年(1789)に再建されたものであり、明治元年(1868)に山内の塔頭本成寺を合併して再興された。
天徳院の山門は東に向いている。この山門を潜ると東福寺保育園の大きな遊具が右手に見える。正面に運動場、その奥に園舎がある。天得院の方丈へは左手の小さな玄関から入ることとなる。現在の方丈南庭は一面苔に覆われている。奥行き方向が浅く、東西に長く感じる構成となっている。Google Mapで見る限り、間口:奥行が2:1の割合になっている。白砂が敷き詰められ、のびやかな感じを与える龍吟庵の南庭が3:2の割合であるのに比べると対照的である。あまり手を入れすぎずに、やや自然に任せた感じがする庭に、東側に開けられた中門から飛び石が続くように石組みが配されている。文英清韓の頃の作庭と言われ、桃山時代枯山水庭園と称している。昭和43年(1968)中根金作によって一部補修が行われているが、その際に庭にあるチャボヒバの樹齢が400年を越えることから、そのように推定されているようだ。藍色、白色など桔梗は350株、1500本が苔地全体に植えられていることから、廬山寺のように。「桔梗の寺」あるいは「花の寺」とも呼ばれている。 方丈の縁は庭の奥行きに合わせて出が浅い。庭を見るために縁に腰を下ろすと後ろを通ることが出来なくなる。そのため方丈建物内の畳敷きの廊下を歩かざるを得ない。この廊下の突き当りには花頭窓があり、その先に石燈籠が置かれ、非常にピクチャレスクな構図となっている方丈南庭は西側で鍵の手状に折れ曲がり奥書院の前庭となる。
方丈の西北には奥書院があり昼食が供されるようだが、まだ準備中のようだ。
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