東福寺 霊雲院 その2
東福寺 霊雲院 (れいうんいん)その2 2008年12月22日訪問
東福寺の塔頭・同聚院を出て、隣の一華院との間の道を西に入っていく。同聚院と一華院の2つの塔頭の白壁に囲まれた参道は東福寺の境内の中でも美しい風景の一つである。ただ長方形の敷石を5本並べた延段は、非常に簡素であるが力強い表現でもある。この参道の突き当たった先から、やや左手に建てられた霊雲院の赤い山門へ、延段は方向を変えながら結んでいく。何気ない意匠であるが破綻のない表現で纏められている。
霊雲院は南北時代の明徳元年(1390)東福寺第80世の岐陽方秀が開創した寺院である。当初は不二庵と呼ばれ、文明5年(1473)に霊雲院に改められている。
岐陽方秀は康安元年(1361)讃岐に生まれている。山城国の安国寺において霊源性浚について出家する。東福寺の首座を経て、生国の讃岐の道福寺の住持となる。応永18年(1411)東福寺の第80世となり、同25年(1418)には天龍寺の第64世となる。この他にも南禅寺第96世も歴任する高僧であった。明徳4年(1394)遣明船が明国から四書や詩経集伝などを舶載した時、方秀がはじめてこれらに注釈を加えて講義を行っている。そして第4代将軍・足利義持に篤く帰依されている。後に中風を患い、不二軒に退居している。応永31年(1424)死去。享年64。
霊雲院は遺愛石のある寺院としても有名であった。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会にも不二軒という名で下記のように記されている。
不二菴と号す、湘雪和尚の住房なり
この湘雪和尚とは、霊雲院第7世住持の湘雪守沅である。肥後熊本の松井仁平次の次男として生まれている。磨武蔵研究会による武蔵研究サイト(http://www.geocities.jp/themusasi2de/bukou/b205.html : リンク先が無くなりました )によると、守沅の父・松井仁平次の叔父は、第13代将軍・足利義輝の家臣として仕えた松井康之である。康之は、将軍・義輝が松永久秀らによって暗殺されると、細川藤孝と行動を共にするようになる。後に織田信長の家臣となったものの、実質的には藤孝の家臣であったとも言われている。松井仁平次は兄の松井半右衛門とともに、叔父の松井康之に従っていたため、松井姓を賜っていることから細川家と密接な関係にあったことが分かる。湘雪守沅の長兄である松井外記は島原役で戦死したが、子孫は長岡家家臣として八代で存続する。弟には角田団兵衛と松井庄次郎がいる。庄次郎は沢村大学の養子となり、細川忠利側近として仕え、知行千石となっている。すなわち守沅を除き、兄弟は細川藩の武士となっている。
そのような関係から、寛永年間(1624~44)湘雪守沅が住職として霊雲院へ移られる際、第2代藩主細川忠利は500石の禄を送ろうとした。しかし守沅は、出家の後に禄の貴きは参禅の邪気となるので、庭上の貴石を賜り寺宝としたいと願い出た。細川家では、遺愛石と銘じた石を須弥台と石船とともに寄贈している。
先の都林泉名勝図会の遺愛石の記述は書きの通りである。
当院庭中にあり。相伝ふ、此名石初は肥後大守細川光尚侯の持物なり。曽て湘雪和尚細川家にちなみて後にこゝに住す。其時大守より寺産五百石を与へんと命じ給ふ。湘雪拝謝して云、出家の後禄の貴は参禅の邪鬼なり、願くばこれに換て庭上の奇石を賜らば寺宝とすべしと乞ふ。茲銘に因み台に石刻の須弥壇なる物あつて、其上に石槽をすへ、其中にあり、無双の名石なり。諸名家の記文あり、軸物両巻に満る、初巻の二三をここに挙る。
とし、徳川幕府の制度作りに携わった朱子学派儒学者の林羅山(林道春)、その羅山の子である林春斎、そして羅山と親交があり詩仙堂を造営した石川丈山、公家で歌人であった冷泉為景などの賛としての詩歌が連なっている。また都林泉名勝図会には遺愛石の図会も残されている。
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