小泉仁左衛門宅跡
小泉仁左衛門宅跡(こいずみにざえもんたくあと) 2009年12月9日訪問
樫原の辻から山陰道を西に少し入った所に、北から小畠川が流れてくる。この川は明智川ともよばれるように、明智光秀が天正3年(1575)丹波平定のおり、樫原を補給基地とし老の坂から樫原そして桂までの道を整備している。その際に、溜池や灌漑用水路の築造も行っている。小畠川はその際に作られた用水路とされている。小さな橋の傍らに駒札が建てられている。この駒札は、先の樫原の町並みで紹介した樫原宿場街と札場と同様、京都市の建てたものではないようだ。京の駒札(https://vinfo06.at.webry.info/201305/article_4.html : リンク先が無くなりました )に掲載されていないので全文を残しておく。
小畠川(こばたけがわ)
公称名は洛西西幹線用水路であるが、昔から、小畠川別名明智川と呼ばれてきた。嵐山渡月橋畔大堰川から分かれ、「京の五ッ岡」の一つ西の岡十一郷一帯の田畑を潤している。この用水路には種々の逸話が残っています。
天正十(1581)年六月二日、本能寺で主君織田信長公を誅殺した明智光秀は、早々に引き上げてくる途中のこの場所で落馬された。それを村人が見て、おにぎりでも食べて少し落ちつきなさいと腰掛も用意する親切をした。明智光秀は礼を言いながら、ときに東の火事は何処であるかご存じか、当てたら望の物を与えようといわれた。村人は即座に、本能寺であると答えると、見事だ何かしてほしいものはないかといわれた。村人は、この辺の水田には水が不足だから、川を造り水を通してほしいと申し出た。光秀はただちに着工したというのである。
しかし、光秀は三日後に秀吉に敗れている。この川は信長の命を受け、天正三(1575)年、丹波平定のおり、樫原を補給基地とし、老の坂から樫原・桂までの道を整備した時に、併せて溜池や灌漑用水路を築造したのです。明智川と呼んだのは光秀の領民に対する政策の善かったことの証左でしょう。
この小畠川の由来を示す駒札の足元には勤王家殉難之碑が建つ。これについては次の項で書くつもりなので、ここでは触れない。
小畠川を渡ったところには、比較的新しい共同住宅が建てられ、その前には油壺が置かれている。訪問した時には気がつかなかったが格子塀の裏側に由来が書かれていた。それには下記のようにある。
小泉家の由来
樫原は旧山陰街道沿いの、大名行列が入洛する直前の宿場町である。幕末の頃、当家の当主、小泉仁左衛門は長州藩御用達の油商を営んでおり、展示している油壺はその当時のものである。
仁左衛門は尊王攘夷を論ずる私塾を開き、森田節斎や梅田雲浜など進歩派の学者や武士も出入りしていたが、元治元年(1864年)に「蛤御門の変」が起き、長州藩が薩摩・会津の幕府軍に敗れ、長州藩士梅本遷之助ら3人の若き志士達も、この付近の樫原札の辻で殉死している。
この地で代々続く油商小泉家の当主・仁左衛門は、幕末の志士達を経済的に援助していたようだ。仁左衛門について詳しく説明した書籍を探したが、どうにも見つからないので、手元にあった書籍を纏めてみる。
石田孝喜氏の「幕末京都史跡辞典」(新人物往来社 2009年刊)によると、小泉仁左衛門は勤王志士の山口直(薫次郎)の親族にあたる。勤王の志に篤く村内子弟の教育を図るため私財を投じて私塾を設立している。石田氏は私塾の名称を立命館と記している。儒学者の森田節斎を大和から招き、後に節斎の友人の梅田雲浜も呼び、尊王攘夷の思想をこの地に広めている。仁左衛門宅には水戸藩士の鵜飼吉左衛門や頼三樹三郎も会したとされている。
森田節斎は文化8年(1811)大和五条の医師・森田文庵の三男として生まれている。容貌は大いに異変、性は極めて磊落、そして身幅を飾ることがなかったとされている。文政8年(1825)京都に出て、猪飼敬所より家業の医術を学ぶ。同10年(1825)からおよそ2年間、頼山陽に師事している。文政12年(1827)江戸の昌平黌に入り、安井息軒、塩谷宕陰らと相識るところとなる。全国を遊学した後、天保12年(1841)大和郡山に枕流塾を開き子弟教育を始める。安政元年(1854)京都丸太町の誓度寺で塾を開く。ただし丸太町・誓度寺を探したが、分からなかった。ちなみに紀伊粉河には同名の寺院があったようだ。
この頃より、節斎は優れた文才と弁難攻撃余力を残さずといわれた激しい憂国の弁論で、幕末における尊王攘夷論者の地歩を固めていった。そして門下生として、巽太郎、吉田松陰、江堵五郎、乾十郎、久坂玄瑞、安元社預蔵、万才庄助らを輩出している。しかし時勢は混迷を極め、尊王攘夷の論鋒は幕府攻撃に向けられることとなり、弟子をはじめとして囚われ下獄する志士が相次ぐ。そのため節斎も幕府に疑われ追われの身となり、人生で50回以上も転居したとされている。
文久元年(1861)より備中で子弟教育を行う。その後、門人の原田亀太郎が天誅組に参加、自らは中川宮朝彦親王へ上申するなどの運動で幕府の監視を受けるようになり、紀伊粉河に逃れ髪を下ろし愚庵と号す。慶応4年(1868)7月26日、明治政府が樹立した後に紀伊那賀郡花見村に没す。享年58歳。
小泉仁左衛門は森田節斎を知り得たことにより、節斎と交流関係のあった勤王派の人々と巡りあい、そして尊王攘夷運動にのめりこんでいったと考えてもよいだろう。そして節斎に関連した多くの人々は安政の大獄から八月十八日の政変そして禁門の変で命を落として行くこととなる。そういう意味で維新にむけた倒幕運動の前半部分を支えた人々でもある。その活動のために尊王思想を創り上げ、人的ネットワークを準備したのが森田節斎の世代の役割だったと思う。頼山陽から梁川星巌の著作物や主宰する私塾から、実際の活動を行う人々が育っていったことを考えると、一概に嘉永6年(1853)のペリー来航からを幕末と考える訳にもいかないことは明らかであろう。そしてその胎動は京の中心部だけでなく、樫原のような地でも起こっていたことが小泉仁左衛門を通じて感じられる。
仁左衛門は山口薫次郎と図り、三条通東洞院梅忠町に私塾を開き、梅田雲浜を塾頭に迎えている。この塾からは、肥後の松田重助、長州の吉田稔麿、播州の大高又次郎、西川耕蔵を輩出している。
安政4年(1857)長州藩留守居役宍戸九兵衛らが仁左衛門宅を訪れている。私塾を通じて長州藩士と親しくなるにつれ、尊王攘夷実行のための資金を得るために、長州藩との物産交易を計画するようになる。梅田雲浜、宍戸九郎兵衛、三宅定太郎、松坂屋清兵衛、大和高田の村島長兵衛、村島長次郎、五条の乾十郎、肥後の松田重助らの間を斡旋し、ついに長州物産販売、山城丹波物産購入の仕事を小泉家で行うこととなった。長州より入るものは米、塩、蝋、干魚、紙など、京からは呉服、小間物、菜種、材木などを送り出していた。特に米、塩、紙は「毛利の三白政策」として有名であるが、蝋を加えて四白とも言われている。殖産興業によって得られた利益は、やがて長州藩全体の兵制改革を実施する経済的な背景にもなった。この事業に最も尽力したのは梅田雲浜であった。長州藩から雲浜に浦靱負を使者として贈り物がきたとされている。
後に安政の大獄で獄死する梅田雲浜は文化12年(1815)若狭国小浜藩士・矢部岩十郎の次男として生まれる。通称は源次郎。諱は義質、後に定明に改める。矢部家は兄の孫太郎が嗣ぎ、源次郎は祖先の姓である梅田を名乗る。
ここからは、「続日本史籍協会叢書 梅田雲浜関係史料」(東京大学出版会 1976年復刻)に掲載されている雲濱年譜を参照して雲浜の前半生を眺めて見る。文政5年(1822)8歳で藩校順造館に入学する。文政12年(1829)京都に上り、河原町二条の山田仁兵衛の許に寄寓する。ここより堺町二条の望楠軒に通学する。望楠軒は浅見絅斎に学んだ若林強斎が開いた家塾で崎門学派を継承している。翌年の天保元年(1830)には江戸に赴き、小浜藩の儒者・山口管山に就いて学ぶ。この後、天保11年(1840)26歳まで江戸で学ぶ。その後、江戸より小浜に帰るが、この時には既に梅田姓を名乗っている。同12年(1841)父に伴い関西九州を遊歴し、各藩の形勢を視察する。この旅の中で長岡監物や横井小楠に出会っている。
西国遊歴より戻った天保12年(1841)雲浜はさらに経義を研究するため、大津の上原立斎の許を訪れる。始めは坂本町、その後大門町に寓し、自らも湖南塾を開き子弟教育を始める。天保14年(1843)江戸勤番中の孫太郎が病没する。江戸に赴き兄の後事を経紀する。弟の三五郎が養子となり矢部家を継ぐこととなる。この年の秋に京の木屋町二条に居を移し、望楠軒の講主となり子弟を教育する。以後安政5年(1858)9月の捕縛まで京で過ごすこととなる。弘化元年(1844)春、上原立斎の長女信子を娶る。この年、森田節斎が高倉通三条下る丸屋町で教授を始める。
嘉永5年(1852)長男繁太郎が産まれるが、生活困窮のため居を洛西の高雄に移す。この年7月、小浜藩政に上書直言したことが忌諱に触れ、士籍を削られ浪人となる。一旦は高雄に引き込んだものの、不便なことより洛北の一乗寺村に移る。嘉永6年(1853)ペリーが来航すると、梁川星巌、頼三樹三郎達と対外政策に就いて日夜討議する。またこの年の12月、吉田松陰は梅田雲浜を訪ね、京の時勢について話し合っている。これはロシアの軍艦に乗り込み密出国するために長崎へ行ったものの、出航した後であったため、再び江戸へ向う途中であった。この頃から幕府の謂うところの謀議が行われ、それが安政の大獄における弾圧の口実となったといってもよいだろう。ある意味で既に出演者は揃っていた。
安政元年(1854)ペリー再来の報を聞き、雲浜は江戸に急行する。吉田松陰などの有志の士と日夜、今後の対外政策について激論を交わす。この年の夏には水戸を訪れ、武田耕雲斎、金子孫次郎、高橋多一郎、齋藤監物等に面会し尊王攘夷論を力説する。また小浜藩に時局の急を説く書を送るが、無視される。この年の9月18日ロシアのプチャーチンが軍艦を率いて摂津湾に入港する。十津川郷士に推され、雲浜は露艦撃攘の首領となる。この時、雲浜が賦した有名な詩が以下の通りである。
俄虜入浪華港、吉野十津川郷民謀出拒
請予為帥、慨然有作
妻臥病牀児叫飢
挺身直欲當戎夷
今朝死別與生別
唯有皇天后土知
妻は病床に臥し児は飢えに叫ぶ、身を挺して直ちに戎夷に当らんと欲す、今朝死別と生別と、唯皇天后土の知る有り、という意である。病に臥しているのは妻だけではなく、妻の実母も雲浜の家で療養せざるを得ない状況になっている。嘉永年間(1848~54)から続く生活困窮がここで頂点に達する。そのような状況の中で、自らの生命を擲って攘夷にむかうことは妻子の生命も同じく失われるという心情を詩に託している。雲浜等が謀議している10月3日プチャーチンは大阪を離れ下田に向う。結局何も生じることなく、雲浜の詩だけが残り、大阪での騒ぎは終わってしまう。
安政2年(1855)3月に妻の信子、そして4月に信子の実母も病没する。6月に三条通東洞院梅忠町に転居している。前述の石田氏の記述に依れば、小泉仁左衛門達が用意したこととなる。そして大和高田の木綿商の村島長兵衛の分家に当たる村島内蔵進の長女千代子を後妻にむかえている。
同3年(1856)2月に長男の繁太郎を病で失い、先妻の信子と同じく東山安祥院に葬っている。なおこの時期には、既に烏丸御池上る町に転居していたようだ。そして11月に萩を訪れ、重臣坪井九右衛門に面会している。朝権回復のために長州藩として奮起することを説いた。併せて勤王実行の手段として、長州藩と上国との物産交易の方法についても協議している。これが梅田雲浜と長州藩の経済が結びつく契機となった。安政4年(1857)の正月を萩で迎えた雲浜は京への帰路、備中に三宅高幸を訪ね、物産交易のことを談合している。京に戻った雲浜は、長州藩京都留守居役宍戸九兵衛、樫原の油商の小泉仁左衛門と山口薫次郎、松坂屋清兵衛、大和の村島長兵衛・長次郎・内蔵進・乾十郎・下辻又七、肥後の松田重助、備中の三宅高幸等と諮り、勤王事業を行う資金源の確保に成功した。
以上は「続日本史籍協会叢書 梅田雲浜関係史料」の雲濱年譜に従い、雲浜の経済的な基盤構築と尊皇攘夷運動の展開について記してみた。勿論、上記の資料を参照しているため、雲浜が主体となって長州藩・上国間の物産交易を作り上げて行ったことになっている。ただし安政2年(1855)の三条通東洞院梅忠町や翌年の烏丸御池上る町への転居が雲浜一人の力によって成されたかについては不明である。そこには小泉仁左衛門や山口薫次郎等の支援があったのかもしれない。ただし、早ければ安政3年(1856)の秋、遅くとも安政4年(1857)中には物産交易は確実に利益を上げるようになっていたと思われる。これを資金源として雲浜の交友関係は飛躍的に拡がると共に、安政5年(1858)の正月には中川宮への拝謁を果たしている。このようにして正義派とよばれる公卿への入説活動が激しくなる。まさに長州から水戸そして宮中と全国の有志達を結ぶネットワークが構築される。安政の大獄の直接的な罪状となることに関しては別の機会に記すとする。ここでは、一介の貧儒であった梅田雲浜がどのように資金を得たか通じて、いわゆる志士とその経済基盤について考えてみた。雲浜の例は珍しいものかもしれないが、豪商の支援や恐喝紛いの資金集めによってよってのみ討幕運動が可能となった訳でないことを明らかにしてみたかった。
なお、服部之総の「志士と経済」は一時代前の歴史観を反映したようにも感じるが、ある意味で情緒的な倒幕派あるいは佐幕派的な見方でないところに新しさを感じてしまう。もう少し詳しく知りたい方はリンクの青空文庫をご参照下さい。誰もが感じる疑問点-「志士はどうやって生活していたのか?」-を明らかにすることから始めることが、現在となっては重要なのかもしれない。
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