文書と写真・地図による「記憶」の再現

南千住 小塚原 その3



南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)その3 2018年8月12日訪問

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南千住 小塚原 日光街道

 南千住 小塚原 その2では、小塚原に刑場ができた経緯から、その構成について書いてきた。この項では江戸時代に行われた刑罰の説明、処刑の準備から実施そしてその後にある遺骸処理作業について見て行く。

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南千住 小塚原 日光街道
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南千住 小塚原 奥の細道 矢立初の芭蕉像 足立区
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南千住 小塚原 松尾芭蕉像 荒川区

 刑場で執行される刑罰を説明する前に、徳川幕府の刑法の在り方を理解しておく必要がある。江戸時代初期の刑罰には、戦国時代の残酷刑の影響が強く残っていた。つまり見せしめを狙った威嚇的で弾圧的なものが多かった。さらに刑法は奉行の裁断一つに任すという不文法主義を採用していた。過去の判例から刑罰を決めるのではなく、判例のない事案にも対処できる能力を持った裁断者を登用するという考えであった。しかし江戸中期になると事案が多様複雑化し、流石に法典編纂を行わなければ対処できなくなる。この時、処刑方法も併せて整備されている。幕府の正刑は敲(たたき)、追放、遠島、死刑に大別される。さらに死刑には下手人・死罪、斬罪、火罪、獄門、磔、鋸挽がある。現在では下手人を犯罪者として使用しているが、当時は斬首により殺害する刑の名称であった。下手人・死罪は小伝馬町牢屋敷内の首斬場で斬首されることでは同じだが、下手人に対しては付加的な刑罰を科されないため、「取片付」という扱いになる。これは「死骸片付御証文」を以って小塚原回向院に遣わされ、回向院は「死骸受取帳」に氏名を記載し受取印を押す。そして埋葬の際、名前札を建てることが許される。これに対して死罪には家財没収、試し斬りや腑分けなどが伴い死体は「小塚原非人小屋頭市兵衛」へ遣わせ「取捨」という扱いになる。市兵衛は受け取りの際に帳面に記載し受取印を押すが、死体には土をかけるのみで名前札は建てない。そのため遺骨はどこの誰のものか分らなくなるという大きな差があった。下手人・死罪はともに庶民への刑罰であり、武士の場合は斬罪となり刑場での公開処刑となる。また死刑の最上位にある鋸挽は日本橋南詰の晒し場での刑罰であったが、江戸中期以降執行されることはなく、3日間の晒しの後、市中引き回しを行った上で磔刑に処せられた。

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南千住 小塚原 泪橋
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南千住 小塚原 泪橋
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南千住 小塚原 泪橋 駒札

 前述の「小塚原刑場史」では、事前の準備作業から移送、そして刑の執行までを詳しく説明している。刑の執行が決まると町奉行所は市街地外の幕府領を管轄している勘定奉行所へ報告、小塚原の回向院に通達する。執行数日前に弾左衛門の手代が現地での確認を行い、刑吏の人選や入用品の手配を行ったと思われる。江戸中期以降の入用品については、弾左衛門方よりの定額での納品、さらに刑吏への出役給金も弾左衛門方の自弁となる。つまり刑の執行に関する業務は、町奉行所から弾左衛門へ委託される独占的専業であった。
小塚原と鈴ヶ森のどちらの刑場で執行されるかは、街道を往来する同郷者や犯罪を起こした地区の目に付く確率の高い方を選んだとされている。つまり西国出身ならば鈴ヶ森、城北地域で盗みを行ったなら小塚原ということである。
 小伝馬町牢獄から刑場へ送るため、罪人は時代劇で見るような捕縛姿で馬に乗せられる。牢獄裏門を出た行列は六尺棒を持った非人2人を先頭として捨て札を持つ白衣姿の非人1人、抜身の朱塗り2本が続き、罪人と馬口取非人が介添共に3人、捕物道具持ち、与力、検使正副の騎馬2人、更に槍持ち、挟箱持ち、同心4人、弾左衛門手代、棒突6人、非人頭車善七手代とその他下働きの非人6人が同行した。
 小伝馬町から出た囚人は、馬喰町、浅草橋、蔵前、浅草を経て言問橋から現在の東京都道464号言問橋南千住線を北に進む。刑場の凡そ400メートル手前、明治通りとの交差点で泪橋という地名に出会う。石神井用水が三ノ輪で分流し、吉原方面に流れたのが山谷掘で明治通りに沿って白髭橋で隅田川に合流したのが思川であった。日光街道が思川と交わるところに掛けられた橋が泪橋と呼ばれている。既に思川は暗渠となっているので橋の姿を見ることが出来ない。しかし、かつての地名と共に荒川区教育委員会の駒札が残されている。「橋名の由来は、小塚原の御仕置場に赴く囚人たちが現世を去るに際して涙を流しながら渡ったとも。囚人の知人が今生の別れを惜しんで袖を濡らしたかからだとも伝える。」とある。かつて「あしたのジョー」の舞台であったと謂う方が有名かもしれない。なお同名の橋は鈴ヶ森にも存在する。

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南千住 小塚原 泪橋から回向院へ
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南千住 小塚原 延命寺 題目塔と首切地蔵
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南千住 小塚原 延命寺 首切地蔵

 泪橋を渡りさらに日光街道を進むとJRと東京メトロの高架が現れる。この2つの高架に挟まれた三角形の敷地に延命寺、首切地蔵そして「南無妙法蓮華経」の題目塔が残されている。延命寺は浄土宗の寺院で豊国山と号す。昭和57年(1983)に回向院から分院独立した寺院である。現在はJRの高架の北側が回向院の墓地、南側が延命寺の墓地となっている。この延命寺には元禄11年(1698)に寄進され慶応3年(1867)に再建された題目塔がある。貞享、元禄、安永、正徳(1684~1716)の頃、京都の熱心な法華経信者である谷口一族が全国の刑場や主要街道の分岐点に題目塔を建立している。この小塚原の題目塔もその一つと考えられている。この題目塔の右手には27個の花崗岩を寄せ石して造られた円頂半跏趺坐姿、すなわち片足を腿の上に組んで座る延命地蔵尊がある。発願者7名の氏名と共に、「天下泰平 奉納経 国土安穏 御免 寛保元年八月日」とあるので寛保元年(1741)造立であることが分る。この地蔵は小塚原の風景を描いた絵図等には必ず現れることから、小塚原刑場をイメージするシンボルとなっている。2011年の東日本大震災で被災したが、寄付金を募って現在では修復されている。

 刑場で執行される刑は斬罪、火罪、獄門、磔の4つであるが、獄門は死罪の中でも悪質な場合の付加刑であるので、実質は斬罪、火罪、磔の3種類となる。
 斬罪は武士に対する刑罰で、火付、盗賊、殺人などの武士道に反した重罪犯と国事犯が対象となった。刑場にては目隠し紙を用いず、衣類も麻上下を著し、羽かい縄にて縛ったままで行われた。なお刑場への移送についても、御目付が引き立てて駕籠に乗せ、御徒士目付、御小人目付、町方与力、牢屋同心が付き添い、駆け足で刑場に向かった。これを追っ立てと称し、同士徒党などに対する警戒から行われた。執行後の遺骸は親族に下付されたが、自家の菩提寺への埋葬はできず、回向院に埋めて石碑を建てることとはできた。また賄賂を使い菩提寺に埋葬した場合でも石碑の建立はできなかった。なお幕末になると、斬罪の行刑場所は小伝馬町牢獄内で多く行われた。これは移送中の襲撃を恐れてのことであろう。安政の大獄で死刑に処された吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎、鵜飼吉左衛門、鵜飼幸吉、茅根伊予之介、飯泉喜内の7名は、何れも小伝馬町牢獄で斬首となり小塚原の回向院に送られている。なお鵜飼幸吉だけは獄門であったため、小塚原刑場で3日間の梟首となった。
 火罪は放火犯に対する同害報復刑であった。罪木に縛り付け、枝木を股の辺りまで積み、そこから上は茅で覆うため、外部からは罪人の姿は見えなくなる。刑場で炊かれた篝火から、刑吏が代わる代わる罪人を覆っている茅に火を移していく。罪木に縛り付ける際に縄が焼け切れないように土を塗っておくことがコツであった。
 磔刑は主殺し、親殺し、謀反罪、関所破りに対する刑罰であった。女性は磔柱にT字形に縛られたが、男性は両手両足を開いた大の字形に縛られた。つまり男性用の磔柱は十字形ではなく、キ字形であった。長い柄の槍を持った非人が、胴から反対の肩に向かい槍を刺し抜く。槍の柄を伝い罪人の地が流れ落ちるため、柱にかける際に首縄を強く締めて絶息状態にして執行していたようだ。
 死刑対象者の中でも悪質な場合は獄門となる。小伝馬町牢内の斬場で斬首された場合、首だけを青竹に刺し貫いた首俵に入れて刑場まで運んだ。恐らく前後2人の非人が青竹を肩に担いで運んだのであろう。獄門台は門方をした台の中央に立てられた逆釘2本に首を刺し置き、首の斬り口廻りを土で固めて固定した。傍らには槍や捕具の三連具と罪状を記した捨て札が立てられた。二泊三日の間、火を炊いて番小屋が管理する。事後、首は取捨てとなるが、捨て札は30日間立て置かれる。なお小塚原の獄門は文化3年(1806)から一首一台となっている。

 刑執行後の遺骸の処理については、上記の「取片付」と「取捨」の2つに分けられた。「取片付」と「取捨」では扱いが大きく異なる。「取片付」は深く埋めて墓印を建てることもできたが、「取捨」は土を上から被せる程度であった。なお処刑以前に牢獄で死亡した場合、死罪・遠島の判決が下った者については「取捨」、下手人・重追放以下の者については「取片付」と明和9年(1772)に定まっている。

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南千住 小塚原 火葬時あたりか
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南千住 小塚原 火葬時あたりか

 小塚原刑場とは直接関係はないが、回向院の分院が創建されたのと同じ寛文7年(1667)(「東京都の地名 日本歴史地名大系13」(平凡社 2002年刊)による)、小塚原町に火葬寺が作られている。元々は正保から慶安(1644~52)の頃より浅草から下谷にかけてに造られた寺院には龕堂があり、各寺院で火葬を行っていた。ところが将軍の東叡山(寛永寺)参詣の際に臭気が山内に立ち込めたため、北の小塚原に火葬場を移転させることとなった。日光街道と下谷通りの合流点から回向院の間、台東区立第二瑞光小学校の東側、千住間道の南側の一町(109メートル)四方が移設先となった。周囲には掘が巡らされ、敷地内は東西路により南北に分かれていた。北に八ヶ寺、南に十ヶ寺の火葬寺が並んだ。これにより小塚原は、桐ヶ谷(品川区)、千駄木、渋谷、炮録新田(江東区)と並ぶ江戸の北の一大葬祭場となった。しかし昼間に火葬を行うことは禁じられていたようで、日没に晩鐘をついて知らせた後に行っていた。そのため、火葬寺、火屋、橋場の焼場や橋場の龕堂とも呼ばれた。
明治6年(1873)一旦は火葬が禁止となるが、同8年(1875)に共同火葬場として解禁される。同20年(1887)日暮里に移転したが、再び明治37年(1904)に町屋斎場が完成している。もともと千住より市中に近い日暮里に火葬場を移すことに無理があったのである。

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南千住 小塚原 延命寺 題目塔

「南千住 小塚原 その3」 の地図


大きな地図



南千住 小塚原 その3 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01   泪橋 35.729 139.7994
02   延命寺 35.7316 139.7978
03   回向院 35.7322 139.7978
04   円通寺 35.734 139.7928
05   素戔雄神社 35.7371 139.796
06   荒川ふるさと文化館 35.7375 139.7954
07   千住大橋 35.7393 139.7973
08   千住宿 35.7505 139.8028
09   奥の細道矢立初めの地 荒川区 35.7331 139.7985
10   奥の細道矢立初めの地 足立区 35.7412 139.7985
    

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