文書と写真・地図による「記憶」の再現

近江屋跡



近江屋跡(おうみやあと) その1 2008年05月18日訪問

画像
近江屋跡 河原町通に面して碑が建つが足を止める人は少ない

 壬生寺から坊城通に出て、北に進む。坊城通と四条通の角にある隼神社・元祇園梛神社の向かい壬生寺道停留所から市バスに乗車する。四条通を東に走り、四条烏丸で下車し、室町通に建つホテルに向かう。再び夕食と夜の京を徘徊するため、河原町から祇園の方向に徒歩で行く。
 河原町通の西側の歩道を四条通の交差点から北に進むと、坂本龍馬・中岡慎太郎遭難地の碑が建つ。以前訪れた時は、京阪交通社の営業所であった。この日は既にシャッターが閉まっていたので、まだ営業していたか分からなかった。その後この建物の1階にはサークルKが入っている。
 坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で襲撃されたのは、慶応3年(1867)11月15日の夜であった。

 坂本龍馬の立案したとされている船中八策から大政奉還の成立、そして王政復古までに起きた政治的な駆け引きを土佐藩と薩摩藩の動きから見てみる。

 慶応2年(1866)6月7日に幕府艦隊の周防大島への砲撃で始まった第二次長州征討あるいは四境戦争は、7月20日に14代将軍徳川家茂が大阪城で死去すると、幕府軍は敗勢を立て直すことが困難になっていく。将軍薨去の報を受けた小笠原長行が戦線を離脱し、孤立した小倉藩は8月1日城に火を放って退却する。これにより第二次長州征討は幕府軍の全面敗北に終わる。徳川慶喜が第15代将軍に就任するのは同年の暮れ12月5日で、家茂死去からおよそ5ヵ月後のことであった。しかし12月25日に慶喜を含めた一会桑は、京都政治における大きな後ろ盾となるはずであった孝明天皇を突然失う。このような幕府の政治的基盤が崩壊しつつある中、慶喜は慶応3年(1867)の前半、幕権強化を図る。松平春嶽、島津久光、山内容堂、伊達宗城により5月4日京都越前藩邸で開始した四侯会議は、文久3年(1863)末から翌年春まで行われた参預会議を再現するように、幕府との妥協点を見出せず決裂する。そして5月23日の朝議で徳川慶喜は兵庫開港および長州寛典論を奏請し、明治天皇の勅許を得ることに成功する。この慶喜の政治的な勝利は、四侯会議の崩壊と共に公議会論の退潮と薩摩藩と岩倉具視を中心とした武力討幕路線への変更につながっていく。そして山内容堂は四侯会議の途中から欠席し、四侯会議の崩壊後も徳川家擁護の姿勢を強めていく。

 いろは丸事件の談判を終えた坂本龍馬は、慶応3年(1867年)6月9日に藩船「夕顔丸」に後藤象二郎とともに乗船し、長崎から兵庫へ向かう。龍馬はその船上で以下の八項目の政治綱領を後藤に提示した。これを海援隊士の長岡謙吉が書き留め、後に成文化されたものが、いわゆる船中八策とされている。
1 天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令宜しく朝廷より出づべき事
2 上下議政局を設け、議員を置き、万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべき事
3 有材之公卿諸侯及び天下之人材を顧問に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事
4 外国の交際広く公議を採り、新に至当之規約を立つべき事
5 古来の律令を折衷し、新に無窮の大典を撰定すべき事
6 海軍宜しく拡張すべき事
7 御親兵を置き帝都を守衛せしむる事
8 金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべき事

 6月12日後藤と坂本は大阪に到着するが、既に容堂は帰国している。翌13日入京した後藤は容堂の意を体して、在京藩首脳に説明し同意を得る。そして同月22日薩摩藩の小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通、土佐藩の後藤象二郎、寺村左膳、真辺栄三郎、福岡孝悌、そして浪士の代表として坂本龍馬と中岡慎太郎が会合し、後藤の大政奉還論を一同で了解し盟約を結ぶことを決している。この慶応3年6月22日が薩土盟約の成立とされている。この後協議内容の確認と約定書の作成を行った後、7月1日には島津久光の了承得た上で、正式な回答が薩摩藩から土佐藩に来ている。
 薩土盟約の約定書は以下の7か条から構成されている。
1 天下の大政を議定する全權は朝廷にあり我皇國の制度法則一切の万機議事室より出を要す
2 議事院を建立するは宜しく諸侯より其の入費を貢獻すべし
3 議事院上下を分ち議事官は上公卿より下陪臣庶民に至るまで正義純粹の者を撰擧し尚且諸侯も自分其職掌に因て上院の任に充つ
4 將軍職を以て天下の萬機を掌握するの理なし自今宜しく其職を辭して諸侯の列に歸順し政權を朝廷へ歸すべきハ勿論なり
5 各港外國の條約、兵庫港に於て新に朝廷之大臣諸大夫と衆合し道理明白に新約定を立て誠實の商法を行ふべし
6 朝廷の制度法則は往昔より律例ありといへども當今の時勢に參し或は當らざる者あり宜しく弊風を一新改革して地球上に愧ざるの國本を建てむ
7 此皇國興復の議事に關係する士大夫は私意を去り公平に基き術策を設けず正實を貴び既往の是非曲直を不問人心一和を主として此議論を定むべし

 龍馬が船中八策で提示した海軍と天皇の軍隊の創設には触れていないものの、大政奉還と二院制の議会開設そして条約改正の必要性は記されている。当然のことであるが、将軍家の辞官納地までは触れていないにもかかわらず、「諸侯の列に歸順し政權を朝廷へ歸すべき」としている。どのような形で朝廷は政権を受け取り、それを執行していくかの青写真が示されていない。

 速やかに承認した薩摩藩に対して土佐藩の動きは非常に遅滞していた。後藤象二郎は7月3日に京を発ち、8日に高知に着く。山内容堂も盟約の主旨である大政奉還・王政復古に対しては理解を示したが、京都への出兵に対しては反対している。その上、後藤象二郎はイカルス号事件の収拾に忙殺され、薩摩藩に対する土佐藩の方針を伝えることが遅れる。8月20日藩主山内豊範は家臣を集め、倒幕論を捨て下知に従うように宣言している。
 このようにして土佐藩の決定は、9月7日後藤が京都で西郷と小松をそれぞれ訪ねて伝えられている。これに対して薩摩藩から挙兵を急ぐことが告げられ、同月9日後藤、福岡が小松、西郷、大久保と再度の会談によって薩土盟約がわずか2ヶ月間で解消される。

 薩摩藩は長州藩、芸州藩との三藩連合で出兵し政変を起こすことを計画する。しかし国元の反対論に押し切られ、島津久光、忠義連名の討幕否定の通達が9月28日に出たことにより出兵計画は頓挫する。その代わりに大久保利通は、長州藩士広沢真臣、芸州藩士植田乙次郎と図り、討幕の宣旨が降りるように活動する。
 これに対して山内豊範は10月3日に大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出している。同月13日、慶喜は二条城に上洛中の40藩の重臣を招集し、大政奉還を諮問する。そして翌14日に大政奉還上表を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求める。摂政・二条斉敬は、これを受け入れるつもりはなかったが、小松帯刀と後藤象二郎の強い働きかけにより、15日に慶喜を加えて開催された朝議で勅許が決定し、慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられたことで大政奉還は成立する。

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近江屋跡 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 近江屋跡 35.0055 135.7691
 鳥新 35.0036 135.7706
  土佐藩邸01 35.0058 135.7693
  土佐藩邸02 35.0055 135.7698
  土佐藩邸03 35.0058 135.7704
  土佐藩邸04 35.0061 135.7698
01   大和屋(福岡孝弟寓居跡) 35.0053 135.769
02  菊屋 35.0045 135.7694
03  谷干城寓居跡 35.0042 135.7698
04  酢屋 35.0084 135.7699
06  土佐藩邸 35.0058 135.7699

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