廬山寺
天台系圓浄宗大本山 廬山寺(ろざんじ) 2008/05/13訪問
ウェスティン都ホテル京都をチェックアウトし、荷物を持って地下鉄東西線蹴上駅へ向かう。京都市役所前で下車し、荷物を駅構内のコインロッカーに入れ、地上に出る。京都市営バスに乗り、3つ目の府立医大病院前で下車する。廬山寺の山門はこの河原町通沿いにはない。一本西側の寺町通にあるため、府立文化芸術会館の角を左に折れると正面に京都御苑への入口と梨木神社の鳥居が見える。寺町通に入り北に200メートルくらい上ると右手に廬山寺の山門が現れる。
廬山寺は天台系の単立仏教寺院で圓浄宗の本山である。寺号は廬山天台講寺と称する。
廬山寺の起源は、天慶年間(938~947)比叡山天台18世座主元三大師良源(慈恵大師)によって創建された與願金剛院に遡る。與願金剛院の建立された地は北山とも船岡山の南とも言われている。廬山寺の公式HPでは船岡山の南と書いてあるので、これを信用せざるを得ない。寛元3年(1245)に法然上人の弟子の覚瑜が出雲路に廬山寺を開く。そして南北朝時代の応安元年(1368)廬山寺第三世で與願金剛院の住職も兼務していた明導照源上人によって2つの寺の統合がなされ、寺名も廬山寺から廬山天台講寺に改められた。そして円、密、戒、浄の四宗兼学道場となった。伝教大師最澄上人は比叡山延暦寺を開き、中国天台宗の開祖 智顗の説を受け継ぎ法華経を基本にしながらも、円(法華円教)・密(密教)・戒(大乗戒)・浄(念仏)の4つの異なった要素の融合を図ることで天台宗の発展を試みた。それが四宗兼学である。
応仁の乱では兵火に見舞われるが、元亀3年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際には、廬山寺は律家寺であるから焼打ちしないようにとの正親町天皇の女房奉書(女消息体で書いた文書)が明智光秀に下され、焼き討ちから免れた。その後、豊臣秀吉の寺町建設によって天正年間(1573~1593)に現在地に移った。天明8年(1788)の大火をはじめ、度々の火事により焼失を繰り返し、御仏殿(本堂)と御黒戸(尊牌殿)は寛政6年(1794)に、光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮両家の御下賜をもって回想されたものである。明治維新までは御黒戸四箇院と呼ばれ、宮中の仏事を司る4つの寺院(二尊院(右京区)、般舟三昧院(上京区)、廬山寺(上京区)、遣迎院(北区))のひとつであった。廃仏毀釈で宮中から外されたが、明治天皇の勅命で復興がなされ、現存する御黒戸四箇院の唯一の摂家門跡ということである。ちなみに黒戸とは内裏の御内仏の扉が黒塗りだったことに由来している。
廬山寺が紫式部邸の上に建てられたのが分かったのは、昭和40年(1965)のことであった。紫式部の曽祖父にあたる藤原兼輔は、賀茂川の堤に風流な邸宅 堤第を建てた。そのため中納言である兼輔を堤中納言と呼ばれていた。この堤第が現在の廬山寺近辺にあったと推定されている。堤第はこの後、藤原為頼・為時兄弟へと伝領された。この藤原為時は紫式部の父に当たるため、堤第で紫式部は生まれ育ち、そして結婚生活を送り、一人娘の賢子を育て、源氏物語を執筆した。「源氏物語」を執筆したとされている。廬山寺がこの地に移ったのは、先にも書いたとおり天正年間と紫式部の時代から、はるか後の時代のことであり、そのような事情も知る由がない。
都名所図会では、北側から庫裏、本堂とその裏の堂宇そして地蔵堂の姿が確認できる。現在、この本堂は大師堂、そしてその裏の堂宇は本堂と呼ばれている。本堂の脇には御尊牌殿(黒戸)がある。寺町通に面して2つの門がある。これは都名所図会にも描かれている。閉められている南側の門は、現在も本堂拝観に使用している玄関へつながる門として作られ、北側の門は大師堂のために作られたものであろう。門の造りも南側の方が重厚な感じを与える。
廬山寺の庭は源氏庭と呼ばれている。廬山寺の公式HPでも、
源氏庭は平安朝の庭園の「感」を表現したものであり、白砂と苔の庭です。
とあるように、昭和40年(1965)以降に整備されたものであろう。
庭は本堂の南側に造られている。そのため庭の南側の塀は寺町通との境界ではなく、隣地の京都府立医科大学との境である。塀の向こう側に見えた樹木が梨木神社のものと誤解していた。航空写真からは一目瞭然であるが、この庭は白砂の上にたなびく雲の姿を苔で表現している。庭の正面である本堂から見て左右にたなびくのであるならば、見る者に分かり易いと思われるが、ここでは前後方向にたなびいている。なかなかこのような視方向では認識できないのではないだろうか?とも思うが、おそらく御尊牌殿の縁かこの庭が見れると異なった印象を得られるのかも知れない。
しかしその代わりに前後方向の流動感が生み出され、さほど広くない庭が大きく見える効果を出している。背の高い樹木は中央部左に2本と右の塀際に1本植えられている。中央の2本の松は枝を水平に伸ばし、白砂に影を落としている。この松の足元に大きな石が置かれているが、これはこの庭が紫式部が暮らした邸宅の跡に造られたことを示す碑である。 この時期まだ開花していないが、苔地には桔梗が植えられている。群生しているのでもなく、距離を置いて植えられている。「fushimi_no_occhan」さんのブログには開花時の写真が掲載されている。この写真を見るとまた趣の異なった庭となっていることが分かる。
廬山寺は源氏庭以外にも、閑院宮典仁親王の廬山寺陵が本堂の北東にある。
老中松平定信は皇位についていない人間に皇号を贈るのは先例の無いこととして反対した。朝廷は徳川時代以前の古例を持ち出し、朝幕間の学問的論争に発展した。光格天皇は寛政3年(1791)群議を開き、参議以上の公卿の賛意を得て尊号宣下の強行を決定した。
前関白で典仁親王の実弟である鷹司輔平は事態を憂慮し、朝廷と幕府の全面対決を解消すべく、尊号を断念する代わりに典仁親王の待遇改善を幕府に求めた。光格天皇は後桜町上皇と輔平の説得を受け入れ、尊号一件から手を引き、幕府側も勅使として江戸に下った中山愛親と武家伝奏の正親町公明らの公家に処分を下し、九州で活動していた勤皇家の高山彦九郎を処罰した後、典仁親王に1000石の加増を行った。
この事件の背景には、中世以来絶えていた朝廷の儀式の復興に熱意を傾け、朝廷の権威の復権を努めた光格天皇の意志があった。朝廷が近代天皇制へ移行する下地をつくったと評価されている所以でもある。明治天皇は典仁親王の玄孫にあたるということで、典仁親王は明治17年(1884)に慶光天皇(慶光院とも)の諡号と太上天皇の称号が贈られている。現在の皇統は光格天皇から続いているものである。このような追尊天皇は慶光天皇を含めて6名存在し、在命中に上皇号を謚された尊称天皇は2名いる。もちろん天皇として即位していないため、宮内庁の天皇陵には廬山寺陵は掲載されていない。 さて幕府側の松平定信はその後、第11代将軍 徳川家斉と対立し、寛政5年(1793)に海防のために出張中に辞職を命じられた。これは家斉は、父である一橋治済に大御所の尊号を贈ろうと考えていたのだが、尊号一件の結末でそれができなくなったためである。一橋治済は、田沼意次が幕政を掌握する時期より、松平定信ら反田沼派の黒幕として運動していた。10代将軍・徳川家治の死後、天明6年(1786)に長男 家斉が将軍職に就任すると、田沼意次の罷免、田沼派の一掃を行わせた。松平定信も一度は田沼意次と手を組みながら幕政から追い出すことを行った治済の政治的影響力の大きさを牽制するためにも尊号一件は妥協できなかったことかもしれない。
廬山寺の墓地の東側(河原町通側)、バイオカレッジ京都との境に御土居が残されている。御土居は、豊臣秀吉が天正19年(1591)に京都の都市改造の一環として多くの経費と労力を費やして築いた土塁。昭和5年(1930)、市内に残る御土居のうち8箇所が、京都の都市の発達をたどる遺構として史跡に指定され、昭和40年(1965)に北野天満宮境内が追加され、現在9箇所が指定地となっている。
また観音菩薩をまつる京都府京都市の三十三箇所の寺院からなる観音霊場巡りである洛陽33所観音霊場の第32番札所でもある。広域で巡礼が困難な西国三十三所に代わるものとして、平安時代末期、後白河法皇の勅願により京都内の寺院で開創された。その後衰退と再興を繰り返し、寛文5年(1665)霊元天皇の勅命により中興されたが、明治の廃仏毀釈を経て長く中断していた。寛文中興340年を迎えたことを記念し、平成17年(2005)平成洛陽三十三観音霊場会(森清範会長・清水寺貫主)が発足した。金戒光明寺、清水寺、六波羅蜜寺、蓮華王院三十三間堂、泉涌寺、教王護国寺など有名な寺院も加わっている。
京都七福神の三番毘沙門天でもある。他でも同じように京都にも七福神巡りは多くある。佐麻呂さんのHP(http://park1.wakwak.com/~hisamaro/index.html : リンク先が無くなりました )では全国の七福神が紹介されているが、この中にも京都七福神を含む多くの京都の七福神が調べられている。御黒戸四箇院のひとつ遣迎院も含まれている。
大師堂における節分の「追儺式鬼法楽」、通称「鬼おどり」は赤青黒の鬼に紅白の餅と豆を投げて悪霊退散を祈願する行事で知られている。開祖元三大師が、護摩供を妨げようとする鬼を法力と法器で降伏させた故事に因んでいる。鬼は、人間の三つの煩悩「貪欲」「瞋恚」「愚痴」を表し、追い払うことで厄払いや長寿を願うという。
源氏庭の南側を通ると廬山寺陵と御土居に行くことができたが、今回は下調べが甘かったため行けずじまいだった。
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