松尾大社 その2
松尾大社(まつおたいしゃ)その2 2009年12月9日訪問
松尾大社では、祭神の大山咋神を中心に、この地や秦氏との関係について書いてきた。これが伝説上の松尾社の起源となっているが、伊呂波字類抄には下記のように記されている。
本朝文集云、大宝元年秦都理始建立神殿、
立阿礼居斎子供奉
飛鳥時代の最末期となる大宝元年(701)に秦都理が社殿を営み、山頂附近の磐座から神霊を移している。すなわち現在の松尾大社の創建より以前から松尾山の頂上近くの、秦氏本系帳では日崎の峰とよばれる場所に磐座があり、ここが松尾社の旧鎮座地であった。この遷宮は持統天皇8年(694)の藤原京遷都から和銅3年(710)の平城京遷都の間の出来事でもある。そして秦都理は娘の知満留女を斎女(斎子)として奉仕させたとある。その子孫が明治初年まで幹部神職を勤めてきた。
秦氏本系帳によると養老2年(718)秦氏の一族・秦忌寸都駕布が初めて松尾社の祝いとなっている。
平安時代中期における年中行事の起源や沿革、内容を纏めた現存最古の公事書である本朝月令に下記のような一文が記載されている。
秦氏本系帳云。正一位勲一等松尾大神御社者。
筑紫胸形坐中部大神。戊辰年三月三日。天下坐松埼日尾。
又云日埼岑。大宝元年。川辺腹男秦忌寸都理。
自日埼岑更奉請松尾。又田口腹女。秦忌寸知麻留女。
始立御阿礼平。知麻留女之子秦忌寸都駕布。
自戊午年為祝。子孫相承。祈祭大神。
自其以降。至于元慶三年。二百三十四年。
伊呂波字類抄と同様に、この本朝月令でも大宝元年(701)に秦都理によって松尾社が創建されている。そして秦忌寸都駕布が知麻(満)留女の子で、戊午の年(=養老2年(718))に祝になり、以後子孫が代々勤仕したと記されている。
中世以来松尾社の社家には神主東家、正禰宜南家などの秦姓が多く見られる。しかし社務の実権は摂社の月読神社の長官中臣系の伊岐氏が掌握し、松尾祠官を兼帯していた。伊岐氏は壱岐氏のことであり、その氏名が示すように壱岐国壱岐郡を本貫とする古代氏族。壱岐氏には古くは県主、後に島造に任じられ、姓を直、後に公と称した一族とする説と、唐人の揚擁の子孫と称する渡来人系の一族で、姓を史、後に連と称した一族とする2つの説があるようだ。どちらの説を採るにしても、松尾社の祭神である市杵島姫命が宗像三女神の一人であり、古来より海上守護の神徳があるとされてきたことに関係している。この地に月読社を築き定着していった壱岐氏は、秦氏と婚姻を重ね同族化したと考えられる。そして室町期頃より松室氏を名のり、秦氏から分かれたと考えられる。松尾神社文書に松室が現れるのは寛正3年(1462)からのことである。
秦伊侶巨が伏見稲荷大社を創建したのが和銅年間(708~15)と考えられていることから、都理と伊侶巨はほぼ同じ世代と考えることもできる。ただし秦酒公や秦大津父からの秦氏の家系図が明らかになっていないため、どのような血縁関係であったかは分からない。
天平2年(730)松尾社に大社の称号が朝廷より許されている。秦氏の総氏神として創設された松尾社は、やがて朝廷守護神の格が与えられるようになって行く。延暦3年(784)桓武天皇は長岡京への遷都を松尾社に奉告している。続日本紀には以下のように記されている。
さらに長岡京から平安京に都が遷されると、王城鎮護の社として東の賀茂社(上賀茂と下賀茂の両社)とともに西の松尾社として並び称されるようになる。このような評価は長岡京と平安京の建設工事を経済的な側面から支援したのが秦氏であったことに起因したとも考えられる。特に長岡京造宮使に任命され、そのために暗殺された藤原種継の母が秦朝元の女であったことからも分かるように、二度の造営には秦氏が強く関係していた。
平安時代に入り、承和14年(847)仁明天皇は神の祟りを鎮めるために松尾社に勅使を派遣し、従三位を授けている。葛野郡の槻の木を切って太鼓を作ったところ、松尾神の樹木を伐採したとというお告げがあり、風雨が激しく吹きつのって人が多く死んだり、官吏が馬から落ちて傷ついたりした。神験がはなはだ著しいのに驚いた朝廷は、その太鼓を松尾大社に奉納して祈謝するとともに、神位を従三位に改めたという言い伝えがある。この神の神威は厳しく、しかも速やかであったため、この頃より世間ではこの神を猛霊と称するようになった。朝廷では左右馬寮の馬を奉って天皇の病気祈願をする一方、次第に神位を進めるようになった。仁寿2年(852)文徳天皇によって正二位に、貞観元年(859)清和天皇は松尾社を従一位に、そして貞観8年(866)には正一位の極位に進め、後に勲一等も追贈されている。このように朝廷ではしばしば神馬や神服を奉っている他、寛弘元年(1004)年には一条天皇が行幸されている。以来、後一条・後朱雀・後三条・堀河・崇徳・順徳と歴代天皇の参拝は10度に及んでいる。
そのため延長5年(927)に完成した延喜式では、二神ともに名神大社に列せられ、平安中期の二十二社制では、太神宮(伊勢神宮)、石清水、賀茂(賀茂別雷神社と賀茂御祖神社)に次ぐ第四位に記されている。このように朝廷の崇敬を反映し、松尾社の社領も平安時代を通じて拡大の一途を辿る。奈良時代の松尾社の神戸が山城二戸、因幡二戸であったが、その後に両国で各五戸が新封されている。神戸とは、古代から中世の日本において特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のこと。神戸からの租税は全て神からの賜物として神社が獲得することができ、神戸の住民は神社の修造や祭祀に従事する義務を負うものであった。正一位となる直前の貞観7年(865)には新たに神田五段のほかに、山城国愛宕・紀伊・乙訓・葛野の四郡の得度除帳田を宛行われ、同9年(867)10月には二戸が追封されている。このような神戸はやがて松尾社の荘園として発展してゆくと共に、近郷住人からの買得地も増えている。先にも触れたように一条天皇が行幸された寛弘元年(1004)の翌年には、山田郷(現在の西京区)大豆田里四段余りを松尾社の神主秦奉親が買い取っている。そして寛弘7年(1010)には大豆田里の畠地と同じく山田郷の木原田里とを交換し松尾社領としている。これらの土地の移転を保障する者として松尾社禰宜秦有景・同祝秦高吉・同社禰宜秦常正・同祝秦佐正らの名前が残されている。これらのことからも松尾社祠官が山田郷近辺の地で勢力を振るっていたことが伺える。松尾社が朝廷の崇敬を得た頃より急激に社領等を拡大して行く経緯については、「日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名」(平凡社 1979年初版第一刷)に詳しく記されている。
松尾社が酒の神として信仰されるようになったのは中世以降のことであった。社殿背後の大杉谷には霊亀の滝がかかり、崖下から湧出する霊泉亀の井の水を使用した酒は腐敗しないとされている。そのため醸造家が亀の井の水を汲んで酒水に混和する風習が生まれ、松尾社が酒の神として信仰されるようになった。江戸時代の初期に黒川道祐によって刊行された山城国に関する最初の総合的地誌の雍州府志(新修 京都叢書第三巻 近畿歴覧記 雍州府志 光彩社 1968年刊 247頁)にも以下のように記されている。
江戸時代初期にはすでに醸造家の信仰を得ていたことが分かる。
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