広隆寺 その2
真言宗系単立寺院 蜂岡山 広隆寺(こうりゅうじ) その2 2009年1月12日訪問
まだ朝も早く、広隆寺の楼門は開いているものの、宝物殿等の拝観は始まっていないようだった。ともかく雪化粧となった境内のみを見ていく。
三条通より元禄15年(1702)に建立されたとする楼門を潜ると、正面に重要文化財に指定されている講堂が現れる。楼門と講堂は直線状に配置されている。正面5間、側面4間、寄棟造本瓦葺きの建物で、永万元年(1165)に再建されている。京都市内に残る数少ない平安時代の遺構の一つである。ただし永禄年間(1558~70)に改造、近世にも修理を受けていているため、建物の外観には古い様式が残っていない。講堂の柱は、円柱で丹塗りであることから赤堂とも呼ばれる。
堂内は敷瓦を敷いた土間とし、正面柱間は中央3間を吹き放し、左右端の間は花頭窓入りの土壁。堂内には平安時代の様式が残されている。二重虹梁蟇股とし、天井板を張らない化粧屋根裏とする点が特色である。内陣には中央に、弘仁時代(810~816)に造られたとされる国宝の本尊阿弥陀如来坐像、右に地蔵菩薩坐像、左に虚空蔵菩薩坐像と重要文化財に指定された仏像が安置されている。
講堂の西側には、薬師如来像が安置されている薬師堂と弘法大師作とされる腹帯地蔵尊が祀られている地蔵堂が並ぶ。講堂の裏(北側)には、秦河勝を祀る太秦社の小さな祠がある。
広隆寺の本堂に当たる上宮王院は講堂の北側に建てられている。この建物は講堂と同様に南面しているものの、楼門・講堂の軸線上に乗っていないため、上宮王院への参道の敷石は講堂を避けるように、西側に傾いた後に北側に伸びる。このあたりが、禅宗寺院のような配置計画の明快さがなく、広隆寺の境内の判り難さにつながっているように思える。上宮王院は享保15年(1730)建立の入母屋造檜皮葺きの建築で、堂内奥の厨子内には本尊として聖徳太子立像を安置する。像高148センチメートル、像内に元永3年(1120)仏師頼範作の造立銘がある。聖徳太子が秦河勝に仏像を賜った時の年齢である33歳時の像で、下着姿の像の上に実物の着物を着せて安置されている。
楼門から上宮王院へと続く参道は、途中で西に分れ観光客用の広大な駐車場に続く。勿論朝早いため観光バスの姿は全く見えない。この駐車場の北側の竹林が雪を被って美しかった。後でGoogleMapを見て判ったことだが、この竹林は上宮王院の西側にある書院のから連なり、この中に国宝の桂宮院本堂が建てられていた。周囲を塀で囲まれているため、一般公開しているとき以外に外観を見ることもできないようだ。桂宮院本堂は聖徳太子像を祀る堂で、法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きである点で、厳しさを感じさせない建築になっている。正確な建造年は不明であるが、恐らく建長3年(1251)頃の建立と推定されている。堂内の八角形の厨子も堂と同時代のもので、国宝建築の附として指定されている。重要文化財に指定されている本尊の聖徳太子半跏像は霊宝殿に移されている。
書院への門と上宮王院の間を北に進む参道の先に、小さな庭園が見える。その先に1922年に竣工した旧霊宝殿と1982年に竣工した霊宝殿が並び建つ。
広隆寺には2体の弥勒菩薩半跏像が安置されている。いずれも国宝に指定されているので、「宝冠弥勒」と「泣き弥勒」と呼び分けられている。この内、有名な弥勒菩薩像は「宝冠弥勒」である。像高は123.3センチメートル、坐高は84.2センチメートル。アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す。像表面は、現状ではほとんど素地を現すが、金箔でおおわれていた痕跡を下腹部に見ることができる。
制作時期は7世紀とされるが、制作地については諸説ある。作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説、日本で制作されたとする説、朝鮮半島から渡来した霊木を日本で彫刻したとする説がある。以前に拝観した時の印象は、お顔立ちからして大陸、特に朝鮮半島から渡来したものと強く感じた。また渡来仏説は、日本書紀に記される推古11年(603)聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古31年(623)新羅から将来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないかと考えられてきたかであろう。
この「宝冠弥勒」が世間一般に知れ渡ったことには、次の3つのエピソードによるところが大きい。まず1つ目のエピソードは、「宝冠弥勒」は「永遠の微笑」とその普遍性を賞賛されてきたこと。ドイツの実存哲学者カール・ヤスパースは下記のように表現したとされている。
この広隆寺の弥勒像には、真に完成され切った人間実存の最高の理念が、あますところなく表現されています。それは、この地上に於けるすべての時間的なものの束縛を超えて達し得た、人間存在の最も清浄な、最も円満な、最も永久な、姿のシンポルである思います。
これは篠原正瑛の昭和24年(1949)に出版された「敗戦の彼岸にあるもの」に掲載されている話しらしい。終戦直後の喪失感を埋める対象とされてきた「宝冠弥勒」が現在の世の中にどれくらい理解されているのだろうか?
2つ目のエピソードは、「宝冠弥勒」が国宝第1号であると謂われていること。ここでいう国宝とは、昭和25年(1950)に施行された文化財保護法によって指定されたものを指し示す。既に明治30年(1897)に古社寺保存法が制定され、同年12月28日付けで初の国宝指定が行われていた。しかし国宝と重要文化財の区別がなされず、全ての国指定の有形文化財(美術工芸品および建造物)は国宝と称されていた。昭和25年(1950)8月29日付けを以って、これら全てを重要文化財に指定されたものと見なし、その中から「世界文化の見地から価値の高いもの」で「類いない国民の宝」たるものを改めて国宝に指定することとなった。そのため、「新国宝」の指定は昭和26年(1951)6月9日付けで実施された。この時、広隆寺の「宝冠弥勒」は、平等院鳳凰堂の木造阿弥陀如来坐像、興福寺の乾漆八部衆立像、木造〈無著菩薩/世観音薩〉立像、中宮寺の木造菩薩半跏像、唐招提寺の乾漆鑑真和上坐像、法隆寺の2体の木造観世音菩薩立像、薬師寺の銅造薬師如来及両脇侍像などともに指定されている。世間一般に言う国宝第1号は、第1回目の「新国宝」に指定されたという意味だと考えたほうがよさそうである。ただ文化庁の国指定文化財等データベースの木造弥勒菩薩半跏像には、指定番号(登録番号): 00001と記されている。例えば同日に指定された法隆寺の木造観世音菩薩立像(百済観音)が指定番号: 00023となっているので、このあたりを第1号としているのかもしれない。
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そして3つ目のエピソードは、昭和35年(1960)京都大学の20歳の学生によって弥勒菩薩像の右手薬指が折られるという事件。この時、修復したのが愛宕念仏寺の住職であり、仏師の西村公朝であった。このことについては愛宕念仏寺の項で触れているので、ご参照下さい。
もう1体の木造弥勒菩薩半跏像、「泣き弥勒」は、像高90センチメートル、坐高66.4センチメートルと「宝冠弥勒」に比べると、かなり小ぶりである。「宝冠弥勒」と同様のポーズをとるが、朝鮮半島には現存しないクスノキ材を用いていることから、7世紀末から8世紀初頭頃の日本製と見られる。こちらにも、伝来については異説があるようだ。「泣き弥勒」の名は、右手を頬に当て沈うつな表情を浮かべていることから、泣いているように見えるとされている。
現在は、この国宝の2体の弥勒菩薩像、そして十二神将像などは霊宝殿で公開しているため、旧霊宝殿は公開されていないようだ。
「広隆寺 その2」 の地図
広隆寺 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | ▼ 広隆寺 楼門 | 35.0136 | 135.7075 |
02 | ▼ 広隆寺 講堂 | 35.0142 | 135.7075 |
03 | ▼ 広隆寺 薬師堂 | 35.0138 | 135.7071 |
04 | ▼ 広隆寺 地蔵堂 | 35.0141 | 135.7071 |
05 | ▼ 広隆寺 上宮王院 | 35.0149 | 135.7073 |
06 | 広隆寺 太秦社 | 35.0146 | 135.7074 |
07 | ▼ 広隆寺 書院 | 35.0149 | 135.7067 |
08 | 広隆寺 桂宮院本堂 | 35.015 | 135.7054 |
09 | ▼ 広隆寺 霊宝殿 | 35.0155 | 135.7073 |
10 | 広隆寺 旧霊宝殿 | 35.0155 | 135.7069 |
11 | ▼ 広隆寺 庭園 | 35.0151 | 135.7071 |
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