神足駅五十周年開業記念碑
神足駅五十周年開業記念碑(こうたりえきごじゅうしゅうねんかいぎょうきねんひ) 2009年12月9日訪問
今回は長岡京市の光明寺と長岡天満宮、そして松尾大社の重森三玲の庭園の訪問を目的とし、東京駅6:00発の新幹線に乗り込み京都に向かう。いつもと同じように新幹線が定刻の8:11に京都駅に到着すると、そのまま駅を出ることなく東海道本線下りに乗り換えJR長岡京駅へと向かう。光明寺への阪急バス乗り場を探し西口に出る。西口駅前は2棟の商業施設とその奥にある高層マンションが目に付くくらいで、特に目立った物のない普通の地方都市の駅前風景という感じである。むしろ東口に建つ高層の村田製作所本社に目が行ってしまう。この日は平日だったのに、それほど人通りが多くないのは、既に通勤・通学時間のピークは過ぎたためなのだろうか。光明寺循環20番が8:44発であったため、凡そ20分近く、そのようなことを考えながら駅前広場で待つこととなった。
西口の駅前広場の線路沿いに神足駅五十周年の開業記念碑が建てられている。新橋駅・横浜駅間の鉄道が開業したのは明治5年(1874)であったが、関西でも明治7年(1874)には大阪駅・神戸駅間の仮開業が行われている。その後、大阪駅・向日町駅間、そして向日町駅・大宮通駅間が順次開通し、明治10年(1877)には京都停車場・神戸駅間の営業も開始される。
明治13年(1880)には逢坂山経由で大津駅(現在の浜大津駅付近)まで東海道線は延伸されている。なお東京から神戸までが開通するのは、関ヶ原駅・米原駅・大津駅間が開業する明治22年(1889)まで待たねばならなく、実に新橋駅・横浜駅間開業から17年後のことであった。
この時の京都・大津間のルートは、JR稲荷駅ランプ小屋の項でも触れたように、京都・稲荷・山科(歓修寺の東北あたり)・大谷・馬場(現在の膳所駅)・大津という現在のJR奈良線を一部含むものであった。これは京都・大津間を一直線に結ぶためには、長大トンネルを2つも掘削しなければならない上に、東山の地質は良くないという調査結果が出ていたためである。そのため東山を通る直線案は退けられ、稲荷山の南を迂回するルートが採用されている。しかし迂回ルートを採用しても大谷・大津間は逢坂山に隧道を掘らざるを得ず、最短で結ぶ664.76mが逢坂山隧道として掘削されている。これは日本で掘削された最初の山岳隧道で、外国人技師に頼らず日本人だけで完成させている。 京都・大津間の複線化は、明治38年(1898)という比較的早い段階に行われている。これは、京都駅・馬場駅間の両側が25‰の急勾配区間となっているため単線では輸送力が上がらなかったためである。しかし複線化が果たされた後も、この急勾配区間が輸送上の大きなネックとして残った。勾配を乗り切るために補助機関車も用意され、京都方面から来た列車は馬場駅でスイッチバックをして大津駅へと下って行く運行形態が採られていた。この問題を解消するために再び直線案が浮上してくる。すなわち京都・大津間を断面的にも直線で結べば勾配を緩和することが可能となる訳である。東山トンネルと新逢坂山トンネルが掘削され、大正10年(1921)に現行路線が開業している。そして稲荷駅・京都駅間は奈良線に編入され、稲荷駅・馬場駅間は廃止となった。このことは、JR稲荷駅ランプ小屋の項で触れた通りである。
大正10年(1921)以前の地図には、深草の仁明天皇陵の南を東に進む東海道本線が描かれているが、それ以降の地図には、深草瓦町あたりから再び西に戻って行く現在の奈良線の姿が記されている。なお複雑なことに最初に開設された馬場駅は大正2年(1913)に2代目大津駅に改称されている。そして再び新逢坂山トンネルが開通した大正10年(1921)に馬場駅に戻り、さらに昭和9年(1934)に現在の膳所駅に改称されている。馬場駅-大津駅の区間は、上記の明治22年(1889)の東海道線全通後、本線の貨物支線となったため、大正2年(1913)3月1日より昭和9年(1934)9月15日の膳所駅改称までの間、旅客営業は行われていない。初代大津駅は大正2年(1913)に浜大津駅に改称され、現在の大津駅は新逢坂山トンネルが開通した大正10年(1921)に新設されている。 逢坂山隧道は東山トンネルと新逢坂山トンネルが開通に伴い鉄道トンネルとしての使命を終えている。太平洋戦争中は工場疎開として利用され、現在でも京都大学の地震計が設置されている。逢坂山隧道の東口には鉄道記念物の案内板が設置されているため場所の特定が容易である。西口は旧大谷駅と共に京阪京津線の電車内から見ることもできたようだが、現在は名神高速道路の盛り土の下に埋もれている。かつての西口と大谷駅は蝉丸神社の北よりに存在したようだ。
再び話しを長岡京駅に戻す。明治10年(1877)に京都駅・神戸駅間が開通した時に存在していた駅は、京都・向日町・山崎・高槻・茨木・吹田・大阪・尼崎・西宮・住吉・三ノ宮・神戸の12駅であった。そのため神足付近の人は、向日町か山崎まで4Km強の距離を歩く必要があった。地元では駅設置への運動が行われ、昭和6年(1931)8月に地元の地名をとり神足駅が開設されることとなった。その後、神足村から長岡町そして長岡京市と名称が変わったことにより、1995年9月に現駅名である長岡京駅に名称変更されている。石碑によると、神足駅開設当時は駅前の一部をのぞいて駅周辺は、すべて竹薮で昼なお暗いところだったようだ。
長岡京市としての歴史はそれほど古いものではない。明治8年(1875)に古市村を合併した神足村は、明治22年(1889)の町村制の施行に伴い調子村・勝竜寺村・馬場村・開田村・友岡村を合併して新神足村となっている。この時、下海印寺村・金ヶ原村・浄土谷村・奥海印寺村が合併した海印寺村と長法寺村・粟生村・井ノ内村・今里村が合併した乙訓村が生まれている。
昭和24年(1949)10月1日に上記の新神足村、海印寺村そして乙訓村の3村が合併して長岡町が誕生している。さらに昭和47年(1972)10月1日に市制施行により長岡市となるが、新潟県長岡市との混同を回避するため即日改称して長岡京市としている。もちろん市名は、延暦3年(784)同13年(794)までの11年間、山城国乙訓郡に存在したかつての都・長岡京に由来している。しかし南北5.3Km東西4.3Kmとされる条坊は隣接する向日市、京都市西京区にも広がっており、長岡宮大極殿遺址も向日市に建てられている。また長岡京遷都に先立って延暦3年(784)5月16日に藤原種継らに調査に向わせた長岡村も向日市にあったとされている。現在の長岡京市に含まれる長岡京は右京の二条以南、左京の四条以南八条以北とされている。
長岡京駅のある神足は、駅の西口と名神高速道路と東海道新幹線を含む一帯の地名となっている。神足村は長岡京駅の西側を南北に走る西国街道を中心として発達してきた。神足村の東端は駅東口を出た先に流れる小畑川とされている。また上記のように明治8年(1875)に古市村を合併したため、東海道新幹線の東側までを神足と呼ぶようになっている。因みに長岡京駅の西口の地名は東神足となり駅の西から、神足、東神足、神足という珍しい配置となっている。村名の由来となっている神足神社は東神足2丁目に現存する。乙訓十九座の一として数えられる神足神社は、文徳天皇の斉衡元年(854)に国の官社にあげられている。祭神については論争があり確定していない。
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