宝鏡寺
臨済宗単立 西山 宝鏡寺(ほうきょうじ)2010年1月17日訪問
小川にかかる百々橋跡を西陣側に渡ると、寺之内通の北側に宝鏡寺門跡の山門が現れる。
話しを宝鏡寺の歴史に進める前に、日本における五山制度の形成と尼五山第1位の景愛寺について見て行くこととする。室町時代に京都五山と鎌倉五山が制定されたことは比較的良く知られている。しかし、それ以前にはどのような格式があったかは明らかではない。元々は中国・南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所すなわち天竺五精舎の故事に倣ったのが始まりとされている。鎌倉時代後期日本にも禅宗の普及が始まり、正安元年(1299)鎌倉幕府の執権北条貞時が浄智寺を「五山」とするように命じている。これが日本における「五山」の最古とされている。ただし公的な制度ではなく、北条氏によって行われた特別な寺格付与のようなものであった。残念ながら鎌倉幕府による五山制度は余り明らかになっていない。現在では鎌倉の建長寺、円覚寺、寿福寺と京都の建仁寺の4ヶ寺が「五山」に含まれていたと考えられている。
続く後醍醐天皇の建武の新政においても「五山」は制定されている。鎌倉幕府の制定した五山が鎌倉の寺院を中心としたのに対して、今度は京都にある禅院を中心に選出された。南禅寺と大徳寺の両寺が五山の筆頭、そして東福寺と建仁寺がこれに含まれていたようだ。
室町幕府を開いた足利尊氏は、康永4年(1345)に天龍寺で後醍醐天皇七回忌を執り行っている。後醍醐天皇の菩提を弔うためにも、大覚寺統の亀山殿を改めた天龍寺を五山に加えることが必要とされた。これに応えるように北朝は暦応4年(1341)に院宣を出し、足利尊氏に五山の決定を一任している。翌暦応5年(1342)に第一位に南禅寺・建長寺、第二位に天龍寺・円覚寺、第三位に寿福寺、第四位に建仁寺、第五位に東福寺、そして准五山として浄智寺を選定した。この時、未だ京都と鎌倉には分かれていなかった。しかし、これ以降五山の決定と住持の任命は足利幕府将軍の専権事項となった。
延文3年(1358)に2代将軍足利義詮が改訂し、浄智寺を第五位に昇格させている。そして同じく第五位に鎌倉の浄妙寺、京都の万寿寺を加えたことで、京都と鎌倉からそれぞれ5寺ずつが五山に選ばれる型を作り出した。その後、3代将軍足利義満の時代に一事的に臨川寺が五山に加えたが、早くも康暦元年(1379)には元に戻されている。
この五山以下の寺格の設定と共に、官寺の統制機関の設定と住持両班からなる寺内監理組織の体系化が行われた。そして五山寺院内に塔頭を造ることについても幕府によって規制されていた。暦応3年(1340)11月に足利直義によって定められた円覚寺規式には、新たな塔頭を設立する際には関東にある幕府の出先機関を通じて京都の将軍に訴えることを規定している。つまり将軍の許可を得られなければ塔頭造立の工事をしていけないということである。
相国寺を建立した足利義満は至徳3年(1386)に義堂周信・絶海中津らの意見を容れる形で五山制度の改革を行っている。南禅寺を「五山の上」として全ての禅林の最高位とし、自らが建立した足利幕府の菩提寺・相国寺を「五山」に入れている。そして五山を京都五山と鎌倉五山に分割している。再び応永8年(1401)に義満は第1位の天龍寺と第3位の相国寺の順位を入れ替えている。これは明徳3年(1392)に結ばれた明徳の和約による南北朝合一が影響しているのかも知れない。なお、京都五山・鎌倉五山はこの格式で固定し現在に至っている。五山に次ぐ格式は十刹であり、当初は全国で十ヶ寺であった。上記の至徳3年の五山制度改革に伴い、京都と関東にそれぞれ十ヶ寺が選定されている。その後、全国の寺院が十刹(準十刹)に列せられるようになり、延徳2年(1490)には46ヶ寺になっていた。さらに下位の諸山は、為政者側からは恩賞として、寺側にとっても栄誉を得るためとして増え続け、江戸時代初期には230という数になっていたようだ。
上記のような五山制度に倣って、京都と鎌倉の尼寺各5ヶ寺が定められている。京都尼五山は景愛寺、護念寺、檀林寺、恵林寺、通玄寺。鎌倉尼五山は太平寺、東慶寺、国恩寺、護法寺、禅明寺であった。尼五山も五山同様、その起源は明らかではない。荒川玲子氏は「景愛寺の沿革 ―尼五山研究の一齣―」(「書陵部紀要 通号28」(宮内庁書陵部編1976年刊)で下記のように記している。
室町幕府が五山十刹を制定したのは興国三(1342)年で、それ以前に尼五山が制定されたとは考えられない。又、通玄寺は四辻宮尊雅王王女智泉が天授六年改装したもの。護念寺は貞和二年能登守藤原利顕によって創建され、檀林寺は檀林皇后橘嘉智子の開創と伝える。恵林寺の成立は不明であるが、以上の点より考えて、尼五山の制定は天授六年以後である。
景愛寺の創建時期を寺伝にある弘安8年(1285)に限定せず、本論文中では永仁元年(1293)頃に創建された可能性も考えている。いずれにしても最も遅い通玄寺創建以降に制定されたと考えるならば、天授6年(1380)以降ということとなるが、義満による五山制度の改革より前になってしまう。五山が京都と鎌倉に分かれたのが至徳3年(1386)であるから、尼五山が京都と鎌倉に設けられたのであるなら天授6年より更に後の時代ではないかと思われる。
尼五山は皇室や摂関家や有力公家あるいは足利将軍家の子女達を住持として受け入れていた。しかし応仁の乱と共に衰退が始まり、現存する寺院は京都尼五山で京都市上京区南佐竹町の護念寺、鎌倉尼五山も東慶寺のみである。しかも現在では両寺ともに尼寺ではなくなっている。
宝鏡寺は大聖寺とともに京都尼五山第一位の景愛寺の子院である。
「京都・山城寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)によれば、景愛寺は現在の上京区西五辻東町すなわち千本今出川あるいは般舟院陵の北にあったとしている。同書では「応仁記」の「五辻ニ景愛寺」という記述とともに、中昔京師地図の大報恩寺の南西に描かれた「景愛寺地」を根拠としてあげている。これに対して高橋康夫氏は「京都中世都市史研究」(思文閣出版 1983年刊)で、景愛寺は五辻大宮にあったとしている。同書は平安京造立後から始まった北辺の開発について述べた著書で、12世紀以降の平安京北辺の変容についても記している。景愛寺の成立については、五辻北の東西32.5丈、南北43丈の敷地が理宝から如大に施入されたことが「宝鏡寺文書」に記されている。理宝とは後深草・亀山両天皇の祖母にあたる藤原貞子であり、如大が尼寺を建立するために用立てたものである。これを高橋氏は「五辻大宮北西角の敷地」とし、景愛寺は「世尊寺もしくは五辻齋院御所(五辻殿)と合致する」と述べている。この地は「京都・山城寺院神社大事典」の西五辻東町とは異なり、五辻町の一部に当たる。ちなみに五辻殿は「五辻南・大宮西・櫛笥東」(藤原長兼「三長記」)に造られた後鳥羽上皇の院御所で、元久元年(1204)から使用された邸宅である。「櫛笥東」とは平安京の櫛笥小路で壬生大路と大宮大路の間の小路である。かつての壬生大路を北辺まで延長すると現在の智恵光院通辺りになる。そしてその東側に櫛笥小路があったことになる。
現在、五辻通千本東入北側に五辻殿址の石碑と京都市の駒札が建てられている。これを根拠に景愛寺が西五辻東町にあったと考えるのは少し難しい。この大正5年(1916)に京都市教育会建立の石碑は、最初五辻通浄福寺西入南側の五辻殿推定地に建てられていた。後に嘉楽中学校を経て1999年に現在地に移された経緯がある。つまり五辻殿址の石碑は西五辻東町ではなく、その東隣の一色町に建てられたものであり、次第に西へ西へと移されている。従って現在の石碑の場所にかつての五辻殿や世尊寺そして景愛寺があった訳ではなさそうである。 京都市埋蔵文化財研究所の公式HPに掲載されている各区の遺跡(文化財保護課)を見ると、この地には平親信が寛仁元年(1017)以前に建立した尊重寺と藤原行成が長保3年(1001)に建立した世尊寺の2つの寺院があったことが分る。高橋氏によれば、景愛寺は尊重寺ではなく、東の世尊寺の範囲にあったことになる。
五辻大宮は平安京に接する地であるものの条坊の外側にあったことにより、この地の当時の様子をイメージすることはなかなか難しい。現在、京都アスニーで展示されている平安京の1000分の1の復元模型は、平安建都1200年記念事業の一環として平成6年(1994)に作成されている。特に京城外の自然及びその都市化の過程の復元に最新の研究成果が表現されている。模型作成の記録化として纏められた「よみがえる平安京」(淡交社 1965年刊)に、この北辺の地の説明を見ることが出来る。「69 平安京の北郊」には下記のような記述がある。
69 平安京の北郊
平安京に隣接する京郊のうちでも、北郊はやや異なった趣を呈していた。もともと大内裏とその周辺の官衙のすぐ北側に接しており、桃園などがあった。加えて、北野は天神・雷公を祀る場であったし、北辺の一条大路は賀茂祭の行列は行き、見物の桟敷が設けられる場所であった。北郊は、比較的早くから市街地に組み込まれつつあった。
また「150 船岡山東南の寺々」では尊重寺、斎院とともに世尊寺の様子が復元されている。そして世尊寺の東側に見える堂宇が、あるいは景愛寺であるのかも知れない。雲林院、斎院、尊重寺、世尊寺そして実相寺や妙覚寺もその周りを樹木や開墾地に囲まれている点でも京城内の公家の邸宅とは大いに景観が異なっている。
景愛寺の開基は無外如大。如大は鎌倉中期の臨済宗最初の尼僧とされている。後の時代に色々な伝説や伝承が混淆したため、どこまでが如大自身の事跡か判別することが困難になっている。このことについて、山家浩樹氏が「無外如大と無着」(金沢文庫研究 通号 301 1998年刊)や「無外如大伝と千代野伝説の交流 」(古代中世日本の内なる「禅」(勉誠出版編 2011年刊))で詳しく解説している。その全てをここで書くと紙数が尽きるので、如大の事跡を明らかにするのは別の機会にする。
前述の荒川玲子氏の「景愛寺の沿革」では如大の事跡を宝鏡寺が所蔵する「尼五山景愛寺伝系西山宝鏡寺逓系譜事蹟」を下記のようにまとめている。
(一) 開基無外如大は別号無着、幼名を千代野、長じて賢子と称した。秋田城介安達泰盛の女で、金沢顕時の後室である。その娘は、足利尊氏の父である貞氏に嫁した。
(二) 如大は、夫を失った後、出家して仏光国師の門に入り、上洛して洛北松木島に資寿院を営んだ。
(三) 弘安八(1285)年、如大は仏光国師の命をうけて五辻大宮に景愛寺を創建した。寺号は、仏光国師により「景二仰シテ仏姉母大愛道一ヲ」を由来として命名された。
(四) 上杉・二階堂等の諸大名が檀徒となった。寺地は北山准后藤原貞子の寄進である。
(五) 同年(弘安八年)後宇多天皇は特に叡命を下されて、景愛寺を以て京兆尼五山の甲位となし、紫衣を勅許された。
(六) 如大は永仁六(1192)年十一月二十八日入寂した。歳は七十六であった。
(七) 如大が寂して二百年後、堂宇は兵火に罹って焼亡し、その後、再建されなかった。
(八) しかし、如大派の法系と、景愛寺が尼五山の甲刹である称目は、宝鏡・大聖両寺の住職が交互に朝廷より拝命して相続していった。
以上のことから無外如大の経歴と景愛寺の創設の経緯、そして宝鏡寺及び大聖寺との関係が良く伝わってくる。荒川氏は「景愛寺の沿革」の巻頭で「尼寺の本体は、寺ではなく、寺主であると云われる。」と記している。男僧にとって入寺はその法燈を継承することであるが、尼僧にとっての尼寺は出家した女人の居住所という意味合いが強い。そのため寺号が尼寺の存在する地名にまつわるものが多いと指摘している。そしてこの違いが、尼寺の寺主が不在になると廃絶してしまう可能性に結び付いている。そのような中で明応7年(1498)に堂宇を焼失した後も、再建されることのなかった景愛寺の住持職を大聖寺と宝鏡寺によって相承されていった。塔頭の院主が交代で本寺に入り法燈を守るということは他の4山に見られない本来の禅宗寺院の在り方を示している。
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