表千家 不審菴
表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)2010年1月17日訪問
裏千家 今日庵では、千利休切腹後に家名断絶となった千家が再興し、表千家、裏千家そして武者小路千家に分かれていった経緯について記した。この項では不審菴と名付けられた茶室の変遷と表千家について書いて行く。
千宗左、千宗室、千宗守監修の「利休大事典」(淡交社 1989年刊)によれば、利休の手がけた茶室の姿が記録に現れてくるようになるのは、天文13年(1544)宗易の名で堺屋敷に於いて茶会を催すようになってからとしている。それ以前については、与四郎の名で記された茶室記録に武野紹鷗の教えを受けたということなどが残されているものの、創作過程を明らかするような記述は見当たらない。しかし、この天文13年から天正19年(1591)の死までの凡そ半世紀の間に、利休が創り出した茶室の変遷を辿ることは可能になっている。
先ず利休が各所に設けた屋敷について見て行く。最初に堺の市中、そして郊外の百舌鳥野、さらに山崎、大阪城下、京都の大徳寺門前、聚楽第の周辺、醒ヶ井に屋敷が造られたことが知られている。これ以外にも北野大茶湯の四畳半や博多箱崎陣所の深三畳など、一時的に設けられた茶室もあった。特に聚楽屋敷については、「杉木普斎伝書」に「利休家之図」と称する寸法書きが残されているため、かなり詳細なことが分るようだ。その反面、それ以外のものについては不明な部分が未だ多く残されている。
中村昌生氏監修による最新の「茶室露地大事典」(淡交社 2018年刊)を参照すると、「千利休の茶室」の条に下記のような記述が見られる。
最初期にあたる堺屋敷の四畳半は、不審庵と称され、当時の断片的記述を総合すると、床付きの四畳半で南向き、炉は一尺四寸四方で左構え(今の本勝手)であった。のちの会記から縁の存在も推定でき、そうであれば、「紹鷗四畳半ノ写」で「宗易ハ南向左勝手ヲスク」(山上宗二記)という記述とも合う。
なお、上記の「利休大事典」の「利休の屋敷と茶室」で堺屋敷について触れており、「堺の屋敷には、はやくから四畳半の茶室が設けられていた。それは角柱、張付壁で洞庫を備え縁のついた紹鷗四畳半の写しであった。」という記述が見られる。これは「茶室露地大事典」の「最初期にあたる堺屋敷の四畳半」に対応した記述と考えてもよいだろう。ただし「利休大事典」では堺屋敷の茶室の名称を明らかにはしていない。そして大徳寺門前屋敷の茶室について、「江岑の伝えがあり、四畳半が造立され「不審庵」の額が掲げられたことが知られる。」と記している。つまり「利休大事典」を読む限り、不審庵という名が用いられたのは大徳寺門前屋敷からということになりそうだ。
松屋久政による茶会記「松屋会記」の永禄10年(1567)12月26日朝の条に「今市堺千宗易へ」とあることから、利休の堺屋敷が今市町(現在の堺市堺区宿院町西一丁目)にあったことが分かる。しかし屋敷としての規模あるいはその構成を記述した史料が見出されないため、これ以上のことは明らかになっていないようだ。「茶室露地大事典」は、元禄7年(1694)に刊行された「古今茶道全書」に所収されている「堺町市住居露地数寄屋之図」と当時の利休の堺屋敷は同一ではないと考えている。その根拠として、大坂夏の陣で堺の市街地の大部分が焼失してしまい、その戦後に屋敷の指図を作成することは不可能であることを挙げている。また「利休指図」も利休の堺屋敷を意味するものとは限らず、求めに応じて利休が設計した茶室の一つであったか、あるいは全くの創作の図つまり贋作の可能性をも示唆している。
上記のような指図など直接的な建物に関する情報は見つからないものの、茶会記などが残されており、天文13年(1544)には、既にこの屋敷内で茶会が行われてきたことが分かる。「茶室露地大事典」は、最も早い時期より堺で茶会が行われた四畳半の茶室こそが、不審庵であったと推測している。
次に大徳寺門前屋敷にあった不審庵を見て行く。大徳寺門前屋敷は「江岑夏書」の「門前北ノ方うら門前へにしかとやしき也」という記述から大徳寺境内の裏手、北門前町(現在の紫野上門前町か?)の一画にあったと「茶室露地大事典」は考えている。一般的には先ず天正8年(1580)頃に千少庵が住み始め、同13年(1585)頃から利休が少庵に代わって住んだとされている。少庵の名が茶会記に現れるのが天正6年(1578)11月で、まだ堺の利休屋敷内で義理の兄の道安と同居していたと思われる。天正8年(1580)12月28日、「帰洛之てたち也」と京都に帰る少庵を送る茶会が開かれているので、既に少庵が堺を出て京都に上っていたことが分かる。そのため大徳寺門前屋敷内に利休に先立って茶室を構えていたことも想像される。
もともと利休は若年の頃より京都に居所を得て、常に京都堺間を行き来していたので、少庵の大徳寺門前屋敷に後から入り込み、これを貰い受けたと考えるのにはやや無理がある。また利休が既に天正4年(1576)頃、大徳寺門前に仮住まいしていたことも書簡類から分かっているので、「茶室露地大事典」は、しばらくの間利休と少庵のそれぞれの屋敷が併存し、やがて屋敷の主は少庵から利休に代わっていったと推測している。これに対して「利休大事典」は、「少庵が先で利休があとから来たという伝えは、本格的な門前屋敷の発足を取り上げて言っているのであろう」とし「利休が少庵に住まわせていた大徳寺門前の屋敷に移ったのであろう」と解説している。さらに、「利休大事典」はこの少庵が過ごした時期に大徳寺門前屋敷内に二畳敷きの茶室と書院が造られていたと考えている。
少庵は天正12年(1584)12月末まで、大徳寺門前に住んでいたのは確認できるので、大徳寺門前の屋敷が実質的に利休に渡ったのは天正13年(1585)3月の大徳寺大茶湯や10月の禁中茶会が開催された頃と考えられる。そのため利休が屋敷内に四畳半の茶室を造り不審庵と命名したのは天正13年以降となる。この四畳半の茶室には間口五尺の床が設けられ、「うすすミ色ノかミにて皆はりつけなり」ということから床の中だけが薄墨色の張付壁であったようだ。これは堺屋敷などで行われてきた手法であるが、薄墨色にしたことで侘びの表現を強調したのかもしれない。
ちなみに、利休が大徳寺門前屋敷に入ったのは、聚楽第建設のため豊臣秀吉が京都に滞在する期間が長くなったことに関連しているようだ。
この天正13年頃、少庵の実子である宗旦は既に大徳寺に入っていたため、少庵にとっても大徳寺門前屋敷を出て新たな屋敷に移っても支障はなかったようだ。こうして少庵は一般に云われている二条衣棚ではなく、現在の二条釜座あたりに新居を移した。この地に少庵が造った茶室は、江岑の「伝聞書」によると「少、二条ニ而屋敷最初ニ二畳半床無ノ座敷」とあるので、二畳台目床無しの座敷であった。利休から譲り受けた楽阿弥の壺を披露するため、利休を二条屋敷の茶室に招いている。上述のように、この座敷には床が無かったため、大壺を手前座の風炉先の横手、すなわち炉脇に建つ中柱続きの袖壁の先端に置いた。この少庵の二畳台目の茶室を利休は称賛したと、「江岑咄之覚」に残されている。
「茶室露地大事典」は、「山上宗二記」の記す二畳半、すなわち三畳敷で点前座の風炉先半間に袖壁建て客座二畳とを仕切った茶室と、少庵の茶室は異なっていたこと、両者の違いが中柱袖壁下半分を吹抜いている点にある事を指摘している。「山上宗二記」は千利休の高弟で茶人の山上宗二が記した茶道具の秘伝書である。大部分が茶道具の名物を紹介しているが、宗二はこの書の中で6つの茶室の型、すなわち(1)紹鷗の四畳半、(2)平三畳敷、(3)二畳半、(4)三畳敷、(5)関白様御座敷二帖敷、(6)細長三畳敷を取り上げている。「山上宗二記研究 一」(三徳庵 1993年刊)に所収されている中村利則氏の「『山上宗二記』の茶室」によれば、(1)は侘茶の始祖の茶室、(5)は関白すなわち豊臣秀吉の茶室、(4)は宗二の師匠であり当時の天下一の宗匠である千利休の茶室、そして(6)宗二自身の茶室である。残りの(2)と(3)は、この書が記された天正14年(1586)頃に大流行した茶室の型として取り上げたと考えている。つまり少庵の茶室は当時流行っていた所謂二畳半の茶室とは異なったものであったと「茶室露地大事典」は述べている。
上記のように最初の少庵の二畳台目には床がなかったが、その後床を構えたことは以下の「江岑夏書」から分かる。
徳善院ノ時、其二条ニ而やしきニ二畳半ノ小座敷披致、床ハ四尺ニいたし、ふるい〈宗易を座敷開に呼被申候、易きけんよく呉座候、扨。門前へ易御帰候て、そのまゝ大工呼て、床を四尺三寸シメ被申候事、
少庵の茶室で間口四尺の床を見た利休は、早速大工を呼び不審庵の五尺の床を四尺三寸に縮めたということである。この不審菴の手直しを「茶室露地大事典」は「利休による二畳でのわび茶が受け入れられつつあることの反映であり、また従来の四畳半一間床がもつ名物飾り一辺倒の権威が崩れつつあることも意味していた。」と記している。利休にとっての四畳半の到達点は天正15年(1587)10月の北野大茶之湯で披露した四畳半と聚楽屋敷に設けられた四畳半であった。そして宗旦によって承応2年(1652)に造られた又隠は、これらの利休の四畳半を継承するものである。
大徳寺門前屋敷の後に建設された聚楽屋敷には一畳半(一畳台目)と四畳半の茶室、広間大書院、色付九間書院があったことが記録に残されている。一畳半の茶室は後に秀吉によって二畳に改築したと伝えられているようだ。醒ヶ井屋敷についても六畳の茶室と書院があったとされているが史料に不明な点が多いため、その存否も確定しがたいというのが現状のようだ。
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