アーカイブ:2015年 3月
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その3 2010年1月17日訪問
京都御苑 猿ヶ辻
京都御苑 猿ヶ辻とその2に続き、襲撃犯が田中雄平に決する過程と薩摩藩に下された処罰、そして八月十八日の政変へと続く薩摩藩による復権活動について見て行く。 長州及び土佐の武市派は、この猿ヶ辻の変を上手く利用し京都における薩摩の勢いを削ぐ事に成功した。その本当の襲撃犯が田中雄平であっても又はなくても、朝廷における薩摩の信頼を大いに損なわせることに成功したからである。その後の経緯については「七年史」が詳しい。5月27日に伝奏・坊城俊政は、会津藩主・松平容保、米沢藩主・上杉斎憲、広島藩の浅野茂勲… ►続きを読む
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その2 2010年1月17日訪問
京都御苑 猿ヶ辻
京都御苑 猿ヶ辻に続き、文久3年(1863)5月20日にこの付近で起きた暗殺事件の顛末を見てゆく。 姉小路公知襲撃の翌日の「中山忠能日記」(「日本史籍叢書 中山忠能日記4」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻)))には下記のように、九門警備が強化されたことが記されている。
清和門院 土州 堺町門 長州蛤門 水戸 寺町門 肥後乾門 薩州 下立売門 仙台今出川門 備前 中立売門 因州石薬師門 阿州昨夜朔平門辺姉小路少将様へ刃傷之義有之不容易候間右九門口今晩ヨリ… ►続きを読む
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ) 2010年1月17日訪問
京都御苑 猿ヶ辻
京都御所の建春門前にある学習院跡から苑路に沿って北に進むと、京都迎賓館の入口脇に橋本邸跡の木標が建つ。慶応4年(1868)に刊行された「改正京町御絵図細見大成」(「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))を見ると御所東側の公家町に南北通が3本存在したことが分かる。つまり御所の外周と現在の寺町通との間には西側から中筋、二階通、梨木通があった。さらに中筋と御所との間には北側から、野々宮と清閑寺、姉小路、持明院、日野西、橋本、七条、修学所、白川、正親町の邸宅が並ぶ。京都御所 その5で少し触… ►続きを読む
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