徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2012年 10月 15日

祇園閣 その4

 

祇園閣(ぎおんかく)その4 2009年11月29日訪問 祇園閣 八坂塔方面  祇園閣 その2と祇園閣 その3では、祇園閣の設計者である伊東忠太の建築とパトロンとなった大谷光瑞について記してきた。前段が長くなり、祇園閣に達する前に終わってしまった。ここでは大倉喜八郎と忠太の関係から祇園閣の創建について書いてみたい。 伊東忠太は、大谷光瑞と西域探検を通じて知り合えているが、大倉喜八郎とはどのようにして巡り合えたのだろうか?伊東忠太が明治25年(1892)帝国大学工科大学を卒業しているが、大倉喜八郎の甥にあたる喜三郎もその翌年に卒業している。卒業後は大倉家の経営する大倉組に入社、ロンドン支店に… ►続きを読む

 

祇園閣 その3

 

祇園閣(ぎおんかく)その3 2009年11月29日訪問 祇園閣  明治に入り欧米の近代建築を日本に取り込んでいく過程で、ジョサイア・コンドルに代表されるお雇い外国人達の果たした役割は大きい。明治10年(1877)に来日したコンドルは、その年に工部大学校造家学教師となり、辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊ら第一世代を育て上げている。辰野金吾が工部大学を第1回生として卒業したのが明治12年(1879)のことであったから、伊東忠太と比べると10年以上前の世代に属している。 第一世代の建築家は、例えば駅舎や議会などのような、それまでの日本には存在しなかった機能が要求される施設を建設しなければならなかっ… ►続きを読む

 

祇園閣 その2

 

祇園閣(ぎおんかく)その2 2009年11月29日訪問 祇園閣 本堂西面からの眺め  大雲寺の本堂の西側には伊東忠太設計の祇園閣が建つ。既に記したように大雲院は四条河原町の貞安前之町から、昭和48年(1973)この東山の地に移転してきたため、大倉喜八郎が生前に建設した祇園閣と真葛荘の方が古くからこの地にあったこととなる。つまり、真葛荘と祇園閣の隙間に大雲院の本堂と境内そして墓地を作ったこととなる。そのため本堂の裏側(西側)から祇園閣に渡るのは簡単であるものの、大雲院の境内で祇園閣だけを鑑賞できるポイントは少ない。それだけ祇園閣に接するように本堂が建てられたためである。むしろ、境内外のねね… ►続きを読む

 
 

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