文書と写真・地図による「記憶」の再現

京都府立鴨沂高等学校 その2



京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう)その2 2010年1月17日訪問

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鴨沂高等学校 九条家河原町邸の門を移築

 京都市教育会が大正4年(1915)に建立した「従是東北 法成寺址」の石碑についての事々を法成寺址 その5において書いてきた。石碑が建てられた後に鴨沂高等学校のグランドを囲むコンクリート製の塀が造られたため、塀には石碑を避けるような半円形の窪みが設けられている。京都ではこのような窪みを多く見掛けるのは昔からの碑を地域の人々が大切に守ってきたからであろう。
 この碑の東北には、かつて藤原道長が最後の時を過ごすために建立した法成寺が存在した。そして道長の没後も子孫によって再建と新規堂宇の造営が行われてきた。しかし鎌倉時代に入ると、摂関政治から院政を経て政権が武士に移ったため藤原氏自体も衰退していく。そのため法成寺の経営もままならない状態に陥って行く。吉田兼好の「徒然草」第25段には下記のような記述が残されている。

京極殿・法成寺など見るこそ、志留まり、事変じにけるさまはあはれなれ。御堂殿の作り磨かせ給ひて、庄園多く寄せられ、我が御族のみ、御門の御後見、世の固めにて、行末までとおぼしおきし時、いかならん世にも、かばかりあせ果てんとはおぼしてんや。大門・金堂など近くまでありしかど、正和の比、南門は焼けぬ。金堂は、その後、倒れ伏したるまゝにて、とり立つるわざもなし。無量寿院ばかりぞ、その形とて残りたる。丈六の仏九体、いと尊くて並びおはします。行成大納言の額、兼行が書ける扉、なほ鮮かに見ゆるぞあはれなる。法華堂なども、未だ侍るめり。これもまた、いつまでかあらん。かばかりの名残だになき所々は、おのづから、あやしき礎ばかり残るもあれど、さだかに知れる人もなし。されば、萬に見ざらむ世までを思ひ掟てんこそ、はかなかるべけれ。

 上記のように吉田兼好は、大門や金堂などは最近まで残っていたが南門は正和の頃(1312~17)に焼けてしまったと云っている。また金堂は倒壊したまま再建されなかったが、丈六仏九体を祀る無量寿院の阿弥陀堂は健在だったことが分かる。徒然草の成立年代については諸説があるようだが、元弘2年(1330)から翌年にかけて纏められたという説を信じるならば、元弘3年(1331)に阿弥陀堂が焼亡したので、その前の最後の姿を兼好は目にすることができたようだ。このようにして寛仁4年(1020)に藤原道長によって建立された法成寺も300年余を経て、遂に全てが失われる事態となった。

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鴨沂高等学校 上切通し側からの眺め

 この項では前回の訪問の際に、書き残した松蔭町の歴史について書いて行く。先ず法成寺の存在した位置である。既に何度も書いてきたように、都を区切る東京極大路より東側、近衛大路より北側と都の外周部にあたる。そのため「平安京提要」(角川書店 1994年刊)の「第三章 左京と右京」「2 左京全町の概要」にも掲載されていない。しかし「よみがえる平安京」(淡交社 1995年刊)では、「18 「この世をば」の世界 土御門殿と法成寺」として法成寺周辺を平安京全体模型で見ることが出来る。現在の鴨沂高等学校が建つ近衛大路の南側にも、寺院あるいは邸宅らしき建物が存在している。 平安時代から応仁の乱までの名所旧跡を記した中古京師内外地圖からは、もう少し情報が得られる。まず土御門殿の東側には京極(=東京極大路)と京極川(=中川)があり、その東に法成寺が描かれている。さらに法成寺の南端から四条通の間に東朱雀(=東朱雀大路)という南北路も記されている。東朱雀大路が文献に最初に現われるのは、「中右記」嘉保2年(1095)3月19日の条とされている。これ以前にも東朱雀は存在していたかもしれない。元の朱雀大路との区別がつかない表記がなされていたため、いつから存在したか判然としていないのが現状のようだ。そもそも東朱雀大路は東京極大路の別称であるという意見もあったが、朱雀河を鴨川と見なすならば東朱雀大路は東京極大路より東側に存在していた南北路という可能性が高まってくる。いづれにしても、右京の田園化に伴う左京の開発によって作られた南北路であり、鴨川東岸の白河で院政が行われる頃には、京都の中心はかなり東側に移動していたことは確かである。
 京都市教育会が大正4年(1915)に建立した「従是東北 法成寺址」の石碑についての事々を法成寺址 その5において書いてきた。石碑が建てられた後に鴨沂高等学校のグランドを囲むコンクリート製の塀が造られたため、塀には石碑を避けるような半円形の窪みが設けられている。京都ではこのような窪みを多く見掛けるのは昔からの碑を地域の人々が大切に守ってきたからであろう。
 次に「廣幡」「廣幡院」「祇陀林寺」について調べてみる。「廣幡」とは、廣幡中納言すなわち宇多天皇の孫の源庶明のことと思われる。庶明は延喜3年(903)に斉世親王の子として生まれている。庶明が廣幡邸に住んでいたことは鎌倉時代初期の説話集「続古事談」の第四に下記のように記されている。

上人、祇陀林の廣幡院に移作しけり、此所は顕光左大臣の家なり。昔庶明中納言住みけり、古老伝ふらく、行基菩薩此地を見て、三寶不動の所なり、尊重すべしと宣ひけり、此所には、宇多法皇もおはしましけり。清貫民部卿も住みけりとぞ。顕光のおとヾ施入の後、上人堂を作る時の受領、多く助成しけり。

 途中からの引用のため意が通じないので補足すると、上人とは仁康上人のことである。上人は源融の第三子とする記述をNet上で見掛ける。源融は嵯峨天皇の第12皇子で六条河原院や嵯峨の栖霞観を造営した人物として知られている。弘仁13年(822)生まれ、平安時代初期から前期にかけての公卿であった。融は政敵の藤原基経に敗れ、寛平7年(895)に没している。河原院は融が亡くなると次男の昇に相続される。源昇は河原院を宇多上皇に献上したため、上皇の仙洞御所として使われている。続古事談には、融の霊がこの地にとどまり住んだため、上皇は時々訪れるものの常に住む事は無かったと記している。この融が霊として河原院に現われる話は、今昔物語、江談抄、紫明抄にも記されているので、当時から有名だったようだ。
 そのようなこともあり、上皇は仁康上人に命じて河原院を寺院としている。なお、「平安提要」では仁康上人は融の子ではなく、昇の子としている。上人は丈六釈迦佛を建立するなど融亡き後も栄華を誇ったが、鴨川の洪水や火災により次第に衰退していった。そこで上記の続古事談のように元河原院に建立した寺院を廣幡院に移すこととなった。
 続古事談にあった清貫民部卿とは清涼殿落雷事件で死亡した藤原南家の藤原清貫である。この延長8年(930)6月26日の清涼殿と紫宸殿への落雷は、菅原道真の怨霊の仕業と噂される。清貫は道真の動向を醍醐天皇や藤原時平に報告したためである。

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鴨沂高等学校

 もう一度整理すると、源融が築いた六条河原院は、その死後に子の昇より宇多天皇に寄進されている。しかし融の霊が度々現われたことからか、融の子あるいは孫の仁康上人によって寺院に改められている。幾度もの火災や鴨川の増水により、東京極大路の東、近衛大路の南の地に上人の手によって移され祇陀林寺となる。この地は清涼殿落雷事件で死亡した藤原清貫や源庶明の住んでいた場所でもあった。
 時代の古いほうから人物を確認すると、弘仁13年(822)生まれの源融は、承和3年(836)生まれの藤原基経より14歳年長であった。宇多天皇は貞観9年(867)であるから、基経の子である貞観13年(871)の時平や元慶4年(880)の忠平に近い。
 現在の御所東に住んでいたとされる民部卿・藤原清貫も貞観9年(867)生まれで延長8年(930)死亡。廣幡院のもととなった源庶明は、宇多天皇の孫であるので延喜3年(903)生まれと宇多天皇、清貫、時平そして忠平より後の世代に属している。もし六条河原院よりこの地に祇陀林寺を移した仁康上人が源融の子であったとしたら、廣幡院が存在する以前に祇陀林寺の移転を行ったように思われる。また上人が融の孫であったら源庶明と比較的近い世代となるので、廣幡院創建後に移したことも考えられる。ちなみに庶明が死去したのは天暦9年(955)のことであった。
 残った2人内でも年長の藤原顕光は天慶7年(944)、若い藤原道長は康保3年(966)生まれと、この間にも22歳の開きがある。仮に仁康上人が源融の孫であったとしても50年以上の差があったように思われる。つまり廣幡院の主である源庶明や仁康上人が亡くなって50年近く経った後に、道長によって法成寺が造営されたことが分かる。

 以上のように焼亡の度に民衆の力によって再建を果たしてきたものの、徐々に衰退していったようだ。当寺に住した時宗の僧浄阿が後伏見上皇の后・広義門院寧子の難産のとき阿弥陀名号の札を献じ、無事に皇子が誕生している。その功により応長元年(1311)祇陀林寺を改め金蓮寺と称するようになったとされている。

 紙数が尽きたので松陰町の歴史はこの祇陀林寺までとし、それ以降はまたの訪問の際とする。

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鴨沂高等学校

「京都府立鴨沂高等学校 その2」 の地図


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京都府立鴨沂高等学校 その2 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
赤● 法成寺址 35.0214 135.7678

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