アーカイブ:2017年 8月
水火天満宮
水火天満宮(すいかてんまんぐう)2010年1月17日訪問 水火天満宮 堀川通に面した鳥居 上京区扇町の大応寺の左隣には水火天満宮の鳥居が建つ。 水火天満宮はその名称から分るように、菅原道真を祀るために創建された神社である。旧村社、社殿によれば、延長元年(923)6月25日、醍醐天皇の勅願により菅原道真の神霊を勧請して建立されたものである。 昌泰4年(901)1月昌泰の変が起き、右大臣菅原道真が大宰員外帥として大宰府へ左遷されている。この左遷の原因が左大臣藤原時平の讒言であったのは有名な話である。事件は単純な2人の人間関係だけではなく、宇多上皇と醍醐天皇及びそれを取り巻く人々の政治主導… ►続きを読む
大応寺
臨済宗相国寺派 金剛山 大応寺(だいおうじ)2010年1月17日訪問 大応寺 妙覺寺の大門を出て上御霊前通を西に進むと堀川通に出る前に扇町児童公園が現れる。次の訪問地の大応寺は、この児童公園の北側に位置する。 大応寺は臨済宗相国寺派、山号は金剛山。正保2年(1645)悲田院が泉涌寺内に移転した跡地に建立されている。悲田院は、仏教の慈悲の思想に基づき貧しい人や孤児を救うために作られた施設である。日本においては、聖徳太子が大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てたのを最初とする伝承がある。ちなみに四箇院とは敬田院、施薬院、療病院、悲田院の4つの施設で構成されている。敬田院は寺院そのものであり… ►続きを読む
妙覺寺
日蓮宗本山 具足山 妙覺寺(みょうかくじ)2010年1月17日訪問 妙覚寺 大門 是より洛中碑の室町小学校の校門より北西の下清蔵口町に向う。この辺りには日蓮宗の寺院がいくつかあるが、その内の妙覺寺を先ず訪れる。 妙覺寺は日蓮宗の本山、山号は具足山で通称北竜華。妙顕寺、立本寺とともに日蓮宗の名刹三具足山の一つ。日像の法孫、竜華院日実が創立。日実は鎌倉時代の日蓮宗の僧で生没年不詳。紀州に生まれ、妙顕寺の大覚に師事。備前及び備中に布教を行う。永和4年(1378)1月18日、弟日成とともに妙顕寺を出て、同年中に四条大宮に妙覺寺を開く。なお寺伝では日像を開山、日実を第4世としている。外護者は日像… ►続きを読む
是より洛中碑
是より洛中碑(これよりらくちゅうひ)2010年1月17日訪問 是より洛中碑 光照院門跡の山門右脇にある持明院仙洞御所跡の石碑を確認した後、室町通に戻り、室町頭町にある室町小学校を目指す。 室町頭町は室町通の両側町。町名の頭町は室町通の北端という意味を持っている。現在の室町通は、途中東本願寺と京都駅で分断されているものの、北は北山通から南は久世橋通まで通じる南北路である。しかし寺之内通で凡そ30mほど東側に移っている。この寺之内通を北端として、南は上立売通までが室町頭町とされている。なお「日本歴史地名大系27 京都市の地名」(平凡社 1979年刊)によれば、天文15年(1546)11月1… ►続きを読む
持明院仙洞御所跡
持明院仙洞御所跡(じみょういんせんとうごしょあと)2010年1月17日訪問 持明院仙洞御所跡 光照院門跡の山門右脇に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。後伏見上皇の皇女・進子内親王が泉涌寺の無人如導によって落飾し、自本覚公尼となったのは、延文元年(1356)のこととされている。この時に室町一条北に光明院が創建されたと考えられている。その後、応仁の乱によって光明院が焼失すると、文明9年(1477)頃に後土御門天皇から安楽小路に寺地を賜わっている。光明院の開山となった自本覚公尼の父である後伏見天皇が持明院統であったことから、この所縁のある土地を賜ったのであろう。 もともと持明院は藤原基頼の邸宅で… ►続きを読む
光照院門跡
光照院門跡(こうしょういんもんぜき)2010年1月17日訪問 光照院門跡(常磐御所) 高松伸設計の織陣Ⅲの斜め前に持明院仙洞御所跡の石碑が建つ。1998年と比較的新しい碑の建立者は光照院門跡 田中澄俊と恵聖院門主 中島真栄となっている。持明院仙洞御所については後ほど記すとし、先ずは現在存在している光照院門跡の歴史について書いてみる。 光照院門跡は浄土宗知恩院派の門跡寺院で常盤御所と称する。開山は後伏見天皇の皇女進子内親王で、光厳天皇・光明天皇の妹宮にあたる。寺伝によれば、宮は建武2年(1335)に生まれたとされている。父である後伏見上皇が崩御されたのが建武3年(1336)とされているの… ►続きを読む
織陣
織陣(おりじん)2010年1月17日訪問 織陣Ⅰ 昭和56年(1981)竣工 宝暦・明和事件の背景とその影響を記すために、藤井右門邸跡から始まり、その2、その3、その4、その5までと、思ってもいなかった程の長文になってしまった。この明和事件の発生した明和4年(1767)は、幕末維新の100年前に当たる。まだ幕府の基盤も安定していた時期であり、尊王の意識はあったものの、実際に倒幕が可能だという見通しは藤井らにとっても無かったと思われる。現在から250年前に発生した小さな事件が、幕末維新の大きなうねりに繋がっていくためには、まだまだ多くの人々の登場を待たねばならなかった。 明田鉄男氏の「幕… ►続きを読む