文書と写真・地図による「記憶」の再現

南千住 小塚原 その4



南千住 小塚原(みなみせんじゅ こづかはら)その4 2018年8月12日訪問

画像
南千住 小塚原 回向院

 南千住 小塚原 その3では、江戸時代に行われた刑罰の説明、処刑の準備から実施、遺骸の処理作業の説明、そして刑場とは関係ないものの同時代に作られた小塚原の火葬寺について記した。この最後の項では明治時代を迎えた小塚原の変遷とこの地に埋葬された人々の数について書いていくつもりである。
 慶応4年(1868)4月11日、徳川慶喜が水戸へ退去し、江戸が無血開城する。将軍警護のために結成した彰義隊は、慶喜のいない上野の山に駐屯を続ける。大總督府は江戸からの旧幕府勢力の一掃を目指し、同年5月14日輪王寺宮公現親王に東叡山に籠る賊の討伐を告げる。翌15日の朝から始まった新政府軍の攻撃により上野戦争が開戦する。戦前には新政府軍兵士に対する殺傷行為を繰り返してきた彰義隊も一旦戦端が開くと戦線離脱者を多発し一日で勝敗が決してしまう。敗北した彰義隊隊士の遺骸は山内に散乱していた。小塚原 円通寺の佛磨和尚が山内で荼毘に付し、円通寺に埋葬している。円通寺の公式HPに掲載されている円通寺の由緒によれば、266体の遺骸が荼毘に付され埋葬されている。これらは当日戦死者であっただろう。山崎有信著「彰義隊戦史」(隆文館 1904年刊)には氏名の判別している彰義隊の戦死者の名簿を掲載し、その総数を205名としている。また、町田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)の彰義隊の項によれば上野山で戦死した者が233名、その内で円通寺に墓があるものの数が137名(+他日死亡で円通寺に葬られた者が7名)となっている。町田氏は「彰義隊戦史」を参照した上で当日戦死者を233名としている。これは参考文献一覧に「彰義隊戦史」が掲載されていることからも明らかである。荼毘に付された266体と両書に記された数字との差分は氏名不明の者と考えるべきだろうかという疑問は残る。なお山崎有信は荼毘に立ち会った大井清太郎という人物の証言を記述している。佛磨和尚が上野山で火葬したのは、戦争が済んでから僅か3日位経ってからであった。

其の時は死体がまだ其処此処に御座いました。而して幾つ死骸が在つたか覚えませんが、随分沢山ありました。けれどもなかく一日でみな焼くことは出来ません。まづ其の内の幾部を焼きまして、その幾部分の骨を円通寺に持て帰りました。其の外の死骸の幾部分は山王台の塵溜の穴へ入れて仕舞ひました。

 これは現在の西郷隆盛像の後部にある彰義隊墓碑の場所だとされている。200を越える死体をたった1日で焼却することは現実的でないことは明らかである。恐らく大部分の遺骸は上野の山に埋葬されたのであろう。
「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)に掲載されている年表には、「後、牢死した彰義隊ら旧幕府方の人びとが小塚原回向院に埋葬される。」とある。上野戦争後に捕縛された彰義隊頭取並の天野八郎は、同年11月8日に獄死している。山崎有信著「天野八郎小伝」(山崎有信 1918年刊)によれば、天野の遺体は旧幕時代からの決まりにより回向院下屋敷に下されている。その際、湯島天神社内の小川屋喜太郎という人物が義金を投じたことにより、回向院の地所を借り受けて埋葬することができたとしている。さらに元隊士で生き残った小川與郷と石川善一郎が木牌を建てたことにより、天野の埋葬地を判別できるようになっていた。明治4年(1871)には同志が相図り天野の埋葬地に石碑を建てている。そして明治23年(1890)11月に回向院から円通寺に改装するとともに新たな石碑を建立している。それが円通寺に現在も残る天野君八郎碑である。このように上野戦争後に捕縛され獄中で死亡したことにより回向院に埋葬された者が、天野八郎以外にも存在する可能性は残されている。

画像
南千住 小塚原 円通寺
画像
南千住 小塚原 円通寺 黒門
画像
南千住 小塚原 円通寺 彰義隊士の墓

 この上野戦争終結直後の5月19日、新政府は江戸に鎮台を置き管下に社寺・市政・民政の三裁判所を設け、東征大總督府有栖川宮熾仁親王を江戸鎮台に任命している。つまり旧幕府の司法・警察機関であった寺社奉行を社寺裁判所、町奉行を市政裁判所にそして勘定奉行を民政裁判所に接収している。つまり新たな三裁判所が旧幕府の下部組織を吸収することで行政を継続させたこととなる。そして同月24日に参謀・烏丸光徳を江戸府知事に任命している。
 上野戦争後すぐに設置した江戸鎮台も同年7月17日に廃止している。この日、江戸を東京と為す詔勅が発せられたためである。これを以て江戸は東京府となった。鎮台府を廃し駿河以東十三か国を管理する鎮将府を設け、三條実美輔相が鎮将を兼任している。この時、社寺裁判所が廃止されている。そして8月に民政裁判所が会計局に、9月には市政裁判所を東京府に吸収させている。つまり5月19日に行われた三奉行から三裁判所への変更から4か月で、それぞれの機能は新たな組織の中に組み込まれていった。

 このような組織の変更に伴い、刑罰自体の見直しも始められた。明治元年(1868)10月晦日に暫定的な刑法として「仮刑律」を宣示している。「刑罰ハ兆民生死ノ所係」であり、早急に制定しなければならない。従って「新律御布告迄ハ故幕府へ御委任之刑律ニ仍リ」とあり、幕府の刑法を適用することを明らかにしている。さらに刑罰の規定を示している。

・磔刑については、「君夫ヲ殺スル大逆ニ限リ」適用する。
・「其他重罪及焚刑ハ梟首ニ換」える。
・「追放所払」は、徒刑に換える。
・流刑は蝦夷地(北海道)に限る。ただし、その制度が決まるまでは旧慣による。
・盗みについては、100両以下ならば死罪にならない。
・死刑については、天皇の勅裁を仰ぐ。

画像
南千住 小塚原 延命寺 題目塔と首切地蔵
画像
南千住 小塚原 延命寺 首切地蔵
画像
南千住 小塚原 延命寺 題目塔

 政府は武家政権の行ってきた過酷な刑罰を緩和して寛刑を以て臨む旨を示している。そして獄門を梟首や梟示に、捨札を犯由牌と改称している。
 明治2年(1869)7月8日には引き回しや鋸挽の廃止、翌3年(1870)4月15日には様斬りや刑死体から臓器等を取り出して転売することも併せて禁止している。山田浅右衛門家は代々、山田丸・浅右衛門丸・人胆丸・仁胆・浅山丸などの名称で薬品として販売していたという事実も残っている。この4月の禁止令は山田家の収入を大きく損じることになっただろう。
 明治3年(1870)12月20日には、明治政府として初めての刑法典となる新律綱領が布告される。江戸幕府や中国の刑法典を基にした東洋法の継受であった。特に華族や士族に閏刑を認めるなど刑に身分的差別を設けるものであった。正刑として笞,杖,徒,流,死を規定し、磔刑を廃止している。また同月26日には梟示に該当する囚人が獄死した際、死後の梟示は行わず犯由牌のみを掲げるようになった。

 明治4年(1871)6月14日には、梟示刑となった場合は牢獄で斬首せずに刑場で執行するように刑部省通達で改められている。これにより首俵の行列を組んで刑場へ運ぶことが無くなったので、刑の執行を合理化したものであったのかもしれない。さらに同年7月2日には、梟示は小塚原のみで行うこととなった。これは鈴ヶ森刑場の廃場であった。南北2箇所で行うほど梟示刑が多くなかったのであろう。翌月8月24日には親族への遺骸の下付が許可されるようになった。ただし受取人がいない場合は東校解剖場に廻されることとなった。
 明治6年(1873)7月10日の改定律刑の施行に伴い、小塚原刑場の廃場が決定する。つまり斬首は全て監獄内で行われ、小塚原刑場は梟示するだけの場所となった。つまり小塚原で死刑が執行されることは無くなった。しかし200年以上に亘って堆積させてきた骨骸は地表まで充満していたため、東京府は骨骸を深く埋め直して囲い矢来を設ける工事を実施している。間口35間奥行30間の小塚原刑場は街道沿いの10間が梟場となり、その奥の20間は6尺の朝鮮矢来を巡らした屍埋場に変わった。明治8年(1875)5月28日、囚人は新築なった市ヶ谷監獄に移され、小伝馬町牢獄も廃されている。

 そして明治14年(1881)1月4日の太政官布告第1号で、ついに梟示刑が廃止される。つまり1000年近く続いた公開刑が無くなり、これ以降刑死者が一般の目に触れることも無くなった。これにより小塚原の役割は監獄埋葬地のみとなる。翌15年(1882)1月1日より新たな刑法が施行され、斬首がなくなり死刑は全て絞首刑となった。
明治21年(1988)4月には市ヶ谷監獄の刑死者埋葬場が雑司ヶ谷共葬墓地に移されたことにより、小塚原の旧刑場の土地改良が行われる。同4月26日、刑場鎮魂のための刑場供養会が盛大に挙行されている。施主である市ヶ谷監獄署長の祭文朗読から始まり、千人余りの僧侶による読経、刑法を起草したボアソナード博士の講演、吉原芸妓による総踊りに花火、最後に桟敷席から群集へ餅やパンなどの供物が撒かれた。
 供養会が行われた年に旧刑場の一部が日本鉄道土浦線の敷地になっている。明治29年(1896)土浦線・墨田川線が開業する。この工事のために出土した元梟示墓地及び元斃牛馬皮剥場墓地の改葬を行っている。この後から現在まで当該敷地で工事を行う際には人骨等が出土している。

画像
南千住 小塚原 延命寺の首切地蔵の修復
画像
南千住 小塚原 延命寺の首切地蔵の修復

 最後に江戸時代を通じてどの位の人々が小塚原で処刑されたか?この単純な質問に答えることは非常に難しい。黄木土也氏は著書「小塚原刑場史 その成立から刑場大供養まで」(新風舎 2006年刊)のあとがきで書いているように、インターネット上には「20万人の刑死者が埋葬されている」とか「小塚原で20万人が処刑された」という記述が見られる。南千住 小塚原から、南千住 小塚原 その3まで書いてきたように、ここに埋葬された人の全てがこの刑場で処刑された訳ではないし、埋葬者の中には獄死した者や行倒れや人足寄場での死亡者も含まれていた訳である。
 黄木氏はインターネット上に現れる20万人の出典を明治21年(1988)4月26日に行われた刑場供養会の際に誌された「千住小塚原旧死刑場略記」の中に求めている。

以来二百二十余年間、乃チ本年ニ至ル迄埋葬セシ人員ハ其確実ナルモノハ知ルニ由ナシトモ雖トモ、寛文宝永間ト維新以来ハ死刑者多カラス、正徳ヨリ慶応年間迄凡ソ百四五十年ハ毎年概ネ千四五百人ツヽノ死刑者等ヲ埋葬セシ趣ナルヲ以テ現今其人員少クモ十数万以上ニ達セリ

 ここでも「毎年概ネ千四五百人ツヽノ死刑者等ヲ埋葬セシ」としているが、全てが刑死者ではない。事実発掘された頭蓋骨に斬首の跡のないものも多数発見されている。これは「橋本左内と小塚原の仕置場」(荒川区教育委員会編 2009年刊)に掲載されている「回向院の供養対象者の分類」を見ても分るように病死・牢死・寄場死(63.3%)と上野御山内髑髏から髑髏まで(20.4%)の比率が高い。これは「取片付」分の集計であって、これには重罪を多く含む「取捨」分が入っていないことは注意すべきであろう。また上記の回向院の集計では年度毎の供養者の数の変動が大きい。幕末だけに限っても百数十人の年もあれば千人を越える年も存在するが、その変動の要因はやはり牢死を含まない病死、恐らく行倒れであろう。そのため「毎年概ネ千四五百人ツヽ」が正しい仮定なのか分らない。

画像
南千住 小塚原 東京メトロの高架と都営アパート

「南千住 小塚原 その4」 の地図


大きな地図



南千住 小塚原 その4 のMarker List

No. 名称 緯度 経度
01   泪橋 35.729 139.7994
02   延命寺 35.7316 139.7978
03   回向院 35.7322 139.7978
04   円通寺 35.734 139.7928
05   素戔雄神社 35.7371 139.796
06   荒川ふるさと文化館 35.7375 139.7954
07   千住大橋 35.7393 139.7973
08   千住宿 35.7505 139.8028
09   奥の細道矢立初めの地 荒川区 35.7331 139.7985
10   奥の細道矢立初めの地 足立区 35.7412 139.7985
    

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

サイト ナビゲーション

投稿カレンダー

2018年8月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

過去の記事

カテゴリー

最近の投稿