押見宿祢霊社遺跡碑
押見宿祢霊社遺跡碑(おしみのすくねれいしゃいせきひ) 2009年12月20日訪問
月読神社の鳥居の右手に押見宿祢霊社遺跡碑が建つ。碑にも記されているように、昭和42年(1967)10月に松室同族会によって建立されている。碑文には、顕宗天皇3年(487)に歌荒樔田に月読社が創祀され壱岐県主の祖である押見宿祢が祀官となったこと、宿祢の子孫は伊岐を姓とし代々祀官を継いだこと、9世紀に入り水害のため神社をこの地に移し松室氏を名のるようになったことが記されている。12世紀初めには大蔵大輔伊岐致遠の女が二条天皇の子を産んでいる。この子は二条天皇の中宮・藤原育子によって育てられ、7ヶ月と11日で親王宣下・立太子し、その日のうちに践祚されている。さらに在位2年8ヶ月で後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王(後の高倉天皇)に譲位し、歴代最年少の上皇となる。その後、元服を行う事もなく数え13歳で崩御されている。碑文では松室氏から藤原育子が出たようになっているが、閑院流の徳大寺左大臣実能、あるいは摂関流の法性寺関白忠通が育子の実父と考えられている。また育子は二条天皇の中宮であるが六条天皇の生母ではなかったとされている。 江戸時代に入り、松室氏の男子は非蔵人に女子は御局として宮中に仕えた者が多かったようだが、明治維新によって神職の世襲制が廃され四散したのであろう。この碑は松室氏が自らの出自を明らかにするために建立されたものである。
「日本書紀」巻第十応神天皇記には、応神天皇9年(278?)に武内宿禰が弟の甘美内宿禰の讒言により筑紫で天皇の兵に討たれそうになる話しが記されている。容姿が似た伊岐真根子が自らの死を以て身代わりとなったことにより、宿禰は天皇の前で自らの潔白を明かす機会を得ている。この伊岐真根子が伊岐氏の祖とされている。「松尾社家系図」によれば、天児屋根命から13代目が伊岐真根子でさらに6代後に押見宿禰の名が見える。 さらに「日本書紀」巻第十五顕宗天皇記によれば、顕宗天皇3年(487)任那へ遣わされる途上の、阿閇臣事代に月読命の神託があり、これを奏上したところ葛野郡歌荒樔田に神領を賜り壱岐の月読神が勧請され、押見宿禰も祀官として京に迎えられる。押見の子孫も祀官を世襲し長く神社に仕え、本貫地の壱岐(伊岐)を氏と、後に伊岐氏は壱岐国の県主となる。すなわち、早くから中国の亀卜の術を日本に伝えてきた伊岐氏が顕宗天皇の時代に中央に進出し、本貫地の祖神である月神を葛野に祀ったのが月読神社の始まりだったとも考えられえる。隠岐氏は神祇官として卜占の事に関与したため、卜部氏を名乗っていた。 「続日本紀」巻第二文武天皇記の大宝元年(701)四月丙午の条に下記のような記述がある。
勅。山背国葛野郡月読神。樺井神。木島神。
波都賀志神等神稲。自今以後。給ヘ二中臣氏ニ一。
中臣氏は忌部氏とともに神事・祭祀をつかさどった中央豪族で、古くから現在の京都市山科区中臣町付近の山階を拠点としていた。伊岐氏と同じく天児屋命を祖とし、代々神祇官・伊勢神官など神事・祭祀職を世襲している。天児屋根命から12代目にあたる雷大臣に大小橋、真根子、弟子そして日本大臣等の子がいたとされている。上記のとおり真根子の子孫から押見宿禰が現れ伊岐氏となり、中臣氏も大小橋から数えて9代目に中臣鎌足を輩出している。大化の改新が孝徳天皇2年(646)であったから、月読神社が中臣氏に移されたのは、約50年後の藤原氏の祖となる不比等の頃でもある。
なお松尾大社も同じ大宝元年(701)勅命により秦忌寸都理が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させている。松尾大社の公式HP内にある摂社月読神社では、秦氏との関係を以下のように記している。
葛野郡一帯は早くから、帰化族の秦氏の勢力圏であったから、当然当神社も松室氏も秦氏の厚い庇護を受け親密な関係にあった。
このことは、当社の世襲祠官であった松室氏が、秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕していたことでも明らかである。
「秦氏本系帳」では、養老2年(718)秦忌寸都駕布が初めて祝となって以来、秦氏が歴代神主となって奉仕したとされている。松尾神社の社家は、神主の東家、正禰宜・正祝の南家が秦姓であるが、実権は松室家が執り松尾祠官をも兼ねていたようだ。
「文徳天皇実録」の斉衡3年(856)3月戊午(15日)の条には歌荒樔田から現在の地に移された経緯が記されている。
戊午 移二山城国葛野郡月読神社一
置二松尾之南山一社近二河濱一為レ水所齧故移レ之
月読神社の神位が上がるのは、この遷宮の後の貞観元年(859)のことである。「日本三代実録」貞観元年(859)正月27日の条で、平野今木神と並んで正二位に叙せられている。
山城国正二位勲二等松尾神従一位。
葛野月読神。平野今木神並正二位。
そして延喜式で名神大社に列し、延喜6年(906)には正一位勲一等に叙せられている。文徳・清和両天皇の時代に朝廷の奉幣が行われ、慶福の神として以後敬信された。
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