大徳寺 孤篷庵 その3
大徳寺 孤篷庵(こほうあん)その3 2009年11月29日訪問
大徳寺 孤篷庵その2に続き、二条城への行幸以降の小堀遠州の後期の仕事を年代順に見ていく。二条城行幸を無事に終えた寛永3年(1626)小堀政一は大阪城再建の現場に再び戻り、天守並びに本丸御殿の作事に従事している。そして寛永4年(1627)より仙洞女院御所の作事を手がけている。慶長18年(1613)幕府は、寺院・僧侶の圧迫および朝廷と宗教界の関係相対化を図る目的で、「公家衆法度」「勅許紫衣之法度」「大徳寺妙心寺等諸寺入院法度」を定め、さらに慶長20年(1615)に禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じている。それにもかかわらず、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えていた。これを知った幕府は、寛永4年(1627)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じている。幕府の強硬姿勢に対して朝廷は、授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強く反対し、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も朝廷に同調して幕府に抗弁書を提出している。寛永6年(1629)幕府は沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処している。これが紫衣事件の概要である。寛永3年(1626)の秋に二条城行幸が行なわれたにもかかわらず、僅か半年で朝幕の関係は冷え込んでしまっている。寛永4年(1627)11月、幕府は小堀政一を仙洞御所造営の奉行に任じている。これは後水尾天皇の在位中であることから、譲位を迫る行為でもあった。政一は寛永5年(1628)3月頃までに、二条城より行幸御殿(梁行11間、桁行14間)、御次之間(梁行5間、桁行18間)、中宮御殿(梁行5間、桁行8間)と四脚門と唐門を現在の仙洞御所のある場所に移築している。さらに同年(1628)2月頃から新築建物の建設に取り掛かっている。これには意外な年月を費やし、寛永6年(1629)11月8日の譲位には間に合わず、女一宮を禁中に据え、自らは中宮御殿に移られている。そして寛永7年(1630)11月14日地鎮、12月10日に始めて後水尾上皇が移られている。なお仙洞御所庭園の作庭は、寛永11年(1634)の仙洞御所庭泉石構造の奉行拝命後の仕事である。 庭の改修や改造ではなく、本格的な作庭に取り組むのは、政一が50歳を越えた仙洞御所造営の頃からと考えられている。作庭で評判を得たために、寛永5年(1628)二条城二の丸御殿の普請奉行として多忙の中、同6年(1629)6月、将軍の要請で江戸城西の丸御庭泉水茶室を造る。「遠州の好みにて庭中に池をうがつ」とあり、褒美として千両という大金を下賜されたとされている。
またこの寛永6年(1629)には、南禅寺塔頭金地院内に茶室の八窓庵と数奇屋の鎖の間を完成させており、以心崇伝より南禅寺庭園作事の要請も受けている。二条城への行幸を終えた寛永3年(1626)以心崇伝は後水尾天皇より円照本光国師の号を授かり、これ以降南禅寺の復興と金地院の権威化を図って行くこととなる。寛永4年(1627)4月には方丈の立柱を行なっていたと思われる。また寛永5年(1628)の家康13回忌に合わせて東照宮社殿が建立されている。幕府から命じられた仕事が多い小堀政一にとって、これらの建設は以心崇伝個人からの要請による珍しい仕事であった。恐らく幕府の意向に沿った崇伝の南禅寺復興整備プロジェクトに他の業務同様の姿勢で臨んだのであろう。寛永9年に完成した方丈前鶴亀の庭園は、現存する遠州作の貴重な作品である。そして寛永9年(1632)には政一の代表作となる金地院方丈庭園を完成させている。金地院庭園の完成を喜ぶ手紙を政一に送った崇伝も寛永10年(1633)1月20日に入寂している。享年62。
寛永10年(1633)7月には近江国水口城作事奉行、8月に仙洞女院御所庭泉水の奉行、9月に近江伊庭の御茶屋御殿作事奉行、10月に二条城本丸数寄屋作事奉行を命ぜられている。また翌年の寛永11年(1634)8月に仙洞御所庭泉石構造の奉行を拝命するなど、寛永4年(1627)11月の仙洞御所の造営から寛永13年(1636)6月の作庭が完了まで8年余の時間を費やしているころが分かる。
近江水口城と二条城本丸数奇屋の作事は翌寛永11年(1634)6月の家光の上洛に合わせて行なわれている。水口城は東海道水口宿の西に上洛のための宿館として建設された。二条城の本丸御殿を小規模にした平城でありながら、庭園内には池亭やそれに隣接した木賊葺二階御亭などが設けられた。一夜の宿館としては華美過ぎるように思えるかもしれない。家光としては今回の上洛が三度目ではあるものの大御所(秀忠)亡き後として、初めての上洛となる。30万余の兵を率いての上洛は、天下掌握を誇示するためのデモンストレーションでもあった。事実、京都において大規模な大名の領地替えや領地朱印状の発給なども行なっている。水口城の御殿が将軍の宿舎として使用されたのはこの一度だけであった。これ以降、将軍の上洛は文久3年(1863)第14代将軍徳川家茂まで行なわれなかったためである。
宮内庁書陵部には後水尾院御所並東福門院御所指図が遺されている。これは寛永13年(1636)の仙洞御所庭園の竣工状況を記したものである。「別冊太陽 小堀遠州 「綺麗さび」のこころ」(平凡社 2009年刊)に掲載されているこの指図を見ると、仙洞御所の南西部分の青く着色された部分に院御所、そして北西部分の黄色く塗られた部分に女院御所が建設されている。注目すべきは、院御所と女院御所の規模がほぼ同じ点である。西に唐門を開き表向御殿、殿上之間、奥御対面所、内々の御対面所、常御殿、大台所、台所、清所、西、南、御里対屋等を配していた。これは秀忠の娘である東福門院の宮中における位置づけだけでなく、後水尾上皇と徳川家の力関係を表現するために行なわれたと考えても良いだろう。いずれにしても江戸時代を通じて最も広大かつ華麗な女院御所であったことは確かである。 この指図より、御所の北東角に庭園が築かれていたことも分かる。この庭園は45度に配置した築地塀によって2つに分けられ、北側が女院御所の庭で、南川は院御所の庭であった。院御所の庭には直線で構成された池の中央には、比較的大きく緩やかな丘陵状の芝生の中島があり、上皇はこの庭に舟を浮かべて遊んだとされている。
また、御殿から見ると池の対岸には茶屋が設けられ、さらにその東側には南北に築地塀を設けていた。つまり仙洞御所を区切る外側の築地と意図的に並行に作られた築地塀の間には70~80メートル×3~4メートルという細長い回廊のような空間が作られ、ここに小川を流していた。政一は、この小川に互い違いに8本の異なった橋を架けている。これにより茶席に渡る客は、小川の最上流に架けられた丸太違橋から順番に、すのこ橋、古舟板橋、杉大桁橋、くすのき橋、すじかいそり橋、そして杉桁橋を左右に渡りながら茶席へと近づいていく構成になっている。非常に観念的な行為を抽象化された空間の中で延々と演じることとなるが、後水尾上皇を含み果たして どれだけの人間が、この小堀政一が仕掛けた高等遊戯に付き合えたか疑問である。
後水尾上皇が存命の間にも3度の火災があり、その度に修復されるなどで、創建当時の小堀政一が切石を石垣のように積んだ直線的な護岸も、一部に残るだけとなっている。恐らく上皇の望む庭と政一が意図したものが大きく異なっていたために、現在に創建当初の姿が残らなかったということであろう。現存しないため想像するしかないが、それにしてもかなり奇想の庭であったことは確かである。
寛永13年(1636)政一は日光社参供養のため江戸に出府している。その社参中に第3代将軍徳川家光への献茶が命じられる。急遽、品川林中に御茶屋御殿を新設し、5月21日に将軍臨席での茶会を開催している。家光は褒美として杯をとらせ、清拙正澄の墨蹟「平心」を下賜している。
寛永9年(1632)徳川秀忠の死により大赦令が出され、紫衣事件に連座した者たちは天海や柳生宗矩の尽力により許されている。そして寛永15年(1638)徳川家光は品川御殿山に隣接した地に沢庵宗彭を招聘するために東海寺を建立する。政一は東海寺の客殿や数寄屋などの指導を行っている。遠州の高弟村田一斎に学び肥後細川家の茶頭となった桜山一有が記した「桜山一有筆記」には
東海寺沢庵和尚ノ庭ハ家光様御上意にて、
遠江守へ被仰付、庭出来の後、家光様御成
と記されている。なお東海寺は元禄7年(1694)に火災にあったため創建当時の姿を留めていない。
寛永17年(1640)禁裏および新院御所造営の奉行に命じられ、寛永19年(1642)に明正院御所普請奉行に任ぜられている。いわゆる寛永度内裏造営は寛永17年(1640)末より始められ、寛永19年(1642)6月に完成している。政一は新たに新院御所を造営している。すなわち後水尾院の仙洞御所に対して明正院御所のことを新院御所とよばれていた。明正院御所は中和門院御所の旧地である禁裏北に接した敷地に位置し、東西79間(101メートル)南北70間(90メートル)程であったと考えられている。明正院は女帝であったことから一般の院御所に見られる複雑な構成ではなく、対面所、常御殿を中心に台所と対屋を配した簡明な配置だった。
明正院御所の普請を終えた寛永19年(1642)10月より、政一は4年間江戸詰となる。寛永20年(1643)3月には沢庵和尚のために建立した東海寺の庭園が完成し、上記のように将軍の御成を得ている。その際、家光は庭石を万年石と名付け、政一はお召しの羽織を頂戴している。この年に孤篷庵を龍光院内から現在地に移している。江戸詰めが終わり伏見に戻るのは、正保2年(1645)4月のことであった。正保4年(1647)1月に病に伏し、2月6日に伏見で没し、大徳寺孤篷庵に葬られる。号は孤篷庵大有宗甫居士。政一にとって江戸から戻ってからの京での生活は、2年余りであった。恐らく新たな寺地に建てた孤篷庵で過ごせた時間もそれ程多くはなかったことと思われる。
このように遠州の作品を時系列的に眺めて行くと、思ったほど多くの作品が残されていないことに気がつく。特に庭園については、確証のあるものとして、二条城二の丸庭園、南禅寺方丈庭園と金地院庭園。仙洞御所の庭はその後の改修により当初の姿を失っている。また孤篷庵忘筌席露地は寛政5年(1793)の火災による焼失後に松江藩主の松平治郷によって再建されたものである。伝遠州あるいは遠州好みとされる庭園、例えば桂離宮、曼殊院、頼久寺、龍潭寺などに比べても、遠州作と認められる庭園は実に少ない。作庭によりひとつの景色を造るのではなく、より規模の大きな施設を破綻なく竣工させることや行政者として領地を統治することに、小堀政一の能力を発揮するように仕向けてきた幕府の政策の結果ではないだろうか。また優秀な官僚であったから多くの優れた仕事を任されたともいえる。
そういう観点から再び遠州の仕事を見直す。二条城二の丸庭園では行幸という一大イベントにおける幕府の権威の表明を任され、仙洞御所の造営についても気難しいクライアントの要請に応え、仙洞御所内に上皇の興味を閉じ込める役割を担っている。いずれも幕府にとって間違えることの出来ないものであっただろう。それをきっちりとやり遂げる業務遂行能力の高さが小掘政一に期待されていたのであろう。そしてコンセプトからディテールまでの統一感とその出来上がりの見事さが、後世まで遠州の仕事として残っている。
本質的に「遠州らしさ」とは政一の作品全般に見られる趣味の良い統一感が基本となっている。私たちが、“遠州ならば、こうしただろう“と考える思考経路を経て回答を導きだしている。そして、力み過ぎることなく、無理なく全体に収まる形で表現されている。その裏側には日本文化だけには留まらず、過去からの中国文化、そして当時新たに入ってきた南蛮文化に対する知識が豊富にあったことは見逃すことが出来ない。宮元健次氏の著書「[図説]日本庭園の見方」(学芸出版社 1998年刊)や「京都名庭を歩く」(光文社 2004年刊)では遠州の作庭手法の中に、黄金比や透視図法的効果あるいはアイストップなど西欧絵画手法への傾倒が指摘されている。確かにそのような側面もあるが、あまりこの部分を強調しすぎると新規性を追求したデザイナーという位置づけになってしまうのではないだろうか?むしろ「小堀遠州 気品と静寂が貫く綺麗さびの庭」(京都通信社 2008年刊)の中で作庭家の野村勘治氏が指摘している遠州の作品に見られる中国趣味の源泉など、和漢洋の手法を屈指する多様性と現在の私たちが遠州の作品の中に感じるモダンがどこに起因しているかを明らかにすることが必要だと思われる。
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