徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

アーカイブ:2019年 5月

冷泉家

 

冷泉家(れいぜいけ) 2010年1月17日訪問 冷泉家  同志社大学今出川キャンパスの西門前に建つ薩摩藩邸跡の石碑は、この地に薩摩藩二本松邸があったことを示すものである。薩摩藩邸跡(二本松)からその4までの4回にわたり、薩摩藩の京屋敷について書いてきた。特にこの二本松藩邸は倒幕に舵を切っていく薩摩藩の政治活動の中心地であり、また軍事力の駐屯地でもあった。文久3年(1863)の藩邸完成後、払い下げになる明治5年(1872)までの10年に満たない短い期間だけでも、甲子戦争、薩長同盟そして鳥羽伏見の戦いという歴史の転換点の舞台となったことは特筆すべき点である。次回の訪問の際には、慶応4年(18… ►続きを読む

 

薩摩藩邸跡(二本松) その4

 

薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その4 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡 京都市の駒札  薩摩藩邸跡(二本松) その3では本題である薩摩藩二本松藩邸が、この地に作られるまでの経緯を見てきた。この項では小松、西郷、大久保の京都での寓居跡と藩邸の位置関係を確認しておく。 小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 2018年3月18日撮影  文久3年(1863)9月、薩摩藩は小松帯刀の宿舎として鹿苑院の借受けを相国寺に申し出ている。前述の「相国寺研究 四 幕末動乱の京都と相国寺」によれば、9月11日に借用願を出したようだ。小松は久光の3度目の上京に随行し、文久3年10月には京に入って… ►続きを読む

 

薩摩藩邸跡(二本松) その3

 

薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その3 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡  薩摩藩邸跡(二本松) その2では薩摩藩の岡崎藩邸と小松原調練場について見て来た。軍事力を京都の地に置くためには、藩兵が寄宿する場所の他に軍事訓練を行える場所の確保が重要となる。そして武器の主流が刀や槍から大砲と小銃へ移った事により、屋敷内の剣術道場ではなく広大な敷地を持つ調練場が要求されるようになった。もし西洋式の軍事訓練場の準備ができなかったならば、甲子戦争においても開戦に踏み切ることができなかったのではないかとも思う。それ位、当時の薩摩藩にとっても2つの調練場は重要な施設であったと考える。 恐… ►続きを読む

 

薩摩藩邸跡(二本松) その2

 

薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) その2 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡  薩摩藩邸跡(二本松) では幕末期の京屋敷について見て来た。江戸時代初期より京には諸藩の武家屋敷、すなわち京屋敷が設けられてきた。禁中並公家諸法度により、「一 武家之官位者、可爲公家當官之外事」と武家と公家の官位は分けられ、武家には将軍を通じて官位が与えられるように定められた。そのため官位叙任に関し武家は公家と直接的な関係を結ぶことがないように制限されてきた。そしてこのことが武家と公家の私的な交際まで拡大適用され、特に譜代大名は参勤交代の際にも幕府の疑念を避けるために京に入ることがなかったとされてい… ►続きを読む

 

薩摩藩邸跡(二本松)

 

薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) 2010年1月17日訪問 薩摩藩邸跡 同志社大学今出川キャンパス西門前  烏丸通の西側にある大聖寺は一般公開を行っていないため、その境内を拝見させていただいた。烏丸通沿いに築かれた築地塀に背を向けるようにして、花乃御所の石碑が建てられている。平成7年(1995)に大聖寺門主の花山院慈薫が建立されている。今、大聖寺があるこの地には、かつて足利義満が築いた室町殿が存在したことを示す石碑である。さらには大聖寺の開基・無相定円が義満の室町殿の中にあった岡松殿で過ごし、亡くなられた後に大聖寺に改められたことを記念するものでもある。この場所の地名は上京区御… ►続きを読む

 

大聖寺

 

臨済宗単立 岳松山 大聖寺(だいしょうじ) 2010年1月17日訪問 大聖寺  今出川室町の東北角に建つ足利将軍室町第址の石碑を確認した後、今出川烏丸の交差点を北に上ると左側に大聖寺の山門が現れる。もうすでに17時を回ってしまっていたので門扉を閉める準備を行っていた。大聖寺は一般に公開されていない寺院であるので取り合えず境内の様子のみ見せていただくことにした。 大聖寺は尼五山第1位の景愛寺の法統を継ぐ臨済宗単立寺院。山号は岳松山、御寺御所とも称する尼門跡寺院。ここからは尼五山の成立時期とともに大聖寺や宝鏡寺の基となった景愛寺について少し詳しく見ていくこととする。 大聖寺  尼五山と… ►続きを読む

 

足利将軍室町第址 その2

 

足利将軍室町第址(あしかがしょうぐんむろまちだいあと)その2 2010年1月17日訪問 足利将軍室町第址  白峯神宮 その9の南門を潜り今出川通に出る。そのまま今出川通の北側の歩道を東に進むと、室町通の東北角に足利将軍室町第址の石碑が現れる。大正4年(1915)に京都市教育会が建立した碑で、「従是東北 足利将軍室町第址」と記されている。ここが室町幕府の花の御所の西南の角に当たることを示している。2008年5月13日以来2度目の訪問となる。前回は足利幕府の将軍の邸宅の変遷について書いたので、今回は第3代将軍・足利義満が築いた室町殿について書いていく。 大聖寺 室町殿の一部 奥に見える建… ►続きを読む

 

白峯神宮 その9

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その9 2010年1月17日訪問 白峯神宮  白峯神宮 その8では、幕末維新期の白峯神宮創建に尽力した中瑞雲斎の前半生について書いてきた。この項では神宮創建後に生じた瑞雲斎に関する事件について調べてみる。 明治2年(1869)正月5日、新政府の参与・横井小楠が京都寺町通丸太町下ルで十津川郷士の襲撃を受け暗殺されるという大事件が発生する。小楠が暗殺された理由とは、日本のキリスト教化を推進しているとされている。歴史的にも有名な事件にも拘らずその実相を明らかにした資料は実は多くない。開明的な思想を持つ横井は因習に固執した尊皇攘夷激派の生き残りに殺害された、これがこの… ►続きを読む

 

白峯神宮 その8

 

白峯神宮(しらみねじんぐう)その8 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影  白峯神宮 その7では、幕末維新期の白峯神宮創建の経緯について「孝明天皇紀」(平安神宮 1981年刊)慶応2年(1866)11月16日の条を中心に見て来た。この項では白峯神宮創建を目指して奔走した中瑞雲斎の前半生について調べてみる。 上御霊神社 御祭神は崇道天皇(早良親王)、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人(藤原吉子)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麿)、火雷神(六座の荒魂)、吉備大臣(吉備真備)2018年3月18日撮影  しかしこの敷地が「狭小」である上「汚穢地之旨有風聞」という… ►続きを読む

 
 

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