朝彦親王墓
朝彦親王墓(あさひこしんのうのはか) 2008年12月22日訪問
雲龍院の拝観を終えて、泉涌寺の大門方向に歩いていくと、解脱金剛宝塔の南に賀陽宮墓地と久邇宮墓地がある。 文久3年(1863)の八月十八日の政変の政変後、一時尹宮と称していた中川宮朝彦親王は、翌元治元年(1864)に賀陽宮の宮号を賜っている。宮号は朝彦親王の宮邸として賜った京都御所南方の旧・恭礼門院の女院御所にあった榧の老木に由来すると言われている。明治元年(1868)朝彦親王が広島流謫された際に宮家は廃されるが、明治33年(1900)朝彦親王の第2王子である邦憲王によって宮家は再興されている。邦憲王は明治28年(1895)伊勢神宮祭主に就任するなど、朝彦親王の本家となった久邇宮家を継がなかったものの親王の役職は継承していたこととなる。その後、邦憲王の第1王子・恒憲王が宮家を継ぐが、敗戦の責任をとり自ら皇族の臣籍降下を主張し、昭和22年(1947)に皇籍離脱している。
久邇宮家もまた朝彦親王によって創設されている。親王は明治5年(1872)広島流謫が許され、生家の伏見宮に復籍している。そして明治8年(1875)久邇宮を賜り伏見宮から独立している。宮号の由来は、奈良時代の一時期、都が置かれた山背国相楽郡の地で、現在の京都府木津川市に位置する恭仁京に因んだといわれている。久邇宮は明治24年(1891)朝彦親王の薨去によって、第3王子の邦彦王が宮家を相続している。これは先に触れた第2王子の邦憲王が病弱だったため、邦彦王が久邇宮家を継ぐこととなった。この2代邦彦王こそが、この項の主要な役割を果たす人物となっていく。3代朝融王は昭和4年(1929)父の薨去によって相続している。そして久邇宮もまた昭和22年(1947)に皇籍離脱している。
以上のようにこの2つの墓地は、中川宮朝彦親王によって創設された宮家のものである。そしてこの宮家墓地の東側に守脩親王墓、淑子内親王墓そして朝彦親王墓がある。
守脩親王は文政2年(1819)伏見宮19代貞敬親王の第9王子として生まれている。伏見宮20代邦家親王の弟にあたる。天保4年(1833)親王宣下、同年9月に円満院に入り覚諄入道親王を名乗る。安政3年(1856)二品に叙せられる。安政6年(1859)円融院に入り梶井門跡となり、名を昌仁入道親王と改めている。親王は天台座主も務めたが明治維新後は還俗し、梶井宮守脩親王を名乗っている。そして明治3年(1870)宮号を梨本宮に改称する。明治14年(1881)63歳で薨去。親王には継嗣となる王子が無かったため、山階宮晃親王の王子菊麿王を養子としている。
淑子内親王は文政12年(1829)仁孝天皇の第3皇女として生まれ、孝明天皇は異母弟、和宮親子内親王は異母妹にあたる。天保11年(1840)閑院宮愛仁親王と婚約し、天保13年(1842)に内親王宣下が行われたが、その2日後に愛仁親王が薨去したことにより、結婚には至らなかった。文久2年(1863)異母弟節仁親王の没後、当主不在となっていた桂宮家を継承し、第12代桂宮となる。桂宮家は桂離宮を造営した八条宮智仁親王を祖とした宮家である。
慶応2年(1866)には准三宮(准后)、一品に叙されるなど、異例の厚遇を受けている。以後、桂准后宮と称せられることになり、座次でも同じく准三宮(准后)であった孝明天皇女御九条夙子より上座とされた。明治14年(1881)53歳で薨去。内親王の薨去をもって、桂宮家は継嗣不在のため断絶する。
朝彦親王墓が孝明天皇陵の近いに地にあったとは知らなかった。
文久3年(1863)に発生した八月十八日の政変において、確かに薩摩藩に担がれたとしても朝彦親王は主役を見事に演じた。そして次第に薩摩藩と距離を置くことが、親王の権勢を弱めることとなったが、慶応2年(1866)12月25日の孝明天皇崩御までの間、朝廷政治の中心にあったことも事実である。それにも関わらず、親王について書かれた書籍は少ないのは何故だろうか?
現在、比較的入手が容易な書籍として、浅見雅雄氏による「闘う皇族 ある宮家の三代」(角川選書 2005年刊)がある。これも宮中某重大事件と邦彦王の関係を明らかにするために書かれたものであるため、父である朝彦親王の伝記とは言えない。特に外部からの政治的な圧力に簡単には屈しない邦彦王の性格に、大きな影響を与えた人物として脚光が与えられている。あとがきを含めて310ページの中、終盤の第八章に「朝彦親王と久邇宮家」という章が設けられ、53ページを割いて朝彦親王の生い立ちから死まで、そして死後に行われた久邇宮家に対する明治天皇の配慮を記している。これが朝彦親王の足跡を知ることのできる唯一に近い書籍であることは、非常に残念な現状である。
浅見氏の「闘う皇族」に先立って、長文連による「皇位への野望」(柏書房 1967年刊)が発刊されている。こちらは最初の3分の1を幕末の政情説明に費やしているものの、朝彦親王を中心に据えて幕末の複雑な政治状況を描いている。同書は1980年に図書出版から再版されたようだが、いずれの版も新刊で購入することはできない状況にある。そのため図書館で確認するに留まったが、安政の大獄後の親王の復権から政治的中心に君臨した時代の記述に全体のほぼ半分以上を割いている。よって慶応3年(1867)12月9日の小御所会議の決定により、政治的発言の機会を完全に失い、広島への流謫そして帰京後の久邇宮家創設については、僅かに10ページ程度で簡単に説明されている。この書籍もまた「宮中某重大事件と中川宮」という章を結びとして設けている。朝彦親王の死後に事件が生じたことを知っていても、何かの係わりがあったのではないかと考えさせるものが親王にあったのであろう。
宮中某重大事件に興味を持ち、朝彦親王の生涯を記すこととなった長文連は、親王の足跡を探るうちに徳富蘇峰の著わした「維新回天史の一面 久迩宮朝彦親王を中心としての考察」(民友社 1929年刊)に出会っている。このあたりの経緯は「皇位への野望」の最初の方に記されている。「維新回天史の一面」は昭和4年(1929)5月10日に発刊された書籍である。序言の中で自ら記されているように、既に邦彦王は同年1月27日に死去している。この書の起草にあたり、邦彦王の働きがけがあったことが次の言葉から感じられる。
本書は敢へて殿下の思召に依りてとは申さぬが、少くとも殿下の御希望を忖度して稿を起こしたものである。
また蘇峰は、この書を纏めるにあたり多くの資料を邦彦王より提供されたようである。
一切遠慮なく、斟酌なく、思ふ通りの事を直言直筆せらるゝ事が、最も希望し、且つ満足する所である。
との仰せを蒙つた。
斯くて殿下は御手許にある凡有る一切の資料を御貸下げになつたのみならず、他に御供託遊ばれたものまでも取出して御貸下げに相成つた。而して記者が殿下に拝謁して種々の事を御尋ね申上げたるに、逐一御垂示を忝くした。されどそれは唯だ事実に就いての事で、評論や意見は全く不肖一人の責任に属することは申すまでもない。
なぜ徳富蘇峰は朝彦親王の伝記をこの時期に纏めようと考えたのだろうか?既に明治26年(1893)に蘇峰は「吉田松陰」を書いているが、本格的に歴史に向かい合ったのは、大正7年(1918)「織田氏時代 前篇」から始まる「近世日本国民史」を国民新聞の連載で開始した時期と思われる。そして第二次世界大戦終結の昭和20年(1945)までに、第76巻「明治天皇御宇史 15 函館戦争篇」を刊行している。そのようなことから、この「維新回天史の一面」は「近世日本国民史」の執筆中に書き上げた書籍であることが分かる。
大正9年(1920)6月10日に婚約が内定したものの宮中某重大事件が発生するなどで、正式な決定が発表されることなく時が過ぎていく。大正10年(1921)2月11日の朝刊に、“御婚約変更無し 宮内大臣辞職確定”という内務省当局談が掲載されたものの大正天皇の勅許が下りたのは、さらに先の大正11年(1922)6月20日のことであり、同年(1922)9月18日に結納にあたる納采の儀が行われている。しかし大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災により、年内に行われはずの婚儀は大正13年(1924)1月26日に延期されている。
大正13年(1924)2月頃、もうひとつの婚約破棄事件、すなわち朝融王と伯爵酒井忠興の娘・菊子との婚約を解消するという動きが発覚している。この婚約は貞明皇后の裁可を得ていたため、皇后の裁可を覆すことはことにつながる。形の上では酒井家から婚約辞退を申し出て事態が収捨したのが同年の11月、翌大正14年(1925)1月に朝融王と伏見宮博恭王の三女・知子女王の婚儀の礼が皇居内の賢所で行われている。
このように大正9年(1920)から大正14年(1925)の5年間にわたる久邇宮家内の騒動が収まるまでは邦彦王も蘇峰に朝彦親王伝記の執筆を依頼できなかったと思われる。そのような背景を受けて、蘇峰によって「維新回天史の一面」は昭和4年(1929)に発刊される。そして「朝彦親王日記」の上下巻もまた同年に日本史籍協会から発行されている。元治元年(1864)7月から慶応3年(1867)まで、一部欠損部分があるものの、親王が政治的中心にあった時期の事象が綴られている。
すなわち朝彦親王の書籍が続いて発刊された昭和初年は、後にも触れるが新政府転覆の謀議により広島流謫となった親王の社会的復権が成された時期と考えてもよいだろう。
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