天満屋事件跡
天満屋事件跡(てんまんやじけんあと) 2009年1月11日訪問
油小路通でも触れたように、旧花屋町通を過ぎた西側に美好園茶舗の町家がある。この先に間口の狭い1階を車庫とした搭状の建物が並び、その間に小さな祠が祀られている。この祠の脇に中井正五郎殉難地の石碑が建つ。
中井庄五郎(正五郎)は弘化4年(1847)十津川野尻郷の郷士・中井秀助の三男に生まれる。幼少時から剣術を学び、田宮流抜刀術の居合い術を取得している。文久3年(1863)同じ十津川郷士で横井小楠暗殺の容疑者とされる上平主税に連れられて上京し、御所警衛に参加している。
十津川郷の人々は古くから朝廷に仕え、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。そして南北朝の時も吉野の南朝につくしている。幕末になると薩摩、長州、土佐等の雄藩と共に宮廷警護を命ぜられるようになる。天誅組の乱の際には多くの郷士が天誅組に加わった。しかし八月十八日の政変により三条実美等の尊攘派公家が失脚すると、天誅組は朝廷軍ではないとの正式判断が朝廷から出され、十津川郷士も天誅組から離脱している。戊辰戦争が始まると、大総督官直属の朝廷御親兵として越後から会津の倒幕戦争に赴き帰還している。
中井は上洛後、尊譲派と親交を持つようになり、坂本龍馬や中岡慎太郎を敬愛していた。慶応3年(1867)1月、中井は土佐藩を脱藩した那須盛馬とともに四条大橋で新選組の沖田総司、永倉新八、斉藤一の三人に遭遇している。双方とも泥酔状態の中で斬り合いとなり、那須は軽症を負い、中井は斎藤らの斬撃をかわし、那須を連れて逃走している。この逸話からも中井の剣術の腕が秀でていたことが分かる。
慶応3年(1867)11月15日、四条河原町の近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎は何者かに襲撃され絶命する。所謂、近江屋事件が起こる。現在では京都見廻組による暗殺とされているが、実行犯については当時から新選組説を始め、多くの説があった。特に事件後すぐに土佐藩邸から駆けつけ、中岡から生前の証言を聞いた谷干城は、頑なに新選組実行説を信じていた。また海援隊士の陸奥陽之助らは紀州藩士の恨みによる犯行であると考えていた。慶応3年(1867)4月23日の深夜、洲藩所有で海援隊が借り受けていたいろは丸と、長崎港に向かっていた紀州藩の軍艦・明光丸が備中国笠岡諸島の六島付近で衝突し、いろは丸が沈没する事件が起きている。この時、いろは丸に乗船していた坂本龍馬は、明光丸に乗り移ったあと鞆の浦に上陸している。そしてこの地で、4日間滞在し賠償交渉を開始したが、交渉がまとまらぬうちに明光丸が長崎に向けて出港している。龍馬も再交渉を行う為に後を追い、長崎に入る。長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩は、紀伊藩と争い、最終的には賠償金8万3526両198文を支払う事で決着している。そして7万両に減額された賠償金が長崎で支払われたのは、慶応3年(1867)11月7日のことであった。海援隊の陸奥が暗殺の黒幕を紀州藩と見ていたのは、紛争の当事者であり時間の流れから見ても理解できる推論である。
おそらく当時から紀州藩黒幕説は世間で囁かれていたのであろう。紀州藩公用人の三浦休太郎は海援隊による襲撃を警戒し、新選組を護衛に付けている。これが海援隊にとっては龍馬暗殺の黒幕と実行犯と見えたのであろう。石田孝喜氏の幕末京都史跡大辞典(新人物往来社 2009年刊)によると、慶応3年(1867)12月7日夜、油小路花屋町の料亭・天満屋の階上には、三浦休太郎、関甚之助、三宅精一の紀州藩士3名と斎藤一、大石鍬次郎、中村小三(次)郎、中条幸八郎、梅戸勝之進、蟻通勘吾、舟津鎌太郎、前野五郎、市村大三郎、宮川信吉ら新選組が集っていた。そこへ海援隊の陸奥陽之助、関雄之助、岩村精一郎、山脇太郎、山崎喜都馬、本川安太郎、松島和助、藤沢潤之助、竹野虎太、斎原冶一郎、豊永貫一郎、加納宗七、竹中与三郎、宮地彦三郎と十津川郷士の中井庄五郎、前岡力雄の16名が襲撃している。石田氏の幕末京都史跡大辞典の記述でも、通説通り下記のように記している。
真っ先に踊り込んだ中井庄五郎は、「三浦氏は其許か」と声を掛け、相手が「左様」と言うか言わぬかのうちに、片膝着いて抜き打ちざまに切りつけた。三浦は身体を反らしたので、顔を軽く刀の切っ先がかすっただけであった。中井庄五郎は、傍らの新選組の一人に横合いから片腕を切り落とされたという。
司馬遼太郎の短編小説集・幕末(文藝春秋新社 1963年)に収録されている「花屋町の襲撃」でも、同じように中井庄五郎が三浦休太郎に抜き打ちを浴びせた様子が記されている。間合いを誤った中井の一撃は、三浦に致死傷を加えることが出来なかった。そして中井の初太刀とほぼ同時に斬撃を浴びせ、中井を絶命させたのは斎藤一だったとしている。勿論この「花屋町の襲撃」は司馬の得意とするフィクションである。中井が斬殺された後に斎藤に一撃を加えた後家鞘彦六は、実名は出ていないものの宇和島藩脱藩浪士の土居通夫をモデルとして描いている。
土居は天保8年(1837)伊予国に生まれている。少年時代には藩校明倫館で漢学を学び一方で、窪田派田宮流の剣術を習得している。慶応元年(1865)勤皇を志して脱藩し土肥真一と改名している。大坂に出て高利貸高池屋三郎兵衛家に奉公しながら、勤皇運動に関わる。後の中井弘らと交わり、鳥羽・伏見の戦では後藤象二郎配下で活躍する。在坂宇和島藩のため糧米確保などの働きがあった功を認められ帰藩を許されている。王政復古後、大阪鎮台長官となった宇和島藩主伊達宗城に従うが、ほどなく外国事務局大阪運上所に勤務する。ここで五代友厚の知遇を得て明治2年(1869)には大阪府権少参事となっている。井上馨、伊藤博文、大隈重信、大久保利通らと交わり政界で人脈を築くと同時に、五代友厚、住友家、鴻池家ら大阪財界ともつながりを持った土居は、大阪電灯会社社長になったのを皮切りに、日本硝子製造や日本生命、大阪毎日新聞、京阪電鉄など多くの会社の重役に就任している。明治28年(1895)に大阪商業会議所会頭となり、以後亡くなるまでの22年間にわたってその職を務めている。明治中後期における大阪財界の最有力指導者として活躍している。
司馬は窪田派田宮流の剣術と鳥羽伏見の戦いにおける活躍を巧妙に使用して、土居通夫が天満屋事件に参加したように思わせるフィクションを構成した訳である。
この天満屋事件での死者は、新選組の宮川信吉と十津川郷士の中井庄五郎の2名であった。そして中井には従五位が贈られている。この2日後の12月9日に王政復古が発せられ、政局は大きく変わっていく。それなのに暗殺の報復である新たな暗殺が繰り返されていたことは覚えておくことであろう。陸奥や三浦や新選組には王政復古の情報は一切なかったからだ。
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