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東福寺 塔頭 その2 



東福寺 塔頭(たっちゅう)その2 2008年12月22日訪問

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東福寺 大樹院

■01 万寿寺 白河上皇が皇女郁芳門院内親王の菩提を弔うため、永長元年(1096)下京区万寿寺通高倉にあった六条内裏の中に建立された六条御堂がはじまり。
 正嘉年間(1257~9)に十地上人覚空とその弟子慈一房湛照(宝覚禅師)により、浄土教を修する寺となったが、東福寺の聖一国師と親しくその教えを受けるに及び禅宗となし、弘長元年(1261)に万寿禅寺と改めたと伝わる。往時の規模については明らかではない。
 室町時代 当初は十刹の第4位であったが、後に五山に昇格し、更に京都五山の第5位に数えられたが、永享6年(1434)の大火に罹災し、寺運は次第に衰微していった。東福寺の塔頭三聖寺が開山湛照と同じところから、天正年間(1573~92)に現在の地に移転した。三聖寺は鎌倉時代には禅宗式の大伽藍を持つ有力寺院であったが次第に衰微し、明治6年(1873)に万寿寺に合併された。そして明治19年(1886)には万寿寺が東福寺の塔頭となり、愛染堂は東福寺本坊境内に、仁王門は東福寺北門を入った北側に移築された。いずれも三聖寺の建物であった。本尊阿弥陀坐像やニ天門安置の金剛力士ニ体は京都国立博物館に寄託されている。昭和10年(1935)には京都市電と東山通、九条通の開通により境内が分断され、万寿寺は東福寺の飛び地のような位置に置かれることとなった。

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東福寺 万寿寺

■02 勝林寺 東福寺の毘沙門天とよばれ、本堂に毘沙門天立像(藤原)を安置する。
 この像は九条道家の光明峰寺建立以前のものといわれ、その後、久しく東福寺仏殿の天井内にひそかに安置されていたが、江戸時代に海蔵院の独秀令岱和尚によって発見され、勝林院の本尊として祀られた。
 他に大日如来坐像(鎌倉)・聖観音立像(鎌倉)・不動明王立像(鎌倉)等があり、いずれも東福寺建立以前、この付近にあった廃寺の遺仏を移したものと伝える。

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東福寺 勝林寺

 東福寺境内北端に位置する。もともと光明蔵院と言われていたが、文永11年(1234)に東福寺13塔頭の盛光院と改める。その後文化3年(1265)の災禍に遇い文化5年4月に宝勝院本堂を移築して庫裏とする。本堂は昭和5年に新築。
 開山は足利宗家第4代当主足利泰氏の子供である勅諡仏印禅師。早くに出家し、天台、真言を学び宋に渡り修行、帰国後、東福寺第10世住持となる。豊後に万寿寺を建立し元亨2年(1322)78才で没する。豊後に60余ヶ寺の末寺を有していたが、現在は14ヶ寺になっている。

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東福寺 盛光院

■04 海蔵院 鎌倉末期の仏教史家であり、また五山文学の先駆者として知られる虎関師錬の退隠所。近世初頭は近衛家の香華院となり、近衛前久(竜山公)・信尹(三貘院)の墓もあった。後水尾天皇第二皇女昭子内親王が近衛尚嗣の室となり、薨後に葬られたため、墓は宮内庁の管理するところとなり、近衛家一族の墓は大徳寺へ移された。

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東福寺 海蔵院
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東福寺 海蔵院 庭園

 霊源院は観応年間(1350~51)後醍醐天皇の皇子、龍泉和尚によって天護庵と号し創建された。龍泉和尚入寂後の応永年間(1394~1427)在先希譲和尚により霊源院に改称される。
 天正15年(1582年)本能寺の変において、三河の武将水野忠重を追手から匿ったことより、水野家とのは親密な関係が築かれる。豊臣秀吉主催の北野花見の際には、水野家の茶屋に屏風を貸すなどの便宜を図る一方、水野家も厚く恩義を感じ、忠重以降断絶となる5代の間、代々の分骨墓を霊源院に建立し、霊源院への報恩を家訓とし、寄進を続ける。

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東福寺 霊源院

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東福寺 龍眠庵

 性海霊見が貞和2年(1346)に創建した東福寺の塔頭の一つであるが、応仁の乱に罹災し、慶長4年(1599)11世住持安国寺恵瓊によって再興される。
 現在の書院は旧本堂といわれ、堂内の一部を利用してつくられた四畳半台目の茶室「昨夢軒」は、豊臣秀吉の没後、石田三成や小早川秀秋・宇喜田秀家および恵瓊が会合し、関ケ原の戦いの謀議をおこなったと伝わる。
また鳥羽伏見の戦では長州藩士の屯所になったことより、戦死者のうち48名が退耕庵に葬られた。

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東福寺 退耕庵

■08 同聚院 室町時代中期の文安年間(1444~48)に僧文渓元作がその師琴江令薫(東福寺第129世住持)を推して開山として創建した山内塔頭。定朝の父・康尚の作といわれる本尊・不動明王坐像は、寛弘3年(1006)に藤原道長が旧法性寺に建立した五大堂の中尊と伝わる。他の四明王は散逸したにも拘らず、本尊のみが残ったのは、火除けの像として古来より崇敬されている。

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東福寺 同聚院
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東福寺 同聚院 不動明王堂

■09 霊雲院 その1 その2 霊雲院は明徳元年(1390)に、天龍寺第64世、南禅寺第96世、東福寺第80世に歴任した高僧 岐陽方秀が開いたとされ、当初は不二庵と呼ばれていた。
 湘雪守沅は肥後熊本の人で、時の藩主細川忠利(細川ガラシャの子)と親交があった。湘雪が第7世住職として霊雲院へ移られる時に忠利は500石の禄を送ろうとしたが、「出家の後、禄の貴きは参禅の邪気なり。庭上の貴石を賜れば寺宝とすべし」と辞退した。そこで細川家では、遺愛石と銘じた石を須弥台と石船とともに寄贈した。古来無双の名石とたたえられ、かつては林羅山や石川丈山・冷泉為景・芝山持豊等、多くの文人・歌人が詠じ、歌を賦し、あるいは文を寄せた。
西郷隆盛と僧月照が密議を交わした寺、日露戦争中のロシア人捕虜収容所という歴史も持っている。

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東福寺 霊雲院
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東福寺 霊雲院 九山八海の庭

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東福寺 一華院

 永仁2年(1294)東福寺第4世住持、白雲慧暁が開創した塔頭。はじめ西陣白雲村にあったが、応仁の乱後、東福寺に移されたと伝わる。

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東福寺 栗棘庵

 大永年間(1521~28)彭叔守仙が営んだ退隠所であったが、明治4年(1871)に明暗寺(普化宗)を継いだことから一に明暗寺とも称する。
 明暗寺とは虚無僧の始祖と仰ぐ虚竹禅師朗庵を開山とする虚無僧縁の寺であり、これに因んで今では尺八根本道場と仰がれ、毎年秋には尺八を愛好する人が全国から集まり、盛んな献奏大会をおこなうならわしになっている。

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東福寺 善慧院

 応永27年(1420)関白九条満家が創建。天文15年(1546)関白九条稙通によって重修されたが、慶長の火災後、天保2年(1645)左大臣九条道房が旧殿を寄せて再興したものが現在の建物。

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東福寺 大機院

■14 龍吟庵 その1 その2 東福寺の第3世住持無関普門(大明国師)の住居址でその墓所。
 大明国師は、建暦2年(1212)に信濃国に生まれる。はじめ長楽寺の栄朝に学び、次いで上京し、聖一国師のもとに5年間参禅する。建長3年(1251)宋に渡り、12年の修行の後帰朝し、再び聖一国師の下で、その法を嗣ぐ。
 一条実経の招きに応じ、弘安4年(1281)東福寺の第3世住持となり、亀山上皇の南禅寺創建に当たり、正応4年(1291)開山として招かれる。しかし病を得て東福寺に帰山し、同年80歳で没する。その後、元享3年(1323)に後醍醐天皇より大明国師の諡号を賜る。

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東福寺 龍吟庵
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東福寺 龍吟庵

■15 即宗院 その1 その2 その3 嘉慶元年(1387)島津氏久が、剛中玄柔(東福寺第54世住持)を開山として建立した島津家の菩提寺。即宗院は氏久の法名「齢岳立久即宗院」に因る。
 山内成就院の南にあったが、永禄12年(1569)の火災の後、慶長18年(1613)に島津義久により現在の地で再興される。
 清水寺の勤王僧 月照上人が安政4年(1857)東福寺の霊雲院より採薪亭に移り住み、ここで50日間、玉体安穏王政復古を祈った。西郷隆盛もまたここに来て密かに討幕の謀議を行ったと伝わる。
 慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦の際は、薩摩兵士の屯営となった。山頂にはこのときに戦死した薩摩藩士の名を記した石碑五基および西郷隆盛の筆になる「東征戦亡之碑」が建つ。

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東福寺 即宗院
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東福寺 即宗院 東征戦亡之碑

■16 天得院 天得院は正平年間(1346~70)無夢一清によって開創、玉渓慧格を請して開山した道場。東福寺五塔頭のひとつであったが、寺勢は衰退していった。大機慧雄禅師によって一度は再興されたが、東福寺の住持であり南禅寺の住持にもなった文英清韓が、慶長19年(1614)豊臣秀頼に請われて方広寺の鐘銘(国家安康君臣豊楽)を撰文したことから、南禅寺から追放され、その菴であった天得院は打ち壊された。現在に残る堂宇は天明9年(1789)に再建されたものであり、明治元年(1868)に山内の塔頭本成寺を合併して再興された。
 書院前庭はやや荒廃しているが、東西にのびた矩形の地割に石組みを配し、美しい苔によって一面に覆われた文英清韓長老の頃の作庭と言われる枯山水の庭。昭和43年(1968)中根金作によって一部補修が行われた。

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東福寺 天得院
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東福寺 天得院

■17 芬陀院 芬陀院は元亨年間(1321~24)に時の関白一条内経が東福寺開山・聖一国師の法孫にあたる定山祖禅を開山として創建した。以後、一条家の菩提寺とされている。
 元禄4年(1691)に堂宇を焼失したが、関白一条兼輝により再建された。しかし宝暦5年(1755)の火災により再び堂宇を失うも、桃園天皇の皇后恭礼門院の御所の一部が下賜され再興された。その後、明治32年(1899)昭憲皇太后から御内帑金を賜り改築したものが現在の芬陀院の建物。

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東福寺 芬陀院
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東福寺 芬陀院 雪舟の庭

■18 東光寺

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東福寺 東光寺

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東福寺 桂昌院

 文永年間(1264~75)南山士雲によって創建された山内塔頭。都林泉名勝図会(「双鵝石」・「獅子石」と称する奇岩は現存しない)に紹介されるように林泉の美を以って知られたが、現在は荒廃している。
 南山士雲墓は竹薮の生い茂る方丈背後の奥深い墓地の北にある。泉涌寺の開山塔の中国風なのに対し、これは純日本風の無縫塔である。
 付近には江戸後期の儒医吉益東洞・南涯父子墓および中西深斎・鷹山父子墓や兵学家の柏淵石門の墓等がある。

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東福寺 荘厳院

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東福寺 願成寺

 正応3年(1290)東福寺第5世山叟慧雲住持の開創した山内塔頭。現在の地より西南、字正覚にあったのに因んで寺名とした。

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東福寺 正覚庵

■23 光明院 明徳2年(1391)金山明昶の開創による塔頭。

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東福寺 光明院
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東福寺 光明院 波心庭

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東福寺 永明院

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東福寺 南明院

 最勝金剛院は久安6年(1150)摂政藤原忠通の室宗子が法性寺の東方に建立した法性寺中最大の寺院で、「東は山科境、南は稲荷の還坂の南谷、西は鴨河原、北は貞信公の墓所山」という広大な寺域を占めていたといわれる。
 法性寺は鎌倉初期には衰退しており、東福寺は嘉禎2年(1235)より建長7年(1255)にかけて摂政九条道家が、その法性寺跡地に創建したもの。その後の最勝金剛院は東福寺に吸収され、その塔頭となったが、室町期には消滅する。現在の最勝金剛院は、摂家九条家一族の墓の管理と法性寺復興を願い、昭和46年(1971)に旧地付近の現在の地に再興され、改めて東福寺の特別由緒寺院となったもの。中央の朱塗りの八角堂が兼実を祀る廟で、その他九条家以下歴代11人の墓がある。東福寺境内で唯一、一般墓地も含めて墓の見られる場所。

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東福寺 最勝金剛院

「東福寺 塔頭 その2 」 の地図


大きな地図



東福寺 塔頭 その2  のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01  東福寺 万寿寺 34.9811 135.7711
02  東福寺 勝林寺 34.98 135.7737
03  東福寺 盛光院 34.9802 135.7724
04  東福寺 海蔵院 34.9796 135.7731
05  東福寺 霊源院 34.9797 135.7724
06  東福寺 龍眠庵 34.9774 135.7748
07  東福寺 退耕庵 34.9795 135.7717
08  東福寺 同聚院 34.9785 135.7724
09  東福寺 霊雲院 34.9783 135.7717
10  東福寺 一華院 34.9779 135.7726
11  東福寺 栗棘庵 34.979 135.7732
12  東福寺 善慧院 34.9787 135.7731
13  東福寺 大機院 34.9784 135.7731
14  東福寺 龍吟庵 34.9774 135.7748
15  東福寺 即宗院 34.9772 135.7753
16  東福寺 天得院 34.9767 135.7723
17  東福寺 芬陀院 34.9763 135.772
18  東福寺 東光寺 34.9756 135.7725
19  東福寺 桂昌院 34.9755 135.7722
20  東福寺 荘厳院 34.9757 135.7714
21  東福寺 願成寺 34.9751 135.7725
22  東福寺 正覚庵 34.9749 135.7736
23  東福寺 光明院 34.974 135.7736
24  東福寺 永明院 34.9734 135.7735
25  東福寺 南明院 34.9728 135.774
26  東福寺 最勝金剛院 34.976 135.7763

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