アーカイブ:2018年 5月 20日
表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)その2 2010年1月17日訪問
表千家 不審菴紀州藩より文政8年(1825)に拝領された長屋門
表千家 不審菴では、千少庵の大徳寺門前屋敷と二条屋敷に設けられた茶室について書いてきた。この項では千家再興後の少庵、宗旦による本法寺屋敷の不審菴を中心に見て行く。既に裏千家 今日庵の項で一部記したので重複する所もあるが、もう一度時系列的に変遷を辿る。 先ず少庵が二条釜座から本法寺門前に移居したのは、千利休が賜死する直前の天正19年(1591)正月のことであった。詳細不明であるが、秀吉の町割替えによって立ち退かざるを得なくなったようだ。敷地規模は「南… ►続きを読む
表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)2010年1月17日訪問
表千家 不審菴
裏千家 今日庵では、千利休切腹後に家名断絶となった千家が再興し、表千家、裏千家そして武者小路千家に分かれていった経緯について記した。この項では不審菴と名付けられた茶室の変遷と表千家について書いて行く。 千宗左、千宗室、千宗守監修の「利休大事典」(淡交社 1989年刊)によれば、利休の手がけた茶室の姿が記録に現れてくるようになるのは、天文13年(1544)宗易の名で堺屋敷に於いて茶会を催すようになってからとしている。それ以前については、与四郎の名で記された茶室記録に武野紹鷗の教えを受けたとい… ►続きを読む
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