錦水亭
八条ヶ池の南半分に面して錦水亭の建物が建てられている。もともと、筍料理で有名内老舗であることは承知していたので、その風情を楽しむだけで食事を頂く予定は立ててなかった。それでも帰宅後に錦水亭の公式HPを確認するとランチタイムに訪れない限り、夜の会席料理にはとても手を出せないことが分かった。
長岡京市の公式HPには「竹とたけのこ」というページが掲載されている。いまや筍は長岡京市の名産品のひとつとなっているため、市のHPに掲載されていてもおかしくはない。現在、日本で食用にされる筍の代表的なものは、中国から伝えられた孟宗竹(モウソウチク)である。竹とたけのこの歴史年表にも記されているように、延長5年(927)に纏められた延喜式には、朝廷に納める箸用の竹が乙訓園で産出したとされている。そのため孟宗竹が唐から日本に渡ったのは、これより前の延暦20年(801)長岡京市の海印寺寂照院の開山・道雄上人によるとされている。しかし安貞2年(1228)曹洞宗の開祖・道元禅師が宋から持ち帰り寂照院に植えたなどの諸説もあり、渡来の歴史は明らかになっていない。そのようなことから寂照院には日本孟宗竹発祥之地の石碑が建てられている。 先の年表にも掲載されているように、11世紀に成立した枕草子にも「鞆岡は笹の生いたるがおかしきなり」とあることからも比較的早い時期に日本に渡ったとも考えられる。しかしこの時点では、鑑賞用とされ、食用に供されることはなかったようだ。江戸時代初期には乙訓一帯で竹年貢が定められ、天明2年(1782)桂宮家で開田産のたけのこを題材に和歌が詠まれている。寛政12年(1800)頃、商品作物としての筍の栽培が出荷台帳より確認でき、幕末の天保年間(1830~43)には、孟宗竹の筍栽培が急速に普及している。そして明治9年(1876)の東海道線開通、向日町駅と山崎駅の開業により、筍の輸送手段が淀川舟運から鉄道へと移り神戸まで販路が伸びている。しかし明治10年代(1877~86)には筍の生産が一時衰退している。これを回復したのが、大山崎村の仲買商・三浦芳次郎である。
天保3年(1832)三浦芳次郎は乙訓郡円明寺村に生まれている。上記のように明治初年より、一旦は筍の需要は高まりを迎え、西山山麓には竹林が急激に増産される。この竹林の拡張が筍の需給バランスを崩壊させ、生産過剰となった筍の販売価格は一気に下落に転じている。これにより生産農家は孟宗筍の畑を茶畑に転換するほど窮地に立たされた。青物の仲買商を営んでいた三浦芳次郎は、販売先を京都・大阪に限らず、東海道線の沿線上の神戸の問屋とも取引を結び販路を兵庫まで拡げている。その後、各地に市場をつくり年々販路を拡大していった。その結果、筍の需要は再び増加し、価格は安定し乙訓の筍生産は再び勢いを盛り返すこととなった。明治26年(1893)地元有志や関係者によって芳次郎の帳場があったという円明寺を流れる小泉川に架かる小泉橋西詰(西国街道 京都府乙訓郡大山崎町字円明寺)に、顕彰碑が建てられている。
さて錦水亭に話しを戻す。その歴史については公式HPに僅かに記されているだけで、あまり詳しいことは分からない。創業が明治14年(1881)とあるが、これは桂宮(八条宮)家の第12代当主である淑子内親王が53歳で薨去された年と一致する。和宮の異母姉にあたる淑子内親王は同年10月20日相国寺にて葬儀が執り行われた後、泉涌寺内に葬られている。そして桂宮家は継嗣不在のため断絶している。恐らく明治初年の上地令や桂宮家の廃絶により八条ケ池に面して料亭を展開することが可能になったのであろう。
なお錦水亭の名称は山階宮の命名によるとある。伏見宮邦家親王の第一王子である山階宮晃親王は、元治元年(1864)還俗、伏見宮に復した後に勅許をもって復飾し改めて親王宣下と共に、山階宮の宮号を賜っている。つまり幕末に創設された宮家である。そして中川宮朝彦親王の異母兄でもある。
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