小督塚
小督塚(こごうつか) 2008年12月21日訪問
渡月橋を渡り切り桂川の左岸、すなわち嵯峨に入る。桂川の川岸の三条通を西に進み、最初の道を北側に入ると、左手に小督塚がある。
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿で、中山家の始祖となった中山忠親の日記・山槐記によると治承4年(1180)の時に小督は23歳であったとされている。このことから小督は、桜町中納言藤原成範の娘として保元2年(1157)に生まれたと考えられている。類い稀な美貌を持ち、琴の名手となった小督は、宮中に上がり高倉天皇の寵愛を受けるようになった。高倉天皇は応保元年(1161)生まれであるから、小督の方が年上であったことになる。
中宮・平徳子に仕える女房衆の中に、葵前という女童がいた。葵前は高倉天皇に見初められ、深い寵愛を受けるようになると、女童であるにもかかわらず葵女御という陰口が宮中で聞かれるようになった。その噂を聞いた天皇は、絶ち難い思いの中で葵前を遠ざけるようになる。藤原基房は葵前を養女に迎え、身分を上げた上で御傍に置くことを提案した。天皇はこの申し出を、「まさしう在位の時、さ様の事は後代のそしりなるべし」と断っている。やがて葵前は体調を崩し宮中を去り里へ戻るが、僅か5、6日後に亡くなっている。葵前を失った天皇は深く悲しみ嘆き過ごしたとされている。
そして悲嘆にくれる天皇を哀れんだ中宮は、自らの女官である小督を引き合わせたとされている。天皇の寵愛を一身に受けるようになると、中宮である娘を差し置いて小督に溺れる事に怒り狂った平清盛は小督を宮中から追い出してしまった。
小督は清盛を恐れ、嵯峨に身を隠してしまう。深く嘆いた天皇は北面の武士・源仲国を呼び寄せ、小督を宮中に呼び戻すように密かに命じた。仲国は嵯峨の亀山で想夫憐の琴の音を聞きつけ、音のする方に向かうと粗末な小屋に小督が隠れ住んでいた。仲国に諭され隠れるように宮中に戻った小督は再び高倉天皇の寵愛を受け、治承元年(1177)第二皇女・範子内親王を産む。中宮徳子の第一子であり、後に安徳天皇となる第一皇子・言仁親王は治承2年(1178)誕生であるから、その前年に当たる。ちなみに高倉天皇の第一皇女・功子内親王が生まれたのが安元2年(1176)であるから、小督の子が第一子であった訳ではない。この後、平家物語では激怒した清盛により小督は宮中から追放されたとしている。高倉天皇は治承4年(1180)に言仁親王に皇位を譲り、翌年の治承5年(1181)1月14日に21歳の若さで崩御している。また高倉天皇の心痛の元となってきた平清盛が亡くなるのも同年の閏2月4日である。
高倉天皇が葬られたのは、清水寺の南東にあたる後清閑寺陵である。小督は御陵の近くに庵を結んで生涯にわたり天皇の菩提を弔い44歳でこの世を去ったと言われている。そのため清閑寺にある宝筺印塔、”比翼塚”が小督の墓とされている。余談になるが、この小督晩年の逸話をもとに製作された絵画が黒田清輝の「昔語り」である。残念ながら本画は焼失してしまい、現在では下絵しか残っていない。
渡月橋の北詰には、琴きき橋跡の碑が建つ。小督の弾く想夫恋を源仲国が聞いたと伝える橋跡を示すものとなっている。また小督の草庵は法輪寺にあったとも言われている。法輪寺の本堂後ろには小督の供養塔と伝わる小さな石塔がある。この石塔は現在のところ非公開となっている。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会では小督塚を下記のように記し、そして小督について平家物語をもとに説明している。
小督桜は大井河の北三軒茶屋の東、薮の中にあり
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