梨木神社 その5
梨木神社(なしのきじんじゃ)その5 2010年1月17日訪問
梨木神社 その4では、天璋院篤姫入輿後の経過と政情の変化について記した。安政4年(1857)の年末、遂に島津斉彬の命を受けた西郷吉之助が橋本左内を訪ねている。この項では橋本左内の江戸における運動の展開について記す。
安政4年(1857)8月20日、松平春嶽は橋本左内を江戸に召し即日侍読兼内用掛に命じている。斉彬の書簡から半年が経ち、いよいよ継嗣問題に猶予ならないものを感じたのかもしれない。この年の6月17日に老中阿部正弘が死去している。同月25日付の中根雪江が橋本左内に宛てた書簡(「続日本史籍協会叢書 橋本景岳全集 一」(東京大学出版会 1939年発行 1977年覆刻) 一二三安政4年6月25日 中根雪江より先生へ)には参府後の春嶽の状況を説明した上で、書生を引率しての出府について記されている。
上にも御相談御相手御ほしくと合期之次第に付、今便降命に相成候事に候。
左内への出府命令は、春嶽が継嗣問題に本格的に乗り込んでゆく狼煙でもあった。春嶽は左内を使い、同年9月頃から幕閣と大奥への慶喜推挙の積極的な工作に取り掛かった。最も重要なことは老中阿部正弘亡き後に老中首座となった堀田正睦を一橋派に組み入れることであった。春嶽の再三の入説にもかかわらず、堀田は継嗣問題について意図を明らかにしなかった。これは老中首座として軽々しく徳川家の問題に対して発言できないことと共に、開鎖問題が急務であり継嗣問題に意を注ぐことができなかったというのも真実であっただろう。そのため井野辺茂雄は「幕末史概説」(中文館書店 1930年刊)で「正睦が溜詰の勢力を代表して入閣せることは上文に述ぶるが如く、而して溜詰の輩は概ね水戸藩に不快の念を抱いて居る。○昨夢紀事、水戸藩史料、井伊家秘書集録 正睦が慶喜の擁立に賛同せざる可きは当然の情勢であった。正弘の逝去によりて、一橋派の運動に容易ならざるを故障を生じたのは、已む得ざる次第であらう。」と堀田が老中松平忠固とともに反一橋派であったと見ている。これに対して幕臣であった福地源一郎は「幕府衰亡論」(「続日本史籍協会叢書 幕府衰亡論」(東京大学出版会 1950年発行 1978年覆刻))で「此卿は前将軍(慎徳院殿家慶公)にも夙に其望を屬し玉へる方なりしが上に水戸前中納言殿の子息にて出で丶一橋家を継ぎ賢明の評判世に高かりければ堀田閣老を初として永井玄蕃頭岩瀬肥後守川路左衛門尉等の如き幕府の要職に在りて機密に参典し才智の聞ありし輩は皆挙て此説に同意を表し」と堀田を一番に挙げている。恐らく堀田が明確な意図を表明しなかったことから、後世に異なった見方が存在するようになったのであろ。一橋派にとっては阿部正弘に代わる強力な味方が得られたと思い込んでいたのは確かであろう。しかし実際には井伊直弼が大老に就任すると堀田は自らが再登用した松平忠固と共に罷免されているので、仮に一橋派であったとしても働く機会を逸している。
水戸藩でも家老の安島帯刀が一橋家の小姓平岡円四郎と提携し、各方面に入説していた。8月には安島自身が福井藩邸を訪れ、春嶽に斡旋を求めている。出府して間もない左内も8月25日に薩摩藩邸、翌26日に一橋邸に赴き平岡円四郎と初めて対面している。一方春嶽も堀田正睦、久世広周、松平中固等の老中を歴訪し継嗣問題に対して自らの所信を述べた上で、10月16日に阿波徳島藩主・蜂須賀斉裕とともに建白書を提出している。この建白書の内容は「昨夢紀事」に、その別紙と共に所収されている。
阿部正弘亡き後を託された堀田正睦は、安政4年(1857)9月13日に同じく開国派の上田藩主・松平忠固を老中に迎えている。当時は松平忠優と名乗っていた忠固は、既に嘉永元年(1848)に老中に抜擢されている。嘉永6年(1853)ペリー来航の際、諸大名から意見を求めることにも反対した人物である。積極的に開国し富国強兵を目指す忠固と海防参与に任じられた攘夷論を唱える水戸斉昭では全く意見が合わなかった。それが軋轢となり、先に斉昭が海防参与辞職願の提出することとなった。この事態を憂慮した阿部正弘は、松平忠固と共に歩調一にしていた三河西尾藩主・松平乗全を安政2年(1855)8月4日付で罷免している。このことで事態の収拾を図ろうとしたが、状況は好転しなかったため、正弘は開国派の堀田正睦を登用することで再度バランスをとることとなった。
橋本左内は、かつて斉昭と衝突した忠固を一橋派に取り込むために賄賂の申し込むことを検討したと「昨夢紀事 ニ」に記されている。実際には忠固に支払われることがなかったが、紀州派を切り崩すためにそのような裏面工作まで行わざるを得ない状況にあった。
尾張藩第14代藩主・徳川慶恕は美濃高須藩主・松平義建の次男であり、弟に第15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬がいる。さらに徳川慶喜は母方の従弟にあたる。松平春嶽は継嗣問題について、慶恕に安政3年(1856)10月23日付けの書簡を送り意志を通じ合っていたものの、両藩の連携を果たすには至らなかった。左内は福井から江戸への途上の安政4年(1857)8月11に尾張藩側用人の田宮弥太郎を訪ね政情についての話を交わしている。また同年10月24日には藩士の石原期幸(甚十郎)が国元に戻る途上で田宮を訪問し左内からの書簡(「続日本史籍協会叢書 橋本景岳全集 二」(東京大学出版会 1939年発行 1977年覆刻) 二二一 安政4年10月24日 石原甚十郎に託して先生より尾張藩田宮弥太郎に贈りし書簡案)を齎している。左内は親藩である尾張藩との共闘を申し入れているが、主旨には賛成だが重大事件となるため個別に対応するという慎重な返事(同 ニ四〇 安政4年11月13日 田宮弥太郎より先生へ)が田宮から戻って来た。少し先の事となるが安政5年(1858)6月24日、水戸の徳川斉昭・慶篤父子、越前の松平春嶽とともに尾張の徳川慶恕も不時登城を行ったために、隠居謹慎に処せられ、田宮の心配が正に的中している。
幕府内で開明派と目された川路聖謨は、当初春嶽からの度々の誘いにも本心を明かすことがなかった。そのため春嶽は左内に川路説伏を命じている。左内は事の重大さを感じ、一度は拝辞したものの、安政5年(1858)正月14日に春嶽から川路に宛てた直書と左内への書下しを持参し川路邸を訪ねている。左内は論を交わし所信を披歴し、ついに川路を説伏し慶喜への助力を同意させている。この時の川路の御請書を「昨夢紀事 ニ」は所収している。春嶽は左内が帰邸し次第を報告するまで寝ずに待っていたことからも川路を陣営に取り込むことは一橋派にとって最重要であったことが分かる。千住小塚原の回向院にある重野安繹撰の景岳橋本君碑(「続日本史籍協会叢書 橋本景岳全集 一」(東京大学出版会 1939年発行 1977年覆刻))には当夜の様子を以下のように記している。
川路聖謨。以二老練一見レ称。語レ人曰。昨夜晤二橋本生一。其言論剴到。吾半身殆為二截取一。
川路は江戸に在っては日記を記していなかったようなので、この夜の左内に対する感想は「日本史籍協会叢書 川路聖謨文書」には見当たらない。
一橋派の主役が松平春嶽であったとすれば、南紀派側の頭目は紀伊藩附家老・水野忠央であろう。忠央は紀伊新宮第9代藩主でも紀伊藩附家老であったために幕府からは陪臣扱いになっていた。この格差を撤廃するため、成瀬、竹腰、安藤、中山そして水野の附家老5家が連帯し幕府に譜代大名並みの待遇を求めていた。さらに同じ紀伊徳川家の安藤家と手を組んで菊間席を求めたが効を奏しなかった。嘉永2年(1849)幼少の徳川慶福が藩主に就任すると、慶福を補佐する忠央は次第に紀州藩の実権を掌握していった。また妹の広を旗本の杉重明の養女として大奥に入れ、将軍家慶の晩年の側室としている。広(妙音院)は寵愛を受けて4子を儲けている。さらに家慶の御小姓頭取・薬師寺元真と御小納戸頭・平岡道弘にも妹を嫁がせ、御小納戸・水野勝賢、御使番・佐橋佳為、村上常要には弟を養子として入れている。第13代将軍・徳川家定にも姉の睦を側室に送り込み、更に妹の遐も大奥に入れて彦根藩主・井伊直弼と通じるようになった。江戸城の表と奥の両面に対して、これだけの縁戚関係を築いた水野忠央が自らの藩主である徳川慶福を将来の将軍職に就けようとしたのは、己の地位を向上させるための手段であったのだろう。いづれにしても大奥は反水戸派と南紀派で占められていたことに違いがない。
上府した西郷吉之助が橋本左内と面会した日の前日にあたる安政4年(1857)12月8日、幕府は朝廷に対して外交事情を奏聞するため林大学頭復斎と目付の津田正路へ上京を命じている。今の感覚からすれば、学者である林復斎を外交交渉の担当者に据える事に奇異を感じるかもしれない。その当時までは外交は共通の言語として漢文を用いて行われてきた。そのため漢文に秀でた儒学者の林家が担当しても不思議はなかった。復斎は安政元年(1854)正月16日のペリー再航に際して、町奉行・井戸覚弘とともに応接掛に任命されている。これより凡そ1ヶ月半にわたる交渉を担当し、3月3日に全12箇条からなる神奈川条約を締結、調印している。その後、交渉の場を下田の了仙寺に移し、同年5月22日に和親条約の細則を定めた下田条約を締結している。所謂、日米和親条約が結ばれ、米国にとっては通商条約を含まないものの人身保護と薪炭や食料の補給が可能になった。
阿部正弘が健在であった頃より、徳川斉昭は婿にあたる鷹司政通を通じて京都手入を行ってきた。しかし正弘の死去に伴い幕閣と斉昭の乖離が深刻なものとなり、遂には上記のように幕政への参与を免じられるに至った。これにより斉昭の京都手入が一層増すこととなった。そしてハリス入府を巡って幕府の外交に対する弱腰の姿勢が諸外国に攻め入る隙を与える旨の文書を京都側に流し、それが京都における攘夷熱を過剰に煽り立てることとなった。幕府側も斉昭の身辺を覗い、特に京都手入については既に勘付いてはいた。そして安政3年(1856)9月時点で安島帯刀に対して川路聖謨が忠告を行ってきたが、その効果には限界があった。
この斉昭の行った京都手入とそれによって加熱した攘夷熱が、やがて継嗣問題における一橋派の最大の障害となって行くことは徳川斉昭自身も気が付いていなかったようだ。さらに安政の大獄の処罰の口実を自らの手で作り上げてしまったこともである。
この記事へのコメントはありません。