文書と写真・地図による「記憶」の再現

光明寺



西山浄土宗総本山 報国山 光明寺(こうみょうじ) 2009年12月9日訪問

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光明寺 女人坂

 長岡京駅より阪急バス・光明寺循環20番に乗車すると、およそ15分位で粟生の光明寺前に到着する。かつての粟生村は光明寺背後の山より同門前の平地部を含む部分にあった。西山の一部をなし、古くは荒野や山野であったと考えられている。一般的に粟生という地名は粟ができた畑を指すことが多く、湿地や水辺から海辺を示す語としても知られている。「日本歴史地名大系第26巻 京都府の地名」(平凡社 1979年初版第一刷)によると、光明寺の境内に光明寺古墳、また背後の山にも烏ヶ岳古墳などがあることが分かる。このように桂川右岸の丘陵地に、古墳が多く残されていることは、古くからこの地で生活してきた人々の存在を示しているともいえる。

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光明寺
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光明寺 浄土門根元地の碑

 光明寺前の交差点の脇に総本山光明寺と記された寺号碑が建つ。ここより、ほぼ平坦な参道が始まり、その100メートル先に光明寺の総門が見える。総門の右手には浄土門根元地の石碑が建つ。光明寺の歴史の中で触れる予定だが、粟生広谷の里は法然上人が初めて南無阿弥陀仏の教えを説いた場所とされている。この故事により永禄6年(1563)正親町天皇から「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という綸旨を賜っており、これが石碑の謂われとなっている。
 光明寺の総門は幕末の天保16年(1845)に建立されたもので、装飾の少ない高麗門形式のため質実剛健な印象を与える。この総門が東面しているため、境内は奥に進むにつれて徐々に西山を上って行くこととなる。総門を潜り境内に入った左手には閻魔堂が建てられている。堂宇に祀られている閻魔様は、閻地院のご本尊であったものを光明寺に移している。

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光明寺 総門

 総門を潜ると参道はY字路になっている。右側の女人坂はJR東海のコマーシャルで取り上げられたため非常に有名な風景となっている。左側の「もみじ参道」と名付けられた道の先には薬医門が見える。順路としては女人坂を上り、御影堂、阿弥陀堂そして釈迦堂をお参りした後、もみじ参道を経て帰って行くこととなるようだ。女人坂ともみじ参道が合流する場所に馬の背に逆さに乗っている僧侶の姿が刻まれている碑がある。熊谷蓮生法師が関東へ布教の旅に出る際、阿弥陀様が居られる西に背を向けて進むことはできないと、馬に逆さに乗って西を拝みながら進んで行ったという東行逆馬の故事を基に建立された碑である。またその先には鈴鹿野風呂の句碑「浄土門 ここにはじまる 照紅葉」がある。大正から昭和にかけて活躍した俳人・鈴鹿野風呂は明治20年(1887)京都に生まれ、京都帝国大学を卒業している。ホトトギスを通じて高浜虚子に俳句を学び、日野草城らと当時の京大三高俳句会を基盤とした京鹿子を創刊している。

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光明寺
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光明寺

 既に紅葉の季節が過ぎたため、拝観料を納めることなく境内に入ることができる。ほとんど訪れる人がいない上に、まだ少し紅葉の名残が感じられるため非常に得をしたような気持ちになる。ちなみに2012年の「紅葉の特別入山」は11月17日(土)から始まり、12月9日(日)で終了している。恐らく訪れた日の前の週の日曜日までが特別入山期間だったのではないだろうか。500円の入山料を払うと釈迦堂、阿弥陀堂などの堂宇内や石庭の拝観が可能となっている。光明寺の全てを知るためには改めてもう一度訪れなければならないようだ。

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光明寺 女人坂

 女人坂という名称とおり段面を幅広くとっているため、急な階段という感じは全く与えないが、いざ上って行くとかなりの高さとなっている。見事な紅葉に目を奪われるが、この表参道自体も美しく作り上げられている。光明寺の公式HPには、信者の人々が小畑河から運んだ綺麗な小石を敷き詰めて作り上げたとしている。

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光明寺 中央に東行逆馬の碑が見える
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光明寺 東行逆馬の碑

 光明寺は西山浄土宗に属している。建暦2年(1212)京都東山大谷で宗祖法然上人が没する。黒谷本坊・白川本坊や聖教類が信空に託されたことから、法然の後継者は信空であった。しかし上人の教義に対する解釈が門人たち間で微妙な違いを生じるようになり、証空が西山義、弁長が鎮西義、幸西が一念義、長西が九品寺義、隆寛が多念義、源智が紫野義、堪空が嵯峨義そして親鸞が真宗義を唱えるようになっている。嘉禄3年(1227)延暦寺僧徒が東山大谷の法然の墓堂を破却する事件が生じる。そして隆寛が陸奥国へ幸西が壱岐国へ流罪となり、再び専修念仏の停止が命ぜられる。これは法然の生前に行われた承元元年(1207)の念仏停止、すなわち承元の法難(東山の安楽寺の項で触れているので、ご参照ください。)に次ぐものであった。

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光明寺
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光明寺 左が閻魔堂

 この嘉禄の法難の発端は、建久9年(1198)法然上人の帰依者であり、最大の庇護者でもあった関白九条兼実の要請により、撰述した論文「選択本願念仏集」にある。選択集が建暦2年(1212)開板印行されると、これに対する批難が次々と起こる。高山寺の明恵高弁は同年中に摧邪輪三巻を、また翌年には摧邪輪荘厳記一巻を撰している。天台宗の定照は弾選択を、そして日蓮宗の宗祖日蓮も立正安国論をやや時代の下った文応元年(1260)に著している。定照に論争をしかけられた隆寛は顕選択を著し、逆に弾選択批判を行うが、これが叡山の衆徒の反発をひき起こすこととなった。衆徒は専修念仏者をみつけ次第、ところかまわず黒衣を引き裂くなどの乱暴を働くようにおこなった。さらに上人の遺骸を鴨河へ流すという計画が語られるようになり、信空や覚阿らが上人の遺骸を安全な地に移さざるを得なくなる。宇都宮頼綱入道蓮生、千葉入道法阿、渋谷入道道遍、内藤入道西仏など関東御家人の念仏者が警備にあたり、一旦は嵯峨の二尊院に移している。そして信空や覚阿らの不安は的中し、嘉永3年(1227)6月22日叡山の衆徒によって東山大谷の法然の墓堂は破却され、叡山大講堂前で選択集の板木が焼却される。また法然上人の遺骸を二尊院に移したことも叡山の知るところとなったため、さらに同月28日に密かに太秦の広隆寺来迎院に移され、来迎坊圓空に託されることとなる。太秦大映通り商店街の途中、三吉稲荷神社から南に入った右手に西光寺がある。山門前に圓光大師遺蹟の碑が建つように、圓空がこの地で上人の遺骸を護ったとされている。

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光明寺
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光明寺

 なお法然上人の遺骸は石棺に納められていたが、その石棺から光明が解き放たれ、粟生の地を指し示したとされている。翌年の安貞2年(1228)正月25日、上人の十七回忌をトして、西山粟生野の幸阿のもとに遺骸を移し、ここで信空、証空、覚阿らの門弟が見守る中で荼毘に付せられている。粟生の地で火葬された法然上人の遺骨は、弟子たちによって分骨されている。証空が粟生の地に廟を建て粟生光明寺としている。そのため石棺と火葬所跡も残されている。湛空は天福元年(1233)1月25日嵯峨二尊院に雁塔を建て遺骨を納めている。源智は文暦元年(1234)に初葬地である大谷禅坊に廟堂を復興し遺骨を宝塔に奉安している。この時、仏殿、御影堂、総門を建て知恩院大谷寺と号している。また信空は当初、分骨を肌身離さずに奉持していたが、その死後に金戒光明寺に分骨を納める廟が建てられている。 その後、由来は明らかでないものの知恩寺や清浄華院にも御廟が建立されている。近年では、法然800年遠忌を期して増上寺に円光大師堂が建立されている。この他、法然上人が来訪したという高野山奥之院、善通寺、光明坊を始めとして、熊谷直実が創建した嵯峨天龍寺の法然寺、讃岐で法然が住したとされている生福寺旧跡(高松法然寺・西念寺)にも法然上人の墓が建てられている。

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光明寺

 これ以降、法然教団の分派化が加速し、浄土四流が形成されていく。黒谷本坊・白川本坊や聖教類を託された信空が安貞2年(1228)に没すると、京都の浄土宗の主流となった証空の西山義、九州の草野氏の庇護を受けた弁長の鎮西義、そして東国への流刑を機に却って同地で多念義を広めた隆寛の長楽寺義、京都で証空に対抗して所業本願義を説いた長西の九品寺義の4派が浄土四流となる。既に有力な集団の1つとなっていた親鸞の教団は、その没後に浄土真宗として事実上独立するため四流には含まれていない。他にも嵯峨二尊院の湛空や知恩院を再興した源智、一念義を唱えた幸西などは四流に加わらずに独自の教団を構成した。
 しかし中世を通じて残ったのは浄土真宗を別にすると、西山義と鎮西義の2つであった。次第に信空の白川門、源智の紫野義、堪空の嵯峨義は鎮西義に吸収され、幸西の一念義、長西の九品寺義、隆寛の多念義は衰退していった。そのため西山義と鎮西義の両義の教団を西山派、鎮西派と称することとなる。証空の死後、西山派は西谷流・深草流・東山流・嵯峨流に分裂する。鎮西派も良忠の死後に白旗派・名越派・藤田派・一条派・木幡派・三条派に分かれるなど、浄土宗は更なる分裂の時代を迎えることになる。
 その後南北朝時代から室町時代にかけて、鎮西派の中でも藤田派の聖観・良栄、白旗派の聖冏・聖聡が現れて宗派を興隆して西山派及び鎮西派の他の流派を圧倒する。特に白旗派の聖冏は、五重相伝の法を唱え、浄土宗に宗脈・戒脈の相承があるとし、血脈・教義の組織化を図り宗門を統一しようとした。聖冏の弟子である聖聡は、増上寺を創建している。また文明7年(1475)松平宗家第4代当主の松平親忠が戦死者供養のため、聖聡の孫弟子にあたる愚底を開山として岡崎に大樹寺を創建している。

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光明寺

 応仁の乱後、白旗派の手によって再興された知恩院は天正3年(1575)に正親町天皇より浄土宗本寺としての承認を受け、諸国の浄土宗僧侶への香衣付与・剥奪の権限を与えられるようになる。すなわち、香衣着用の勅許は知恩院が執奏し、知恩院に背けば勅許毀破の綸旨を出すというもので毀破綸旨と称されていた。更に親忠の末裔で松平宗家第9代当主にあたる徳川家康が江戸幕府を開くと、浄土宗は手厚い保護を受けることになる。特に知恩院の尊照と増上寺の存応は、家康の崇敬を受けている。元和元年(1615)に寺院諸法度の一環として浄土宗法度が制定され、知恩院を門跡寺院第一位の本山、増上寺はこれより下位に置かれたものの、大本山の称号と宗務行政官庁である総録所が設置されている。なお、西山派に対しても浄土宗西山派法度が出され、浄土宗は徳川将軍家、ひいては幕藩体制の保護を受けるようになる。

 明治初年の廃仏毀釈の混乱の中から浄土宗の近代化が図られる。白旗派が名越派などを統合する形で鎮西派が統一されて現在の浄土宗の原型が成立している。第二次世界大戦後は金戒光明寺を中心とした黒谷浄土宗、知恩院を中心とする本派浄土宗が分立するが、昭和36年(1961)の法然750年忌を機に浄土宗本派が復帰、16年後に黒谷浄土宗も復帰している。
 一方、西山派は西山浄土宗(総本山 光明寺)・浄土宗西山禅林寺派(総本山 禅林寺)・浄土宗西山深草派(総本山 誓願寺)の3派が並立した状態が続いている。

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光明寺 女人坂

「光明寺」 の地図


大きな地図



光明寺 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
 光明寺 34.9384 135.6751
  光明寺道009 34.939 135.6846
  光明寺道010 34.9389 135.6826
  光明寺道011 34.9388 135.6805
  光明寺道012 34.9388 135.6787
  光明寺道001 34.9428 135.6999
  光明寺道002 34.9424 135.6989
  光明寺道003 34.9419 135.6978
  光明寺道004 34.9412 135.6964
  光明寺道005 34.9402 135.6949
  光明寺道006 34.9398 135.6936
  光明寺道007 34.9398 135.6924
  光明寺道008 34.9394 135.6887

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