去来墓
去来墓(きょらいのはか) 2008年12月21日訪問
落柿舎と有智子内親王墓の前を戻り、再び野宮神社から来た道を100メートルくらい北に進むと、右手に去来墓と西行井戸がある。
落柿舎の項で触れたように、宝永元年(1704)向井去来は聖護院近くの岡崎村で死去している。
落柿舎は去来の別邸であり、本邸は京都の中心にあった。伊藤洋氏の制作されたHP・芭蕉DBの芭蕉総合年表の元禄4年(1691)4月21日の項には、「朝、凡兆夫妻、夕方、去来、市中に帰りる。」という記述がある。また4月24日にも「夕方、去来・凡兆・千那が来訪。凡兆は京市中に帰る。」とある。この元禄4年は、芭蕉が落柿舎に4月18日から5月4日まで滞留し嵯峨日記を著した時期である。この期間常に去来が同居した訳では、落柿舎を芭蕉に提供していた方が実体に近いのではないだろうか。この時期以外も、去来は市中に暮らし時折落柿舎を訪れていたのであろう。
話しを再び宝永元年(1704)に戻す。去来は9月10日に享年54歳で亡くなっている。翌11日に真如堂で葬儀が行われ、真如堂にある向井家の墓所に葬られている。そのため嵯峨野にある去来の墓には去来の遺髪を納めたとされている。この地は天龍寺の塔頭・弘源寺の境外墓地である。
天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会の落柿舎の項には下記のように記されている。
小倉山下緋の社のうしろ山本町にあり、俳士落柿舎去来の旧蹟なり。
小倉山下緋の社は有智子内親王墓のこととされている。この記述を信じるならば、柿の木が40本植えられていたと言われる落柿舎の敷地は、この去来墓と有智子内親王墓の間となる。
ニ尊院や祇王子、滝口寺そして化野念仏寺を結び鳥居本に至る道から、東に少し入った場所に去来墓の入口がある。入口の右手に「去来塚百人一句句碑」「西行井戸百人一首歌碑」の石碑が建つ。この入口までと、さらにその先にある西行井戸までの間には、敷地境界を示すように歌碑が並ぶ。
入口から墓地に入ると、正面の斜面に沿って壇状に6段に分けて石碑が並べられている。近づいてみるとそれぞれが句碑であることが分かる。この句碑の前にはいくつかの無縫塔も並ぶが、これは僧の墓だろうか?落柿舎の公式HPには、この去来墓には、4世庵主の吾同、8世の栢年、11世の芝蘭子の墓があるとしている。
去来墓はこの句碑の列の左手前に植えられた木のもとに小竹で組まれた垣の中にある。高さ30センチメートル位の細長い自然石に去来と陰刻されている。駒札がないと見過ごしてしまうほど目立たない墓である。
高浜虚子は
凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり
という句を残している。去来は生涯芭蕉の弟子として師を敬い続けた謙虚な人だから墓も小さいと考え、虚子はこの句で自分を小さく虚しくすることの美しさを表現している。虚子がそのように感じるほど質素なものである。
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