表千家 不審菴 その2
表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)その2 2010年1月17日訪問
表千家 不審菴では、千少庵の大徳寺門前屋敷と二条屋敷に設けられた茶室について書いてきた。この項では千家再興後の少庵、宗旦による本法寺屋敷の不審菴を中心に見て行く。既に裏千家 今日庵の項で一部記したので重複する所もあるが、もう一度時系列的に変遷を辿る。
先ず少庵が二条釜座から本法寺門前に移居したのは、千利休が賜死する直前の天正19年(1591)正月のことであった。詳細不明であるが、秀吉の町割替えによって立ち退かざるを得なくなったようだ。敷地規模は「南北四十一間、東西十六間、南ニ而十四間(「元伯宗旦文書」)であった。利休が秀吉の勘気に触れ、堺への追放令が出されたのが天正19年(1591)2月13日のことであるから、まさに直前の替地であった。少庵は会津の蒲生氏郷のもとに蟄居を命じられ、利休の聚楽屋敷は勿論、少庵の本法寺門前屋敷も没収されている。千少庵が許されて会津から本法寺門前屋敷に戻ってきたのは文禄3年(1594)11月であった。そして子の宗旦が大徳寺から戻り父と同居始めたのが、文禄4年(1595)末から翌5年(1596)の初めであった。
秀吉に赦されたとはいえ、その実情は蟄居生活であった。しかし少庵にとって、利休の茶の継承に専念する時間ができた。再興後の本法寺門前屋敷が茶会記に現れるのは、慶長8年(1603)2月5日の松屋久好を招いた茶会であった。慶長3年(1598)に秀吉が伏見城で薨去している。それでも少庵は目立たぬ生活を続けていたのだ。久好は茶会記「松屋会記」(「茶道古典全集 第九巻」(淡交新社 1957年刊)・「茶の湯の古典 3 四大茶会記 松屋会記・天王寺屋会記・今井宗久茶湯書抜・宗湛日記」(世界文化社 1984年刊))に以下のように記している。
五日朝 一京都少庵へ 久好一人
春屋文字 ツハ口ノアラレ釜、是ハ利休所持之釜也、手洗ノ間ニ、文字巻テ、床ノ太平三分一脇、又高サハ三尺六寸九分程ノ所ニ折釘ニカンネン掛テ、八重白梅・ツハキ入、セト水サシ 尻フクラ茶入 利休ノメンツ
引切
アツメナマスワキノ方ニコノワタ 汁シヲタイクヽタイ 引物コイ
飯 クワシフトクリト二イロ
この茶会がどのような茶室で行われたかの記述は全くない。そのため、この時点では本法寺屋敷の茶室の詳細は不明である。松屋久好は同年10月12日に千道安を訪問している。
十月十二日朝一堺千道安へ 久好一人
古渓文字 肩ツキタル釜 カツラ水サシ 天目、フクリンナシ、セトカタツキ、金ラン袋ニ入、メンツ 引切
イトメニツヽキリサケヤキ物 汁 ミソヤキ
飯 引テ、ナマス色々
クワシヤキモチ・生クリ二種
この久好の記述により千道安も堺に千家を再興していたことが分る。しかし安土桃山時代が終わり江戸時代に入ると、堺の都市としての地位は徐々に低下していく。そして堺から道安の茶系は元禄時代の頃には失われたようだ。
再興した千家の茶室の様子が分かるのは、さらに5年後の慶長13年(1608)2月25日の久好の子である久重が残した「松屋会記」である。利休の大阪屋敷に設けた深三畳台目の茶室を少庵が本法寺門前屋敷内に復興したことが記されている。この日、久重は朝飯後に先ず千宗旦の臨時の茶会に一人だけの客として招かれている。
戊申二月廿五日、朝飯過一京都千宗旦ヘ 不時ニ 久重一人
ニシリ上リ
クヽリ
三畳ヲシトヲシ、板天井也、
南向
アキテアリ
ノ所ニケタヲ引テ、上ハアケ、下ハカヘ、
路地ヒロシ、皆々トヒ石也、
水鉢ハ石スエノ大石也、
この久重の茶会記には茶室の指図が描かれている。校訂訳注の熊倉功夫氏は下記のように説明している。
茶室はいわゆる道安囲いである。手前座の脇まで壁があり、壁の上、天井との間はあけてあった。壁には花頭口が切られ、手前にかかると、ここの障子が開いて、客座から手前の様子が見える仕掛けだったのだろう。とすると座敷は二畳。ほぼ極小である。一亭一客の茶にふさわしい茶室である。
指図には、「二畳敷」「あきてあり」「中柱」「花頭口」「天井ぎわに壁長押」「障子」等の書き込みが見られるので、ほぼ熊倉氏の解説する空間であったのであろう。
これに対して中村昌生氏監修による最新の「茶室露地大事典」(淡交社 2018年刊)では、始めて茶会記に現れた宗旦の茶室を「茶室は南向きの平三畳で、二畳の客座と一畳の点前座の境に仕切壁建てた、いわゆる宗貞囲であった」と表現している。道安囲と宗貞囲の定義の違いがあるもののほぼ同じ空間構成であることが確認できる。茶の後、書院へ進む。書院には上段の二畳敷があり、ここには春屋宗園の書した掛物があり、その前には馬上杯や香炉などを卓に載せて飾ってあったと茶会記に記されている。
同じ慶長13年(1608)2月25日の昼より、宗旦の父・少庵の茶会に久重は招かれている。
二月廿五日昼一京都千宗旦ヘ 不時ニ 久重一人
この後、少庵の深三畳台目の茶室の指図が描かれ注釈が記されている。少庵は利休が大阪屋敷に設けた茶室、すなわち山上宗二が「山上宗二記」で描いた「細長三畳敷」を本法寺屋敷で再現している。三畳とあるもののさらに台目畳ほどの点前座が加えられているため三畳台目の広さはあった。元となる利休の大阪屋敷の建設は、天正11年(1583)の大阪城築城と同時期と考えられるので、大徳寺門前屋敷や聚楽屋敷よりやや古いものである。
千家を再興した少庵にとって利休の道統を継承するために、先ずは大阪屋敷にあった深三畳台目を本法寺屋敷に設けたのであろう。ただしその建設時期について、「茶室露地大事典」は秀吉が没した慶長3年(1598)以降であると推測している。
久重の「松屋会記」は多くの紙数を割いて晩年の千少庵の点前を克明に書き残している。少庵が没したのは慶長19年(1614)であるので、この茶会の頃は63歳であった。本席は宗旦同様、不時の茶会であったため菓子も出さすに済ましている。茶の後に書院に出て数寄についての雑談を繰り広げている。そして一汁ニ菜の懐石と美濃柿一種の菓子が供されている。熊倉氏は前述の「茶の湯の古典 3 四大茶会記」に以下のように記している。
この書院は今日の表千家にある残月亭に相当しようか。とすれば聚楽の利休屋敷にあった色付九間(十八畳敷座敷)という座敷になり、秀吉も再三訪ねたことであろう。
熊倉氏の「秀吉も再三訪ねた」とは、「松屋会記」に記された「右ノ座敷モ利休ヘ 太閤様御成候時ノ座敷ノ図ト御語リ候也」からきているようだ。
慶長19年(1614)に千少庵が没すると、千家は37歳の宗旦の時代となる。時代は武家による大名茶湯が興隆していく中、町人である宗旦は利休の侘び茶を深く追求していく。宗旦が最初に一畳半の座敷を作り不審菴と称したのは元和4年(1618)頃とされている。作庭家であり茶人でもある重森三玲は、自らの著書「日本庭園史体系22 江戸初期の庭9」(社会思想社 1973年刊)で、宗旦が一畳半の座敷を作った時期を江岑宗左の「一畳半指図」から推測している。江岑宗左の「一畳半指図」とは、宗旦から不審菴を譲り受けた宗左が正保4年(1647)記したものである。
右一畳半小座敷指図三十年巳前ニ不審庵作ニ而候所、宗左十年余所持致候へは、右之座敷のタヽミ置、今三畳ノ座敷作ル故、宗易座敷寸法以不審作ノ時委右ノ通書付置、柱章子クヾリノ戸利休所持ニテ存之候秘蔵致置也
正保四年 已上
未ノ三月 逢源斎
千宗左(花押)
重森はこの一文より、正保4年(1647)の三十年前にあたる元和4年(1618)頃に一畳半の茶室が造られたと考えている。利休が聚楽第の城下に建てた屋敷の二畳の茶室への憧憬と利休の茶の湯への強い回帰を意識してこの不審菴を造ったと推測し、さらに竣工15年後の寛永10年(1633)に手直しが施されたと指摘している。宗旦による不審菴建設時期については、元和4年説と寛永10年説の2説がある。最新の「茶室露地大事典」も「宗旦の茶室」の条では、「元和四年頃に宗旦が好んだ一畳半で、その一畳台目には床が構えられていたとも考えられよう。それが寛永十年に澤庵宗彭の軸を売って資金を捻出して改修され、床を取り除いて壁床にあらためられたと考えられる。」とほぼ重森の元和4年説を採用している。また「不審庵」の条では「寛永十年(1633)千宗旦が床無しの一畳半を造立し、不審庵と称した。」と記している。これを新築ではなく改修によって床無しの一畳半になったのであれば元和4年に作られたこととなる。
正保3年(1646)の宗旦の最初の隠居の際、不審菴を息子の江岑宗左に譲り自らは新たな家を北側十六間四方に建設している。同年6月13日の宗左宛ての書簡には、「うちの作事はやうけとらせ候て、大工所もこしらへ候、盆前ニ出来様願、四間ニ三間ノ家ニ候、小座敷ハ二畳敷候、来春茶可申候」と綴っている。居住部分が四間×三間の二十四畳分で茶室は二畳であったことが分る。つまり一間四方で中柱と向切の炉があり、一畳台目向板入りの構成になっていた。同年9月1日に菓子の茶による口切の茶事が催されている。これが現在の今日庵の原型となっている。 翌4年(1647)宗左によって宗旦の不審菴一畳半は畳まれている。そして平三畳台目が建設され、新しい不審菴となった。江戸時代中期の茶人で江戸千家を創設した川上不白による「不白筆記」には下記のような記述があるようだ。
宗旦御隠居不破成前ハ此一畳半也 其後ハ江岑宗佐殊の外肥満にて 宗旦へ御相談被成 今の三畳半の座敷に替る 夫故茶立口なと少々宛廣し
不審菴が一畳半から三畳台目に変更された理由を記しているが、「不白筆記」が宗左より凡そ100年後の記述であることは注意しなければならないだろう。いずれの理由にしろ宗左は、恐らく宗旦の許可を得て不審菴を三畳台目に変更したのであろう。かつて少庵が利休の大阪屋敷にあった深三畳台目を写したのに対して、宗左は平三畳台目を少庵の建設した書院である残月亭の南に接して造っている。前述のように書院は聚楽屋敷にあった色付九間書院を原型にして縮小して造られたもので、豊臣秀吉が来臨したことのある千家として最も輝かしい歴史を想い起こすに十分な建物である。これに新しい宗左の平三畳台目が建てられている。
不審菴と残月亭は今日庵、又隠と同様に天明8年(1788)の天明の大火で焼失している。寛政元年(1789)秋から利休ニ百回忌が営まれたが、この時はまだ不審菴、残月亭ともに再建されなかった。しかし天保10年(1839)の二百五十回忌には再興されている。これを機に不審菴は残月亭の南から離れ、東方に独立して南向きに改められている。この後、明治39年(1906)にも火災で焼失し、大正2年(1913)に再建され現在に至っている。
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