ぬりこべ地蔵
ぬりこべ地蔵(ぬりこべじぞう) 2009年1月11日訪問
白河天皇の成菩提院陵の拝観を済ませ、再び交通量の多い油小路通に出る。ここから伏見稲荷大社の御茶屋に向かう。この御茶屋は通常非公開で、今回開催されている第43回京の冬の旅で、教王護国寺五重塔内陣、教王護国寺観智院、東福寺退耕庵そして安楽寿院などともに特別公開されている。かなり不鮮明ではあるが30年くらい前に大学の建築史の先生の案内で一度訪問した記憶が残っている。
既に3時30分を過ぎているため、歩いて竹田駅まで向かい電車等を乗り換えると公開時間が終了してしまう可能性があったので、油小路通でタクシーを拾うこととした。交通量が多いにもかかわらず、タクシーの姿は一向に見えない。さらに新城南宮道を安楽寿院の方に戻りながら探すも、見つからない。そのまま近鉄京都線竹田駅まで歩くこととなった。この駅前からタクシーに乗車し、伏見稲荷大社を目指す。伏見稲荷に近づくにつれて交通渋滞が始まり、結局京阪電鉄伏見稲荷駅で下車し、混雑する参道を楼門目指して急ぎ足で向かう。楼門と本殿の間の右手に御茶屋へ続く門を発見したが、公開を終了した旨を聞き非常に落胆する。既に4時を15分も廻っていた。今回も詰め込みすぎたスケジュールが裏目に出てしまったようだ。
このまま伏見稲荷大社の境内に入る前に、ぬりこべ地蔵とその先にある石峰寺を訪ねる。東丸神社と御茶屋の間の道を南に進むと、すぐに住宅街に入り込む。さらに東へと続く坂道を上っていくと急に目の前に墓地が現れる。道は墓地の中を南に続き、さらに石峰寺の参道へ続く。この道の入口右手に小さな堂宇がある。これが、ねりこべ地蔵である。身の丈1メートル程度の石造の地蔵菩薩は、歯痛にご利益があるとして有名である。そのため歯痛平癒を祈るハガキが全国から寄せられ、小さな堂内に山積みされている。この小さな地蔵様へは「京都市伏見区 ぬりこべ地蔵様」の宛名でも郵便物が届くとされている。
ぬりこべ地蔵の名前の由来は、地蔵が土で塗り込めた壁のお堂に祭られていたため、「塗り込め」から変化したものだとされている。四方を土壁で塗り込んで堂宇に念持仏を祀り、悪鬼を祓う風習があったようで、泉涌寺の公式HPによると、同寺の海会堂も方形土蔵造り塗り込めの御堂で、外面は白壁塗り、床も高く屋根は宝形造り本瓦葺きである。これは京都御所内の御黒戸、すなわち宮中にあった仏間を移築したものである。歴代天皇、皇后、皇族方の御念持仏30数体が祀られている。このように平安時代頃から土蔵造りの堂宇で念持仏を祀る風習が宮中から公卿の間にあったのであろう。ぬりこべ地蔵は、この「塗り込め」を病気を「封じ込める」という意味に捉え、歯痛や病気にご利益のある地蔵尊として信仰が広まったと考えられている。
随筆家・岡部伊都子による「京の地蔵紳士録」(1984年 淡交社刊)に矢田地蔵や目疾地蔵とともにぬりこべ地蔵が取り上げられている。街中に佇むお地蔵様だけを取り上た珍しいエッセー集である。この深草の墓地にある多くの兵士の墓を訪れたことで、婚約者を戦地に送り出してしまった若い時期を思い起こす一文であるが、その中に下記のような記述がある。
ぬりこべ地蔵尊は「はじめは今の警察学校の西北に当る深草平田町あたりの、田の中に祀られていた」そうだ。摂取院(浄土宗)の墓地の中だったというが、「明治40年から43年くらいでしょうか、十六師団の兵器庫ができたので、墓地も、お地蔵さんも移転しました」とはこの地蔵堂を預かっておられる木村氏のお話である。
このようにぬりこべ地蔵は現在の地より西側の畑の中にあったものが、明治時代の終わり頃に移されたように記されている。そして先代の木村藤太郎が当時の檀家総代から、「あらたかなお地蔵さんやさかい、お前とこへ預かってくれへんか」と頼まれ移したとしている。現在もこのお堂を守られている木村家に取材されて書かれたのであろう。木村家は履物や桐の下駄を扱っていたようだが、このお地蔵様によりご利益を得、商売も繁盛したようだ。
さらにこのエッセーには続きがある。何時の頃かの摂取院の住職が、霊験あらたかなぬりこべ地蔵を欲しくなり、藤太郎が不在を見計らって、男手5~6人でお地蔵様を運び境内に移した。これを知った藤太郎は摂取院に出向き、お地蔵様を取り返し、一人で背負って帰ったとしている。行きは5人の男の手によって運ばれたお地蔵様が、帰りは軽くなり藤太郎の背に負われた。
同じような記述は、京都新聞の公式HP・ふるさと昔語り(http://www.kyoto-np.co.jp/info/sightseeing/mukasikatari/071030.html : リンク先が無くなりました )にも見られる。このコラムによると明治3年(1870)の深草村絵図には違った場所にあったことが記されている。すなわち現在の京都府警察学校の辺りに「ヌリコヘ 墓」と描かれていることから、この後に現在の地に移転したことになる。残念ながら深草村絵図を実見していないので、これ以上確かめる術は無い。 京都新聞のコラムも、ぬりこべ地蔵の引越しには旧陸軍第16師団が関係しているとしている。第16師団は、明治38年(1905)に第13師団、第14師団そして第15師団と共に創設されている。これは日露戦争に国内の全ての師団を全て投入したため、本土防衛を行うためである。第16師団は京都市伏見区内に設置され、現在の聖母女学院法人本部が明治41年(1908)師団司令部庁舎として完成している。また師団練兵場は龍谷大学・京都府警警察学校の地にあった。そのため練兵場にあったぬりこべ地蔵は移転せざるを得なくなり、木村藤太郎によって移され、現在に至るまで木村家の人々が世話を続けていると記している。
このコラムでは岡部のエッセーとは異なり、現在の摂取院に対しても取材したようだ。ぬりこべ地蔵より200メートルくらい西の伏見街道とJR奈良線が交わる角に摂取院がある。ここの副住職は、地域の言い伝えや古文書から、稲荷山の奥にあった浄土宗寺院のお地蔵様が、明治維新の廃仏棄釈に巻き込まれ同じ宗派の摂取院の墓地、すなわち後に師団練兵場となる場所に移されてきたのではと推測している。
ぬりこべ地蔵を過ぎ、さらに南に進むと石峰寺への参道が現れる。石段を登り切ると朱の竜宮門が迎えるが、やはり拝観時間を過ぎたため、境内にへいることが出来なかった。石段からの西山に没する夕日は美しかった。
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