月読神社
月読神社(つきよみじんじゃ) 2009年12月20日訪問
阪急電鉄松尾駅を下車し、松尾の町並みを眺めながら、松尾大社の二の鳥居まで進む。前回の2009年12月20日の訪問で時間をかけて松風苑まで拝観したので、今回は鳥居の外からの御参りを済まし、先を急ぐこととする。二の鳥居前を左に曲り、府道29号宇多野嵐山山田線すなわち物集女街道の西側の松尾山に沿った細い道を南に進む。山の端に建てられた住宅の中を通る道の東側には堀がある。これは桂一帯の灌漑のために作られた桂川用水の一部だと思われる。室町時代後期の明応4年(1495)頃の作成と推定される桂川用水差図案によれば上は法輪橋(現在の渡月橋)から下は吉祥院に至る凡そ10kmの桂川の両岸に11箇所の取水口が設けられていたことが分かる。この東寺百合文書に含まれている桂川用水差図案は、もともと山城国西岡五ケ庄と対岸に位置する西八条西庄との分水をめぐる相論の過程で証拠書類として作成されたものである。桂川用水の幹線は現在の西京区松室中溝町付近から南に流れる十一ヶ郷号今井溝であったので、現在歩いている辺りの水路は法輪橋の少し下流から取り入れられた一井つまり葛野大堰の一ノ井堰あたりから取り入れ松尾大社を経由した用水ではないかと思われる。
この道を南に向かって400mほど歩くと、右手側の山際の住宅の並びが途絶え月読神社が現れる。月読神社は松尾大社の境内摂社であるが、延喜式神名帳には葛野郡20座の最初に葛野坐月読神社として記されている。祭神は「旧事本紀」によると壱岐県主祖天月読命。「日本書紀」巻第十五顕宗天皇記によると、
三年春二月丁巳朔、阿閇臣事代、命を衝けて、出でて任那に使す。是に月神人に著りて謂りて曰く、我が祖高皇産霊 天地を鎔造せるに預りたまふ功有り。
宜しく民地を以て奉れ。我は月神なり。
若し請の依に献らば、我れ当に福慶あらむ。
事代是に由りて京に還りて具に奏す。
奉るに歌荒樔田を以てす。壱岐縣主押見宿彌祠に侍る。
とある。これより分かるように、月読神社は荒樔田に鎮座神封されている。この3年とは顕宗天皇3年で、西暦に換算すると487年になる。志賀剛は「式内社の研究 第二巻」(雄山閣 1977年刊)で、月読神社が葛野郡の筆頭となったのには、上記のようにその由緒が古いこととともに神威が高く氏子範囲も広かったためと推測している。
「式内社調査報告 第1巻 京・畿内1」(皇學館大學出版部 1979年刊)によると、荒樔田の所在については諸説ある。「葛野坐月読大神宮伝記」では下記のように上野村説と桂里説を記している。
按歌荒樔田在大堰河之西南。即松尾之東南是也。今上野村之西有月読塚。是旧跡也。
上野村古名神野村。即月読神社神田代也。神役家今猶存。
さらに山城風土記を引いて桂里についても触れている。「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))の桂の項に下記のようにある。
或云山城国風土記云月読尊受二天照大神勅一
降二于豊葦原中国一
到二于保食神許一 時二有湯津桂樹一
月讀尊乃倚二其樹一
立之其樹所レ有今號二桂里一
同様のことが都名図絵の桂里の項にも記され、月読神社と桂里の位置関係を描いた図絵も残されている。 この上野村と桂里以外にも、「日本古典文学体系 日本書紀」の注解に挙げられている葛野郡宇太村や、志賀が「式内社の研究」で述べている有栖川流域説も「式内社調査報告」では掲載している。有栖川は、右京区嵯峨観空寺谷と広沢池からの流れが合流し、嵯峨野を南流、桂川に注ぐ全長7kmの河川で、斎川、有巣河とも呼ばれる。有栖とは荒樔、荒瀬の意味で禊の行われる川を意味している。この有栖川の畔に野宮が建てられ、伊勢神宮の斎宮により禊、祓いなどが行われていたと考えられている。志賀は車折神社の東5町、凡そ540mにある斎宮神社の槻の夫婦神木(現存せず)に注目し、この地が式内社の旧地であり、松尾に遷座した後に斎宮神社が建てられたと考えている。
上記のように多くの説があり、月読神社の旧地がどこであったかは分からないものの、現在の地に遷座されたのはある程度特定できている。「文徳実録」の斉衝3年(856)3月15日の条に、下記のようにある。
戊午 移二山城国葛野郡月読神社一置二松尾之南山一
社近二河濱一為レ水所齧故移レ之
齧とは“かじる”という意味で、桂川の水害により現在の松尾神社の南に移したことが分かる。また「日本三代実録」貞観元年(859)正月27日の条で、平野今木神と並んで正二位に叙せられている。そして延喜式で名神大社に列し、延喜6年(906)には正一位勲一等に叙せられている。文徳・清和両天皇の時代に朝廷の奉幣が行われ、慶福の神として以後敬信された。
時代が下り室町時代後期の月読神社は、山城の各所に禰宜田と称する田畑を持っている。そして山林及び松室里の屋地を若干所有し、松尾前河原田方五町余を神領として保有していたことが記録の上から明らかになっている。しかし社領を巡っての紛争もあり、その都度幕府に訴えを出し社領の安堵がなされてきた。織田信長の入京以降も大きな変革も無く社領は安堵されてきたが、江戸時代に入り松尾本社に従属するようになった。元和8年(1622)の板倉重宗黒印状案によると、松尾神社神供料千余石の内、100石1斗が月読禰宜、そして16石が月読祝に配分されているなど、実質的には松尾神社の摂社に編入されたことが分かる。明治10年(1877)3月21日に松尾大社の境外摂社と定められている。
月読神社は松尾山の東斜面、松室山添町に建てられているため、低い石垣の上にある鳥居は東面している。ここから石段が始まり、その先には神門と透塀がある。神門を潜り境内に入ると、拝殿と本殿が神門の軸線上に配置されている。本殿の右手には神功皇后所縁とされる月延石があり、石を撫で祈願すると子が授かるとされている。
境内には月読尊を崇敬した聖徳太子を祀る聖徳太子社と天鳥船神を祀る御船社がある。松尾大社の神幸祭の前には、この社において渡御安全祈願祭が行われる。
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