アーカイブ:2014年 5月
落柿舎 その3
落柿舎(らくししゃ)その3 2009年12月20日訪問 落柿舎 落柿舎 その2では、去来の落柿舎購入から芭蕉の三度の訪問について書いてきた。ここではその後の落柿舎について触れてみる。 向井去来は名を兼時、号を元淵と云う。去来は別号である。父の元升は肥前国長崎の儒者で、慶安4年(1651)次男として生まれ、万治元年(1658)8歳の時に京に移り住んでいる。飛鳥井家に仕え、儒学、暦学、射術を学ぶ。後年松尾芭蕉の門に入り俳諧を学ぶ。関西の俳諧奉行と称され、落柿舎に以下のような制札を掲げている。 一 我家の俳諧に遊ぶべし、世の理屈を言ふべからず一 雑魚寝には心得あるべし、大鼾をかくべからず一 … ►続きを読む
落柿舎 その2
落柿舎(らくししゃ)その2 2009年12月20日訪問 落柿舎 有智子内親王墓の東隣に落柿舎がある。昨年訪れた時は素屋根が架けられ、敷地内に入ることも出来なかった。今年は工事も完了し拝観できる状況になっている。 落柿舎は、松尾芭蕉の弟子である向井去来の別荘として使用されていた草庵で、その名の謂れについては去来が著した「落柿舎ノ記」に記されている。この「落柿舎ノ記」は日本古典文学体系92巻に掲載されているが、天明7年(1787)に刊行された拾遺都名所図会にも以下のように掲載されている。 嵯峨にひとつのふる家侍る。そのほとりに柿の木四十本あり。五とせ六とせ経ぬれど、このみも持来らず代かゆる… ►続きを読む
有智子内親王墓 その2
有智子内親王墓(うちこないしんのうのはか)その2 2009年12月20日訪問 有智子内親王墓 常寂光寺の山門を出て東へ道を進むと、100メートル足らずで視界が開ける。角には三宅安兵衛遺志の小倉山・常寂光寺・歌仙祠の碑が建つ。この石碑は愛宕街道に建ち、常寂光寺への曲がり角を示すためのものである。北東側には「北 二尊院 祇王寺 愛宕道」、南西には「南 亀山公園 嵐山」とある。現在、嵯峨野を訪れる人には無料の観光地図が配布されるのでその必要性は薄れているが、碑が建立された昭和4年(1929)には十分役割を果たしていたと思われる。 この角から見る風景が一番嵯峨野の魅力を感じさせる。目の前に広が… ►続きを読む
常寂光寺 その3
日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ)その3 2009年12月20日訪問 常寂光寺 歌遷祠 常寂光寺の仁王門の北側に小倉百人一首編纂の地という小さな石碑が建っている。南面には上記の文字が見え、西面には藤原定家卿山荘址とある。常寂光寺 その2で触れたように、常寂光寺開山時に創建以前よりあった小祠・歌僊祠を山上に移している。これは寺の庫裏を定家卿の祠より上の場所に建設することは恐れ多いという理由からとされている。この石碑が誰によって何時建てられたかについては、フィールド・ミュージアム京都を参照しても分からないが、境内に設置されていることから常寂光寺が建てたと考えるのが自然であろう。… ►続きを読む
常寂光寺 その2
日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ)その2 2009年12月20日訪問 常寂光寺 多宝塔と比叡山 常寂光寺に引き続き、公式HPの寺歴に従うと、慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋の助力を得て桃山城客殿を移築し本堂としたとある。これは第二世通明院日韶上人の代のことであり、この桃山城とは伏見城のことである。江戸期の文献や資料に図示された本堂の屋根は、本瓦葺きの二層屋根となっている。安永9年(1780)に刊行された都名所図会の常寂光寺の図絵から、江戸時代中期の本堂の屋根形状が分かる。なお現在の平瓦葺きの屋根は、昭和7年(1932)の大修理の時に改修されている。建立の年代は慶長… ►続きを読む
常寂光寺
日蓮宗 小倉山 常寂光寺(じょうじゃくこうじ) 2009年12月20日訪問 常寂光寺 山門 小倉池の北端から80メートル位北に歩くと常寂光寺の山門が現れる。 常寂光寺は日蓮宗の寺院で、山号は小倉山。元々、この地には天龍寺の弘源寺があった。弘源寺は永享元年(1429)室町幕府の管領であった細川右京太夫持之が、天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎え創建した寺院である。小倉山の麓に位置し、北は二尊院、南は亀山にいたる広大な寺領を有していた。しかし弘源寺に関する記述は実に少ない。地誌においては「山城名勝志」(新修 京都叢書 第7巻 山城名勝志 乾(光彩社 1968年刊))… ►続きを読む
御髪神社
御髪神社(みかみじんじゃ) 2009年12月20日訪問 御髪神社 大河内山荘から北に向かって進む。JR西日本山陰本線のトンネル上を越え、トロッコ嵐山駅に出るところで道が分岐する。左手に小倉池が広がる。既に3時近くになり日が傾き、池面に山の影が落ち始めていた。人出はあるもののなんとなく薄寒い感じのする場所である。御髪神社はこの小倉池の西岸にある。トロッコ嵐山駅から落柿舎や常寂光寺、二尊院に向かう観光客は池の東岸を進むため、比較的人通りの多い場所の近くにあるにも係わらず訪れる人があまり多くないのかもしれない。そのため参道の入口には「奉納 御髪神社」の幟が何旒も立てられ、御髪神社の謂れを記し… ►続きを読む
大河内山荘
大河内山荘(おおこうちさんそう) 2009年12月20日訪問 大河内山荘 大乗閣と京の眺め 既に嵯峨野の町並み その5でも記述したように嵯峨野の竹林の中で西と北に分岐する箇所には、檀林寺旧跡・前中書王遺跡の三宅安兵衛遺志の石碑が建てられている。ここより北側に入ると野宮神社の黒木鳥居がある。再び分岐点まで戻り、西へと続く道を進む。左手に現れる天龍寺の北門を過ぎてさらに進む。このあたりが嵯峨野の竹林の中で最も美しい場所ではないかと思う。やがてこの道は突き当たり南北に分かれる。南は嵐山公園亀山地区につながり、北はJR西日本山陰本線のトロッコ嵐山駅を越えると小倉池と御髪神社へと続く。大河内山荘… ►続きを読む
京都・山城 寺院神社大事典
京都・山城 寺院神社大事典(きょうと・やましろ じいいんじんじゃだいじてん) 京都・山城 寺院神社大事典 ゴールデンウィークの課題として、日頃お世話になっている「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)について書いてみる。今では京都の寺院や神社の謂れを調べる上で欠かすことの出来な存在となっている。既に刊行して15年近い年数を経っているものの、取り扱っている内容からして記述が古くなる心配も余りない。恐らく新たな歴史上の発見が成されるまでは、その記述を改める必要はないだろう。 凡例でも触れているように、この事典の基は、「日本歴史地名大系」の26巻「京都府の地名」と同27巻「京… ►続きを読む