崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵
崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵(こうかもんいんつきのわみなみりょう) 2008/12/22訪問
前回九條陵を訪問した際は、陵の場所が良く分からず東福寺の方に道順を尋ねた。どうも聞いた方もあまり詳しくなかったようで、おおよその場所の情報しか得られなかった。大雑把な地図を頼りに、日下門の前を南に折れ、六波羅門・勅使門の前を過ぎて数分歩くと比較的新しい住宅地の中に迷い込んでしまい。ついに見つからないのではと思った時に、大きな木の下に碑があるのに気が付いた。碑を読むとここが九條陵と月輪南陵への参道の入口であることが分かった。 今回は前回の道筋と光景を覚えていたので、何も迷うことが陵の入口にたどり着くことができた。石段を数段登ると参道は直角に折れ、東方向へ真直ぐに緩やかな勾配で伸びていく。歩いてきた参道を振り返ると、西方向の洛南が見渡せる高台となっていることに気が付く。この参道の途中の右側に崇徳天皇中宮皇嘉門院月輪南陵が現われる。
この高台には、皇嘉門院月輪南陵と仲恭天皇九條陵、そして鳥羽伏見戦防長殉難者之墓が祀られている。崇徳天皇の中宮である皇嘉門院と仲恭天皇は時代的にも異なり、2つの陵がこの地に築かれたのは、たまたまの偶然であると思っていた。しかし、それぞれの陵に祀られた方の歴史を読んでいくと、保元の乱と承久の乱という2つの乱に巻き込まれた人々であることが見えてくる。
この皇嘉門院月輪南陵では、皇嘉門院の実家である摂関家・藤原氏の内紛が、夫である崇徳天皇に与えた多大な影響について考えてみたい。それは保元の乱を契機に、摂関家中心の政治から武家集団に政権が移行する過程を眺めることとなる。そして乱の後に行われた処罰により、崇徳上皇は讃岐に流され憤死する。これが怨霊伝説として復活し、700年後の慶応4年(1868)の白峯神宮創建につながっていく。
崇徳天皇は、元永2年(1119)鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第1皇子として生まれている。真実は分からないが、刑部卿源顕兼によって纏められた鎌倉初期の説話集・古事談には、崇徳天皇は白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が残されている。叔父子ということで分かるように、白河法皇は鳥羽天皇の祖父に当たる。いずれにしても崇徳天皇は父である鳥羽天皇からは疎んじられ、不仲であったことは確かなようだ。
保安4年(1123年)5歳で皇太子となり、鳥羽天皇の譲位により践祚、同年2月19日に即位している。この月輪南陵の主である関白・藤原忠通の長女である藤原聖子が入内したのが、大治4年(1129)のことであった。そして同年に白河法皇が亡くなり鳥羽上皇の院政が開始する。翌大治5年(1130)聖子は崇徳天皇の中宮に冊立されている。もともと、崇徳と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれなかった。保延6年(1140)女房兵衛佐局が崇徳の第一皇子重仁親王を産まれ、聖子と父の忠通は不快感を抱いたとされている。これが、藤原忠通が後に起こる保元の乱で崇徳上皇を敵視する遠因となったとも考えられている。
永治2年(1142)崇徳天皇は異母弟である近衛天皇に譲位し上皇となる。しかし実権は父である鳥羽法皇に握られていた。その上自分の子ではない弟に譲位しているため、院政を行うことのできない上皇となってしまった。しかし崇徳上皇には重仁親王がおり、近衛天皇が即位した年に親王宣下を受けている。類まれな美貌を持ち、鳥羽天皇の皇后として寵愛を受けていた美福門院(藤原得子)は、重仁親王を我が子の様にかわいがっていた。そのため次の皇太子に最も近い地位にあると目されていた。もともと病弱であった近衛天皇が久寿2年(1155)に死去すると、今度も皇位継承者の決定を鳥羽上皇と中宮の父・藤原忠通の主導の下で行われる。
宮廷では崇徳上皇が藤原頼長と結んで天皇を呪い殺したという噂が流れる。これを知った鳥羽法皇は孫王の重仁親王ではなく上皇の弟の雅仁親王を後白河天皇として即位させてしまう。これは天皇の第1皇子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎであった。皇位継承の望みが薄くなった守仁親王は仁平元年(1151)伯父である覚性法親王のいる仁和寺に入っている。しかし近衛天皇の病状が次第に悪化すると、鳥羽法皇の孫王であるということが注目されるようになる。そして天皇が崩御すると、守仁親王は仁和寺から戻り、親王宣下を蒙り守仁と命名される。即日立太子し、翌保元元年(1156)3月5日には美福門院の皇女・姝子内親王を妃に迎え、次の天皇としての準備が整う。これも全て上記の崇徳上皇による呪詛の噂によって進められたと思われる。
このような崇徳上皇と後白河天皇の反目に摂関家の内紛が加わる。上皇の中宮・聖子の父である藤原忠通には後継者に恵まれなく、異母弟の頼長を養子に迎えている。しかし康治2年(1143)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を自らの子孫に継承させようと望み対立するようになる。忠通の父である忠実は頼長側につき、久安6年(1150)忠通の氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶してしまう。鳥羽法皇はどちらにも肩入れせず曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で頼長に内覧の宣旨を下す。ここに関白と内覧が並立する異常事態が始まる。さらに崇徳上皇と後白河天皇の母である中宮・待賢門院(藤原璋子)と近衛天皇の母である美福門院が加わり、美福門院・藤原忠通・院近臣と崇徳・藤原頼長の対立構図が明らかになる。そのような状況下で、保元元年(1156)7月2日に鳥羽法皇が崩御する。法皇の存在によって均衡が保たれていた崇徳と後白河の緊張関係は、ついに崩壊する。
7月9日夜、崇徳上皇は少数の側近とともに鳥羽田中殿を脱出し、洛東白河にある統子内親王の御所に押し入る。それぞれの陣営は新興の武家集団を陣営に引き込む。上皇側には、源為義、平忠正等がつき、天皇側には源義朝、平清盛等が加わる。
同10日に崇徳上皇は藤原頼長とともに生き残りを図るために兵を挙げる。しかし上皇側は翌11日には平清盛・源義朝らの奇襲攻撃を受け敗走を余儀なくされた。これが保元の乱である。
藤原頼長は白河北殿を落ちる際に矢を首に受け、奈良坂において客死。頼長の父である忠実も罪に問われ流罪になりかかるが、忠通のとりなしで幽閉の後、隠棲することとなる。これは忠実の所領が没収され、摂関家の権益が失われることを防ぐための処置とも見られている。このように乱の発端となった摂関家の内紛は曖昧に片付けられたのに対して、武家への処罰は厳しかった。薬子の変の後、公的には行われなかった死刑が復活し、源為義、平忠正、平家弘ほか有力武将は、一族もろとも斬首されている。為義の八男で勇猛な武将として知られていた源為朝も捕らえられ、伊豆大島に流刑となっている。それでも摂関家の権益をある程度は守ることもできたが、この保元の乱によって源為義、為朝父子を始めとして清和源氏の多くが死罪・流罪となり、摂関家の武力の低下は著しいものとなった。それが平治の乱から平家の台頭、そして武家社会への移行を早めることとなった。
保元の乱の敗戦により崇徳上皇は讃岐に配流される。天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。出家した皇嘉門院はそのまま京に留まることとなった。中宮という立場から上皇に随侍し身の回りの世話を行うことはできないのが通例であったようだ。いずれにしても讃岐への同行は、新たな権力の中枢に留まった藤原忠道が許すはずもなかった。
保元物語では崇徳上皇は仏教に深く傾倒し、五部大乗経の写本作りに専念したとしている。そして完成した写本を京の寺に納められることを願い、朝廷に献上した。しかし呪詛が込められていると疑われ、写本は崇徳上皇の元に送り返されている。この処置に激しく怒った崇徳上皇は、舌を噛み切り写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。崇徳上皇は二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164)46歳で崩御した。
崇徳院の憤死により、当時の人々の多くは新たな怨霊伝説の始まり感じていただろう。安元3年(1177)延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れていく。この時期より崇徳の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。すでに安元2年(1176)は建春門院、高松院、六条院、九条院が相次いで死去している。このように後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始めたところに、大事件続発し怨霊伝説が語られ始めたのであろう。また異郷に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるためその神霊を京都に移すよう、孝明天皇が幕府に命じ、明治天皇がその意を継ぎ社殿を造営したのが京都上京にある白峯神宮である。白峯神宮の創建は、なんと崇徳院の死から700年も経った慶応4年(1868)のことである。
藤原忠道は、崇徳院が讃岐で崩御される長寛2年(1164)に亡くなっている。父である忠通の死後、九条家の祖となる異母弟の兼実の後見を受け、皇嘉門院は養和元年(1182)まで生き永らえている。治承4年(1180)には兼実の嫡男良通を猶子として、忠通伝来の最勝金剛院領などを相続させた。これが九条家の家領の礎となった。
ここまでは九条家三代目にあたる道家が東福寺建立を発願する嘉禎2年(1236)以前の歴史であり、この陵墓が最勝金剛院の真南に位置するのも理解できるところである。
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