南千住 小塚原 その2
南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)その2 2018年8月12日訪問
南千住 小塚原では、早々からコツ通りに引っかかってしまった。ここからは小塚原に刑場ができるまでの経緯から書き始める。
千住大橋の南側、小塚原町に御仕置場が創設されたのは寛文7年(1667)とされている。黄木土也氏の「小塚原刑場史 その成立から刑場大供養まで」(新風舎 2006年刊)によれば、もともと徳川家康入府前の江戸には本町四丁目に刑場があった。この本町四丁目とは、現在の日本橋本町二丁目から三丁目、すなわちコレド室町の東側で福徳神社を含む現在再開発が行われている地域で東京でも最も賑やかな街の一つである。その当時、江戸を統治していたのは後北条氏であった。戦国時代後期から関東に大きな勢力を築いていた後北条氏が、江戸城を始め河越城、岩付城、鉢形城、滝山城、小机城などに軍事拠点を置いていた。しかし天正18年(1590)の小田原征伐に敗れると、同年8月に豊臣秀吉の命により徳川家康が駿府より江戸に入府している。家康は本材木町五丁目(現在の中央区室町一~三丁目あたり)と浅草鳥越橋(台東区鳥越)に刑場を設けたが、急激な市街地開発に伴い、新設した刑場の移転を余儀なくされた。本材木町五丁目の刑場は鈴ヶ森に、そして鳥越の刑場は浅草聖天町(現在の台東区浅草七丁目)西方寺前を経て小塚原に移されたとされている。ただし黄木氏は同書の中で、鳥越が刑場として使われていたと確認できるのが寛文6年(1666)まで、そして翌7年(1667)に回向院が小塚原に寺地を拝領しているので、聖天町刑場の存在自体を疑問視している。このように鳥越、聖天町そして小塚原の刑場の成立時期を明確でないにのは、これらの刑場が公記録上全て浅草と表記されたことにあるようだ。
江戸以前にあった本町刑場が、鳥越を経由して小塚原に、そして本材木町を経て鈴ヶ森に移された背景には、急速過ぎる江戸の都市化があった。小塚原に刑場が設置される7年前の万治3年(1660)に墨田川北岸の千住は南岸の小塚原町を加え、宿場町としての機能を拡張している。つまり南の鈴ヶ森刑場が東海道沿いの品川区南大井の品川宿、西の大和田刑場が八王子市大和田町と同じく奥州街道と日光街道の最初の宿場町である千住にも小塚原刑場が併設されたのである。
小塚原の仕置場は間口60間(108m)、奥行30間余(54m)程で、磔刑・火刑・梟首(獄門)が執行されていた。しかしそれ以外にも牢死や行き倒れなどの埋葬地でもあり、なんと徳川家の馬もこの地で葬られていた。さらに人間の死体を使用した刀の試し斬りや腑分けも小伝馬町牢屋敷と共に小塚原刑場で行われてきた。回向院に観臓記念碑が残されているのも、明和8年(1771)3月4日に杉田玄白、前野良沢、中川淳庵等がこの地で行われた腑分に立ち会ったことに依っている。
小塚原刑場が千住宿の旧日光街道に面して設けられた理由は、罪人への仕置きを多くの市民に見せるためであり。つまり人通りの多い場所に獄門台を置く必要があった。「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)は、「生命を奪うだけでなく、死体を人びとの目の前にさらし、見せしめとするとともに、刑死者を辱めることを目的としていた。」と記している。
江戸の中心部から小塚原に至る情景を現在の風景から想像することは難しい。かつての日光街道は現在の東京都道464号言問橋南千住線にあたる。言問橋から千住大橋までほぼ3kmの直線状に続く部分が小塚原縄手と呼ばれていた。当時、浅草山谷を出ると人家が絶えたとされていたので、江戸郊外の田園風景の中を真っ直ぐな道が千住宿を目指して伸びていた。日光街道が石神井用水の分流である思川と交差する地点に、泪橋という名の橋が架けられている。ここまでくると小塚原刑場は目と鼻の先である。現在のJR常磐線、東京メトロ日比谷線そしてつくばエクスプレスの高架の下を潜ると目の前に南千住 回向院の現代的な建物が目に入ってくる。かつての刑場は日光街道の西側にあり、上記のように間口60間、奥行30間余ということは、現在の回向院を北東隅とするならば都営南千住二丁目アパートあたりまでの間に存在していたと考えられる。
さらに日光街道を北に進み千住大橋で隅田川を渡ると千住宿の中心部分に達する。本陣は現在のJR常磐線北千住駅の西口にあることからも分るように、千住一丁目から五丁目までの隅田川北岸がもともとの中心地であった。上記のように万治3年(1660)に小塚原町が千住宿に組み込まれているが、これは町が発展し南に拡張したことによるもので、その最南端に刑場が設けられたという訳である。
回向院は浄土宗の寺院で山号を豊国山と称す。同寺の「史蹟 小塚原回向院 縁起(http://ekoin.fusow.net/303.html : リンク先が無くなりました )」によれば、寛文7年(1667)に本所回向院の住職弟誉義観上人が常行堂を創建したことに始まる。元々、本所回向院は万治年間(1658~61)頃より町奉行の下命で牢死者や行倒人などの埋葬を行ってきたため、境内が手狭になっていた。その打開策として新たな埋葬地をと分院の設立を願い出たということらしい。町奉行所は仕置場内に寺地を与えたので、回向院の元となる常行堂は刑場の中にあった。 これは、前述の「橋本左内と小塚原の仕置場」に掲載されている「浅草御仕置場絵図」によって確認できる。御仕置場の北東隅に「回向院下屋敷 庵主地所」と記されており、この時代の回向院の地所が間口11間、奥行27間程であったことも分る。また、回向院の裏手には「御自分仕置 腑分稽古様場所」という記述が見える。「御自分仕置」とは、諸藩の江戸藩邸内の家人から犯罪者を出した際の死罪執行場所である。藩邸内には牢屋はあっても仕置きを行う場所がないため、公儀の鈴ヶ森か小塚原の仕置場を拝借することとなる。ただ手続きが面倒であったため、牢屋内で毒を盛ってしまうことも多かったようだ。「腑分稽古様」は解剖や試し斬りが行われた場所である。
回向院の南には稲荷宮と小屋が建てられていた。小屋は非人小屋とも呼ばれ、仕置場固有の施設ではなかったようだ。非人小屋は寺社地や河岸地などを中心に寛政12年(1800)頃には江戸市中に720軒余が存在していた。非人小屋には小屋頭がおり、総勢3000人もの抱非人がいたとされている。小屋頭は非人頭の配下にあり、非人頭は弾左衛門の支配を受けていた。つまり、弾左衛門→非人頭→小屋頭→非人という支配階層が存在していた。非人身分の者は、いわれない差別を受け公的には生産活動には従事出来なかった。そのため町方を勧進廻り、銭や米などを貰い請けていたが、この廻る範囲は小屋頭毎に排他的な独占があった。つまり、この権利に対して、行刑役や掃除役などの公的な役割が与えられていた。小塚原の小屋頭・市兵衛は凡そ380軒の小屋頭を配下に置く非人頭・車善七の支配下にあった。市兵衛は回向院がこの地に移転する前から所在しており、回向院が下屋敷を建設する際に南に移ったと、亀川泰照氏は「橋本左内と小塚原の仕置場」で説明している。さらに市兵衛達が回向院に属するようになると、磔や火罪のための道具の設置から執行にあたっての雑務、仕置場へ運び込まれる死体の移動から埋葬まで、刀の試し斬りのための手伝い、腑分けのための会場設営、自分仕置の際の雑務と、小塚原刑場の労働力全般を小屋頭の市兵衛と配下の抱非人が担うようになっていった。そして実費と手当てを受取り収入としていた。
一般的に非人の職掌は斃牛馬の処理、皮革加工、太鼓や武具など革製品の製造販売、町や村の警備や警察、祭礼などでの「清め」役、各種芸能など勧進、山林や狩猟場そして水番などの番仕事、草履作りとその販売、灯心・筬など各種の専売権の管理・行使などであった。江戸及び関八州の非人頭を支配していた弾左衛門の屋敷は山谷堀の今戸橋と三谷橋の間にあった。現在の東京都立浅草高等学校(現在の台東区今戸一丁目)の運動場あたりである。屋敷一帯は、浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれる広い区画であった。
話を再び刑場の構成に戻す。小屋地の南側、すなわち刑場の中央には敷地東西に渡る下水場があり、その南側が刑の執行と「取捨」とされた遺骸を埋葬する場所であった。「浅草御仕置場絵図」によれば、奥行き30間(55m)の内、番小屋は街道から2間(3.6m)、火罪・磔は22間(40m)、そして獄門台は9間(16m)とある。ただし説明文で獄門台は9尺(2.7m)の誤りと訂正している。確かに9間では、その表情までは見取ることができなかったであろう。
「南千住 小塚原 その2」 の地図
南千住 小塚原 その2 のMarker List
No. | 名称 | 緯度 | 経度 |
---|---|---|---|
01 | 泪橋 | 35.729 | 139.7994 |
02 | 延命寺 | 35.7316 | 139.7978 |
03 | 回向院 | 35.7322 | 139.7978 |
04 | 円通寺 | 35.734 | 139.7928 |
05 | 素戔雄神社 | 35.7371 | 139.796 |
06 | 荒川ふるさと文化館 | 35.7375 | 139.7954 |
07 | 千住大橋 | 35.7393 | 139.7973 |
08 | 千住宿 | 35.7505 | 139.8028 |
09 | 奥の細道矢立初めの地 荒川区 | 35.7331 | 139.7985 |
10 | 奥の細道矢立初めの地 足立区 | 35.7412 | 139.7985 |
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