アーカイブ:2017年 2月
師範桜碑
師範桜碑(しはんさくらひ) 2010年1月17日訪問 師範桜碑 出雲路橋の西詰北側の公園の一角に出雲路鞍馬口の石碑が建つ。この地はかつて、出雲より都に来た人々が多く住む集落があったため出雲郷と呼ばれていた。賀茂川の西岸に現在でも出雲路を冠する町名が残る。出雲路は洛北にあって鞍馬に至る鞍馬街道の出発点でもあり、出雲路橋を東に渡り下鴨村の集落から北に進む。さらに上賀茂、深泥池、幡枝、市原、二瀬を経由して鞍馬に至る道が鞍馬街道とされていた。すなわち出雲路は平安京の東北に位置したため、鞍馬方面からの物資の入口でもあった。時代が下り豊臣秀吉によって都市再整備の一環として御土居が建設される。出雲路… ►続きを読む
出雲路鞍馬口
出雲路鞍馬口(いずもじくらまぐち) 2010年1月17日訪問 出雲路鞍馬口 光格天皇御胞塚の石碑の建つ護浄院の境内から河原町通に出る。ここより市バスを使い出雲路橋に向う。鴨川の西岸に沿った道の内、葵橋西詰から京都産業大学総合グランドの北にある高橋の西詰までを加茂街道と名付けている記事を見かけたことがある。ただし「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)に掲載されていないので、どこまで一般化した名称なのか分からない。高橋より先、加茂街道は東西に分かれる。西は雲ヶ畑へ向う府道61号京都京北線、東は鞍馬を通る府道38号京都広河原美山線である。なお葵橋西詰から始まり鞍馬へ至… ►続きを読む
光格天皇御胞塚
光格天皇御胞塚(こうかくてんのうおんえなづか) 2010年1月17日訪問 光格天皇胞衣塚 護浄院の境内に、五輪塔とともに光格天皇御胞塚の石碑が建つ。碑文は光格天皇御胞塚とあるだけで建立年や建立者も記されていない。碑文も摩滅し読み辛くなっているため、「第百十九代光格天皇御胞塚」という駒札が新たに建てられている。さらに読み方が示すために「おんえなづか」とふり仮名も付けられている。 胞衣とは胎児が生まれた後の胎盤などを表わす言葉である。胞衣は生命の誕生に関連するものであり、昔から神聖なものとして扱われてきた。妊娠し出産した後も子供が成人するまでは、胞衣は子供の分身として扱われていたようで、子… ►続きを読む
清三宝大荒神尊
清三宝大荒神尊(きよしさんぽうこうじんそん) 2010年1月17日訪問 清三宝大荒神尊 護浄院の荒神口通に面した山門の東脇に、清三宝大荒神尊と記された石碑が建つ。一見すると護浄院の建てた寺号を示す碑の様に見えたが、裏側(南面)の建立者を見ると、三宅安兵衛遺志とある。大正15年12月の建立である。三宅安兵衛遺志についてはどこか項を改めて書こうと考えているが、なかなか資料が集まらなく未だ筆を執るに至っていない。ここでは現在分かっていることだけをもとに書いてみる。 三宅安兵衛とは現在の京都市中京区高倉通六角西入ルに住む織物商であった。この人物の生涯については子の清治郎が父母の十三回忌として昭… ►続きを読む
護浄院
天台宗 護浄院(ごじょういん) 2010年1月17日訪問 護浄院 清荒神 京都府立鴨沂高等学校の校門脇に建てられた明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯の石碑を確認した後、寺町通を北上して荒神口通を右に曲がる。法成寺址の前を過ぎてさらに東に進むと、新烏丸通の東南角に護浄院が現われる。この寺院のある荒神町は寺町通から河原町通を越え三本木通までの荒神口通に面した南北町である。鴨沂高等学校のグランドは荒神町であるが、荒神口通の南側にある校舎は松蔭町に含まれている。また護浄院を過ぎると荒神口通の南側は上生洲町になる。南北町であるにも関わらず荒神口通の南側は護浄院と河原町通より先の数軒のみが荒神町であ… ►続きを読む
明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 その2
明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯(めいじてんのうぎょうこうしょきょうとふじんじょうちゅうがっこうあと)その2 2010年1月17日訪問 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 2009年12月10日撮影 2010年1月に京都府立鴨沂高等学校を訪れた際はまだ高校として使われていたが、2014年には既に建替工事が始まっていた。そして2016年には校舎も無くなっていたので非常に驚いた。当初は平成28年(2016)末には完成する予定だったが、土壌汚染が判明し竣工が平成30年(2018)夏に延びてしまったようだ。この土壌汚染の原因が過去の土地利用に関係するものなのか気になるところではあるが、この項では… ►続きを読む
京都府立鴨沂高等学校 その2
京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう)その2 2010年1月17日訪問 鴨沂高等学校 九条家河原町邸の門を移築 京都市教育会が大正4年(1915)に建立した「従是東北 法成寺址」の石碑についての事々を法成寺址 その5において書いてきた。石碑が建てられた後に鴨沂高等学校のグランドを囲むコンクリート製の塀が造られたため、塀には石碑を避けるような半円形の窪みが設けられている。京都ではこのような窪みを多く見掛けるのは昔からの碑を地域の人々が大切に守ってきたからであろう。 この碑の東北には、かつて藤原道長が最後の時を過ごすために建立した法成寺が存在した。そして道長の没後も… ►続きを読む