池大雅美術館
池大雅美術館(いけのたいがびじゅつかん) 2009年12月20日訪問
最福寺跡から、山端の細い道を進むと妙徳山華厳寺、いわゆる鈴虫寺への入口が現れる。ここは後回しとして、先ずは西芳寺に向かう。右手に「老人園芸ひろば」という看板がある。更に進むと西芳寺川に架かる橋に出会う。この橋は華厳寺の参道に架かるため華厳寺橋と名付けられている。さらに道を南に進むと左に比較的まとまった面積の駐車場が現れる。鈴虫寺への方向が示された看板があるので、鈴虫寺目当てに訪れた観光客用駐車場であろう。最福寺から華厳寺までの閑静な道筋を考えると、これほど大きな駐車場は必要ないようにも思えるが、それだけこの地を訪れる観光客が増加したためであろう。もともと西芳寺が事前予約制に移行したのも、大型観光バスで大量の観光客がこの地に送り込まれたことによっている。西芳寺が現在のような拝観形式に移行したのは昭和52年(1977)であった。第二次オイルショックの直前、ディスカバー・ジャパンということで、日本人の個人旅行が始まった時代にも一致する。その当時の状況は知らないが、現在の鈴虫寺を訪れる観光客を見ていると同じ過ちが繰り返されなければ良いがと要らぬ心配をしてしまう。
池大雅美術館はこの駐車場のある角を西に曲った先にある。コンクリート造の2階建、白く塗装された外観は、都心から離れた地にある公民館のようにも見える。もし池大雅美術館という館名表示がなかったら通り過ぎるような、とても美術館とは思えないほど質素な佇まいである。
池大雅は、江戸時代の文人画家であり書家で、与謝蕪村とともに日本の南画の大成者とされている。日常生活では池野秋平と名乗っていたが、画業では中国風に池と名乗ったため池大雅の名で定着した。また雅号も数多く、大雅堂、待賈堂、三岳道者、霞樵などが知られている。妻の玉瀾も女流画家として知られている。弟子に木村兼葭堂などがいる。
江戸時代中期の享保8年(1723)京都銀座役人の下役の子として生まれている。早くに父を亡くし経済的に苦しい中、6歳で素読を始め、7歳から本格的に唐様の書を学び始める。日本の文人画の先駆者の一人である柳沢淇園に才能を見出され、淇園より中国文人画を伝えられる。中国の故事や名所を題材とした大画面の屏風から、日本の風景を軽妙洒脱な筆致で描いた作品など、作風は非常に変化に富み、中国渡来の画譜類のみならず、室町絵画や琳派、更には西洋画の表現を取り入れ、独自の画風を確立する。
池大雅の作品で国宝に指定されているものは、東京国立博物館に所蔵されている六曲屏風の紙本金地著色楼閣山水図、高野山遍照光院に所蔵されている襖貼付の紙本著色山水人物図、そして紙本淡彩十便図の3点である。大雅の十便図は蕪村の手掛けた十宣図と一対となり、十便十宜図として二十葉の画帳を構成している。十便十宜図は清の劇作家李漁が、別荘伊園での生活をうたった詩を基にして描いたもの。山麓にむすんだ草庵での暮らしの上で、十の便利のことと十の宜いことが示されている。池大雅の描いた十便とは、耕便、汲便、浣濯便、潅園便、釣便、吟便、課農便、樵便、防夜便、眺便で、その中でも釣便の絵が有名である。これには、「蓑も着ず笠もかぶらず小舟にも乗らず。一日中東の窓辺に座って釣りを学ぶ。客が立ち寄るといつも酒を用意する。しずかに香りのよい餌を放ると軽やかなはやが顔を出す。」という意の漢詩が付されている。また十便十宜図は川端康成が所蔵していた作品としても有名である。現在の所有者も財団法人川端康成記念館である。
拾遺都名所図会の歌仙堂に下記のようにある。
歌仙堂 又の名は大雅堂といふ、双林寺境内門前の北にあり。
別室に観世音を安置す、金銅仏、長は五寸五分許なり
また大雅堂の姿を残す絵図も残されている。この絵図に描かれている雙林寺と芭蕉庵の位置か見ると現在の東山区鷲尾町にある円山音楽堂が旧跡であることが分かる。現在この地に、「和光同塵」と刻まれた碑とともに大雅堂旧跡の碑が残されていることから、かつてこの地に大雅堂が存在したことが分かる。
また、大雅、蕪村の研究者で京都国立博物館館長の佐々木丞平氏が寄稿した小文「京を歩けば 祇園下河原〜雙林寺 ―大雅堂旧跡(http://www.sanyo-chemical.co.jp/pr/pdf/kyo299.pdf : リンク先が無くなりました )」(三洋化成ニュース(http://www.sanyo-chemical.co.jp/pr/kyoto/index.html : リンク先が無くなりました ) 2011年春号)によると、大雅堂は池大雅の死後8年を経た天明4年(1784)に、大雅社中の人々が集まって大雅堂建設に着手している。丁度この年の8月に妻の玉瀾も他界し、大雅の功績を後世に残す目的で堂宇の建設が行われている。絵図にも残るように小規模な2階建ての建物があった。相見繁一の「美術叢書第四編 池大雅」(美術叢書刊行会 1916年刊)によると、元々大雅は自分の死後も玉瀾の生活が困らないようにと依頼の揮毫の合間に書画を書き残していた。玉瀾もこれらの書画によって不自由ない生活を送り、その没後にもかなりの点数が残っていたようだ。大雅の門人たちは大雅堂建設の資金として、これらの書画を売却して得ている。かつて木下長嘯子が霊山に営んだ歌仙堂の名残の柱礎と言い伝えのある地を貰い受け、これを基として増築を加えている。階上に六畳、そして階下にも六畳がかつての歌仙堂であり、それに続いて平屋で八畳、六畳そして二畳二間の合計四間が増築であったようだ。その地はは双林寺の境内に当たり、門前の北と呼ばれていた。 堂宇の建立により、大雅遺愛の書画什器はこの堂で保存されていた。五寸五分ばかりの観音銅仏は大雅の念持仏として、毎年7月17日の早天に清水寺に運び、音羽の瀧で清められたとされている。
大雅堂が完成すると弟子の餘凪夜(青木凪夜)が留守居という形で住み込んでいる。大雅堂としては池大雅を初代とし、餘凪夜を二世とするが、大雅堂守としては餘凪夜が初代となる。凪夜没後は、やはり弟子の月峰辰亮(1760~1839)が大雅堂三世を称している。月峰は双林寺長喜庵主謙阿明亮の法嗣で、明亮の勧めにより境内に住み画を描いた池大雅に就いて画を学び且つ篆刻を巧みにした時宗の画僧で、天保10年(1839)に没している。後は月峰の子の清亮(太虚 1807~1869)、孫の定亮(1840~1910)が継いでいる。
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