アーカイブ:2016年 5月 29日
慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その2 2010年1月17日訪問
慶光天皇廬山寺陵
慶光天皇廬山寺陵では、桃園天皇から光格天皇に至る江戸時代中期の朝廷の様子を中心に幕府の衰退の兆しにも触れてきた。この項では光格天皇によって行われた朝儀の再興、朝権の回復について書いて行く。 明和8年(1771)8月15日に閑院宮第2代典仁親王の第6皇子祐宮として生まれている。そのままならば兄の美仁親王が閑院宮家を継ぎ、祐宮は安永元年(1772)9月には聖護院宮忠誉法親王の付弟とされ、将来的には聖護院門跡に入る予定であった。しかし後桜町天皇から譲位され即位した後桃園天皇が病弱で欣子内親… ►続きを読む
慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう) 2010年1月17日訪問
慶光天皇廬山寺陵
薬医門の右脇に大阪皇陵巡拝会が建立した慶光天皇廬山寺陵への道標が残されているように、廬山寺の境内には慶光天皇の陵墓が築かれている。慶光天皇とは京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように閑院宮第2代典仁親王である。閑院宮家は四世襲親王家として現在のところ一番新しく作られた宮家である。伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧される中、天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべきという新井白石の建議によっている。最初の世襲宮家である伏見宮の… ►続きを読む
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