高台寺 圓徳院
高台寺 圓徳院(えんとくいん) 2009年11月29日訪問
朝、天龍寺を訪れた時には非常に良い天気であったが、大徳寺を廻るあたりから曇りがちとなり、一番気になっていた祇園閣からの眺望を楽しむ段になって、厚い雲に覆われた鈍よりとした空になってしまった。最後に最上層より四方の眺望を確認した後、大雲院の南門を潜りねねの道に出ると、たちまち東山の喧騒に戻る。次に訪れる圓徳院は高台寺の塔頭の一つである。高台寺には何回か訪問しているが、今まで一度も訪れたことがなかった。前回も高台寺と圓徳院の共通券を購入したにも関わらず、時間がなかったのか圓徳院に入ることが適わなかったように思う。
高台寺道、通称ねねの道を南に下ると、左手に高台寺へと続く石段のある台所坂が現れる。圓徳院の長屋門は、その先の右手に建つ。
既に高台寺の歴史については前回の訪問の際に記しているので詳しくは触れない。高台寺は豊臣秀吉の正室である北政所が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾後の院号である高台院に因んだものである。圓徳院の公式HPには、圓徳院創建の前年にあたる慶長10年(1605)伏見城から圓徳院の地に化粧御殿と前庭が移され、北政所は化粧御殿に移り住まれたと記されている。そのため圓徳院の長屋門前の北政所化粧御殿跡や北政所御殿跡の碑が建てられている。しかし豊臣秀吉の正室である北政所は、慶長8年(1603)11月に高台院の号を賜わっているので、高台寺を建立した当時は、既に高台院と呼ぶべきであろう。
重森三玲・完途共著による「日本庭園史大系 9 桃山の庭二」(社会思想社 1972年刊)に掲載されている圓徳院庭園によると圓徳院創建前に、この地には既に曹洞宗の永興寺が存在していた。建長5年(1253)8月28日に宗祖道元は俗弟子の覚念の高辻西洞院の屋敷で亡くなっている。同日のうちに東山赤辻で荼毘に付され、9月10日に遺骨は懐奘により永平寺に持ち帰られている。詮慧は道元荼毘の跡地に永興庵を建立し、道元の等身大木像を安置したとされている。その庵号は、越前の永平寺と深草の興聖寺の二寺から永興庵としたとされている。禅師の偉徳を広めようとしたが、新宗派の台頭を認めない比叡山徒の焼き討ちに遭い、永興庵は京都市内各地を転々とする。現在は山科区御陵大岩に永興寺が残る。なお道元が荼毘に付された地には曹洞宗高祖道元禅師荼毘御遺蹟之塔が建てられ、高台寺の境内より道が続いているようだが、確認することができていない。GoogleMapで見る限り、岡林院の東、西行庵の南隣だが西行庵側からは入れなかった。碓井小三郎が大正4年(1915)に纏めた「京都坊目誌」(新修京都叢書刊行会 光彩社 1969年刊)によると、高台寺を建てる際に永興寺を筑紫に移し、高台院の居館として、伏見城中の化粧殿を移築している。そして寛永元年(1624)に高台院が亡くなると、これを禅院として永興院と号したとしている。すなわち現在に伝わる化粧殿が慶長10年(1605)に移されたことを説明している。この居館の門は北方に在り鷲尾町側から入るようになっていたようだ。また、この他にも下記の説を併記している。
圓徳院の説に寛永元年木下家定。徳川氏に請ひ。
化粧殿を此に移し。尼公の牌を安す。之を永興院と号する。
これは、高台院が亡くなった寛永元年(1624)に化粧殿を移したように読める。これでは圓徳院が説明しているように、高台院が晩年の19年間をこの地で過ごすことができなくなる。現在の圓徳院の公式HPでは、
利房公、化粧御殿を北政所より賜り永興院と号す。
三江紹益、建仁寺久昌院から高台寺へ入寺。
北政所没す。
としている。ちなみに木下家定は慶長13年(1608)に亡くなっているので、京都坊目誌は利房と誤ったのかもしれない。
重森完途(文末にKとあるので庭園の記述は完途が担当したのであろう)は先の著書の中で、慶長10年(1605)に、北政所の化粧殿を伏見城から移すことを請い、これを庭園と併せて永興院に移したと考えている。その上で下記のように記している。
豊臣夫人居館というのは化粧殿の事はあっても、ここに居住したわけでない。
高台院の居住した屋敷がどこにあったかについては、次に訪れる高台寺で書くこととして、ここではこれに留めておく。
高台院の甥に当たる木下利房は、天承元年(1573)木下家定の次男として若狭国に生まれている。兄には後に歌人・木下長嘯子となる木下勝俊がおり、弟には日出藩主となる木下延俊、そして小早川秀秋がいる。豊臣秀吉に仕え若狭高浜20000石を領する。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは西軍に属したため改易されている。また若狭国後瀬山城80000石を与えられていた兄の勝俊は、東軍に属し鳥居元忠と共に伏見城の守備を任されていた。しかし西軍が攻め寄せる直前に城を退去している。この戦線離脱によって、戦後小浜領を除封されている。京都東山に挙白堂を建て、そこに隠棲し長嘯子と号している。
慶長13年(1608)2人の父であり、高台院の兄である木下家定が没すると、その所領であった備中足守25000石は兄の勝俊に継がれた。恐らくこの相続を巡って兄弟間で争いが生じ、高台院が関与したと考えられる。しかし幕府の意に反した相続という理由で、藩領は木下家より没収され慶長15年(1610)より浅野長晟の所領となっている。これは関ケ原の戦いより10年も経過し、高台寺が建立された後のことである。高台院と徳川幕府の間に全て問題がなかったという訳でないことが見えてくる。なお長晟は浅井長政の次男であるため、高台院にとっては義理の甥という縁になる。つまり、杉原定利と朝日殿の間に生まれた高台院は、浅野長勝と七曲殿の養女となり、高台院の姉妹でやはり長勝の養女となった長生院の婿養子となったのが浅井長政である。そのような高台院にとって縁者となる浅野長晟に紛争した足守領は渡されている。この後、長晟の兄で長勝の嫡子であった浅野幸長が慶長18年(1613)所領である和歌山で没すると、嗣子がいなかったことで弟の長晟が紀州藩を継いでいる。そのため、足守藩は一時天領となる。
元和元年(1615)木下利房が大坂の陣の功績により25000石にて入封する。ここで再び木下家の所領となった足守藩は、以後明治まで木下家が12代256年にわたって統治している。なお譜牒余録には、大阪夏の陣において利房は高台院の護衛という名目で付き添っていたが、実のところは自ら豊臣秀頼との交渉に出向こうとした高台院を制止するために付けられていたと記されている。譜牒余録は寛政11年(1799)に成立した幕府官撰による大名や幕臣等の系譜集成であるが、100年以上遡った貞享元年(1684)に幕府が諸家に書き上げさせた系譜である貞享書上が基となっている。このような功績が認められ利房は復活しているが、あるいは高台院の周囲に幕府の意に沿って行動できる木下家の一員を配した結果であったのかもしれない。 高台院が亡くなる寛永元年(1624)より木下利房は仙洞御所守護の任を受けている。慶長16年(1611)に後水尾天皇に譲位した後陽成上皇は、元和3年(1617)に崩御されている。紫衣事件が発生するのは寛政4年(1627)であるから、この寛政元年の時点ではまだ仙洞御所の主は空席であった。大徳寺 孤篷庵その3でも記したように、小堀政一が仙洞御所造営の奉行に任命されたのは寛永4年(1627)11月である。政一は寛永5年(1628)3月頃までに、二条城より行幸御殿(梁行11間、桁行14間)、御次之間(梁行5間、桁行18間)、中宮御殿(梁行5間、桁行8間)と四脚門と唐門を現在の仙洞御所のある場所に移築している。さらに同年(1628)2月頃から新築建物の建設に取り掛かっている。これには意外な年月を費やし、寛永6年(1629)11月8日の譲位には間に合わず、女一宮を禁中に据え、自らは中宮御殿に移られている。そして寛永7年(1630)11月14日地鎮、12月10日に始めて後水尾上皇が移られている。なお仙洞御所庭園の作庭は、寛永11年(1634)の仙洞御所庭泉石構造の奉行拝命後の仕事である。
圓徳院の公式HPに従うと、利房は仙洞御所守護を寛永4年(1627)まで務めた後、圓徳院と号するようになる。そして寛永9年(1632)に永興院に寿塔を建て、建仁寺第295世の三江紹益を高台寺より開基として迎え、木下家の菩提寺として圓徳院を開創している。寺号は利房の法号である円徳院半湖休鴎に因んだものである。永興院は圓徳院に所管されるようになり、ついに圓徳院を称するようになっている。
「高台寺 圓徳院」 の地図
高台寺 圓徳院 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | 圓徳院 長屋門 | 35.0004 | 135.7798 |
02 | 圓徳院 唐門 | 35.0004 | 135.7796 |
03 | 圓徳院 庫裏 | 35.0005 | 135.7796 |
04 | 圓徳院 方丈 | 35.0006 | 135.7794 |
05 | 圓徳院 北書院 | 35.0009 | 135.7796 |
06 | 圓徳院 三面大黒天 | 35.0008 | 135.7796 |
07 | 圓徳院 歌仙堂 | 35.0008 | 135.7797 |
08 | 圓徳院 方丈南庭 | 35.0004 | 135.7793 |
09 | ▼ 圓徳院 北書院北庭 | 35.001 | 135.7797 |
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