京都御苑 猿ヶ辻
京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ) 2010年1月17日訪問
京都御所の建春門前にある学習院跡から苑路に沿って北に進むと、京都迎賓館の入口脇に橋本邸跡の木標が建つ。慶応4年(1868)に刊行された「改正京町御絵図細見大成」(「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))を見ると御所東側の公家町に南北通が3本存在したことが分かる。つまり御所の外周と現在の寺町通との間には西側から中筋、二階通、梨木通があった。さらに中筋と御所との間には北側から、野々宮と清閑寺、姉小路、持明院、日野西、橋本、七条、修学所、白川、正親町の邸宅が並ぶ。京都御所 その5で少し触れたように、寛政度造営の際に設けられた東北隅の大きな切り欠けを慶応元年(1865)11月に無くしている。従って「改正京町御絵図細見大成」は御所拡張後の姿である。これに対して、文久3年(1863)秋に改正された「内裏圖」には東北隅の切り欠けがまだ残されている。この2つの地図を比較すると、中院と有栖川宮邸が拡張に伴い姿を消していることが分かる。なお、有栖川宮邸は御所の南の御花畠へ移転している。藤岡通夫の「京都御所 新訂」(中央公論美術出版 1987年刊)によると、寛政度敷地図の上で東北隅の切り欠けは南北64間、東西44間半にわたる大きなものであった。1間=6尺5寸を1.9697mとすると現在の東北隅は88m位西側にあったこととなる。御所の南端で東西方向の幅が125間5尺であるから、東西幅の3分の1強となる。
猿ヶ辻の木標と駒札は先ほどの学習院跡や橋本邸跡の直線上に位置する。現在の御所の4周を囲む苑路の幅が大きいため、実際の築地塀の北東隅と木標や駒札があまりにも離れ、どこを説明するものなのか分かり難い感じがする。上記の「京都御所 新訂」によれば、有栖川宮邸と御所北側の准后殿との道の幅員は6間半であった。当時も朔平門は今出川御門の正面にあり、桂宮邸の南にあった一乗院宮里坊側が広場状になっていた。猿ヶ辻を南側に曲がると道は急に6間半と狭くなる。さらに有栖川宮邸の西面を過ぎると、道幅は12間半になり、姉小路邸前では29間半と現在の苑路と変わらなくなる。
駒札の説明にあるように、築地塀の東側を向いた蟇股に烏帽子を被り御幣を担いだ猿の彫刻が施されている。この猿は御所の鬼門を守る日吉山王社の使者であるが、夜な夜な付近をうろつくため金網を張って封じ込めているとされている。この金網は中の彫刻を守るためではなく、外に遊びに出ないようにするためのものであった。日吉山王社は滋賀県大津市坂本にある日吉大社で、その位置が平安京の北東に当り、神徳も方除けとされていることから、京の方除け大社とされている。京都御所の北東にあたる幸神社には、「皇城鬼門除 出雲路幸神社」の社号が見られ、猿の絵馬が奉納されている。さらに東北方向の延長線上には、同じく金網に覆われた猿の像を屋根の上に載せた赤山禅院もある。
金網越しなのでなかなかその形が見分け難いが、白い御幣を肩に担いでいることは、写真から見て取れると思う。なお北側を向いた蟇股には何も施されていない。
御所の四隅の内で猿ヶ辻だけが有名になったのには、姉小路公知の暗殺がこの地で行われたことも関係している。文久3年(1863)5月20日の夜、朝議が終わり公家門(宜秋門)より退朝した国事参政・姉小路公知は、御所の西北角を曲がり、朔平門前を過ぎ猿ヶ辻にかかる所で3人の刺客に襲われている。従者の中条右京(吉村基好)は留まり刺客と切り結ぶが、太刀持ちの金輪勇が姉小路の太刀を持ったまま逃走したため、姉小路は扇子のみで応戦せねばならなかった。それでも刺客の刀柄を握り、刀を奪わんとした所に中条が駆けつけたため、刺客は刀の回収を断念し逃げていった。従者の中条は姉小路の左手を肩にして姉小路邸に戻った。関博直の「姉小路公知伝」(博文館 1905年刊)では、帰宅した姉小路が家臣を呼び、遭難の届書及び知友に託すべき後事の大略を伝えた情景を記している。一語の私事に及ぶことがなく、国家の休戚、朝威の回復に関することのみであったとしている。そして文久三年癸亥五月二十一日丑の刻前少時に薨去している。享年25。 この朔平門外の変については同時代の史料として「官武通紀」の記述が詳しい。「官武通紀」は仙台藩士・玉虫左太夫が編纂したもので、続日本史籍協会叢書に所収(「続日本史籍叢書 官武通紀」(東京大学出版会 1913年発行 1976年覆刻))されている。文久癸亥官武通紀巻三に「姉小路卿逢殺害候始末」という条を作り、風説書や落文など元に事件の経過を記している。これには事前から狙われていたことを姉小路が察知していたことや、事件後に三条実美に脅迫状が届いていること、九門の警備が厳しくなったこと、当日治療した医師の氏名から姉小路の負傷箇所を記したものの写し、現場で取得した刺客の刀の特徴から、田中雄平(田中新兵衛)が自刃したこと、さらに薩摩藩が乾御門守衛から外され、九門内の通行禁止を受けたことまでを記している。玉虫は事件に関連する情報を収集・分析し、その経緯を全て理解した上で書いたように見える。
「官武通紀」に記された姉小路の疵所調書写は以下の通りである。
姉小路少将殿、去廿日之夜亥刻、御退去がけ不慮之儀有之、早速帰宅之後、医者大町周防守、杉山出雲守、安藤静軒、近藤一綱、吉田中亭、海野貞治等診察之処、三ヶ処之手疵、面部鼻下一ヶ所、長さ二寸五分許、頭蓋骨些欠損し、斜に深さ四寸、胸部左鎖骨部一ヶ所、長さ六寸許、深さ三寸許、脈微細に付、衆医示談之上、甘硝、石精、磠砂、揮発精等相用ひ、連日半身浴、縫合術相行、針数二十八、尚又周防守家法養栄湯等相用候得共、何分深手急所之儀、養生不相叶候事、
上記の「姉小路公知伝」では、その日の朝議が終了し退朝したのが20日の亥の刻で、姉小路が逝去したのは21日の丑の刻前少時としている。北原雅長の「七年史」(「続日本史籍協会叢書 七年史」(東京大学出版会 1904年発行 1978年覆刻))には、姉小路家は公知が生存している形をとって、少将名で伝奏に遭難の状況を下記のように報じている。
姉小路少将届書写
昨夜亥刻頃退出掛朔平門東之辺ニテ武士体之者三人計白刃ヲ以不慮ニ及狼藉手傷為相帯逃去候ニ付直ニ帰宅療養仕候但切付候刀奪取置候仍此段御届申入候夫々急々御通達厳重御吟味之儀願入存候也
五月廿一日 公知
坊城大納言殿
野宮宰相中将殿
そのため石田孝喜氏の「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)では5月21日丑の刻を「今の22日午前二時頃」と記しているが、これは誤りだと思われる。
翌5月21日には学習院の門に下記のような書が貼られていた。
転法輪三条中納言
右之者姉小路ト同腹ニテ公武御一和ヲ名トシテ実ハ天下ノ争乱ヲ好候者ニ付急速辞職隠居不致ニ於テハ不出旬日代天誅可殺戮者也
「学習院雑掌記」によれば、本紙を国事参政衆に差出し学習院学頭の三条実美には写しを渡したことになっている。「三条実美公年譜 巻4」の5月20日の条によれば、その夜に実美も襲撃を受けかけていたことが記されている。輿の前後に徘徊する者を認め、急歩して邸に戻ったとある。恐らく同時に狙ったものの果たせなかった三条に対して、脅迫状を翌日出したということが真相であろう。
「孝明天皇紀 第四」(平安神宮 1968年刊)の文久3年(1863)5月20日の条には、この事件の経緯を示すために、先の「官武通紀」から「通煕卿記」(久世通煕)、「実麗卿記」(橋本実麗)、「言成卿記」(山科言成)等の日記などを取り上げている。姉小路が襲われた場所は「言成卿記」の「朔平門東角水樋之辺」を信用するならば、御所御用水の辺りかと思われる。松下倫子氏等の「水みちの通水システムからみる園池形態-禁裏御用水を対象として-」(景観・デザイン研究講演集No.3 2007年)を見ると、江戸時代後期の御所御用水の経路は、北の相国寺から今出川御門で公家町に入り、朔平門前で東に折れ有栖川宮邸の前を通り、御所の東側の公家町を南に下り、仙洞御所、女院御所の北側をさらに東に進んでいる。この側溝に襲撃犯が潜んでいたということは、司馬遼太郎の「猿ケ辻の血闘」で読んだ様に記憶している。
「京都御苑 猿ヶ辻」 の地図
京都御苑 猿ヶ辻 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
▼ 京都御苑 猿ヶ辻 | 35.0272 | 135.7636 | |
安政度 御所 | 35.0246 | 135.7627 | |
寛政度 公家屋敷 | 35.0247 | 135.7644 | |
寛政度 有栖川宮邸 | 35.0269 | 135.7637 | |
01 | ▼ 京都御所 宣秋門 | 35.0246 | 135.761 |
02 | ▼ 京都御所 朔平門 | 35.0272 | 135.7624 |
03 | 京都御苑 姉小路邸跡 | 35.0258 | 135.7643 |
04 | ▼ 京都御苑 学習院跡 | 35.024 | 135.7643 |
05 | 三条家邸宅 | 35.0245 | 135.7661 |
06 | 寛政度有栖川宮邸 | 35.0268 | 135.7637 |
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