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薩摩藩邸跡(二本松)



薩摩藩邸跡(二本松)(さつまはんていあと) 2010年1月17日訪問

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薩摩藩邸跡 同志社大学今出川キャンパス西門前

 烏丸通の西側にある大聖寺は一般公開を行っていないため、その境内を拝見させていただいた。烏丸通沿いに築かれた築地塀に背を向けるようにして、花乃御所の石碑が建てられている。平成7年(1995)に大聖寺門主の花山院慈薫が建立されている。今、大聖寺があるこの地には、かつて足利義満が築いた室町殿が存在したことを示す石碑である。さらには大聖寺の開基・無相定円が義満の室町殿の中にあった岡松殿で過ごし、亡くなられた後に大聖寺に改められたことを記念するものでもある。この場所の地名は上京区御所八幡町であるが、烏丸今出川の交差点のやや北側、すなわち御所八幡町の南隣に岡松町の地名が残る。碓井小三郎の「京都坊目誌」(「新修 京都叢書 第14巻 京都坊目誌 上京 乾」(光彩社 1968年刊))には下記のように記されている。

町名起源 始め室町第中に岡松殿あり。其址なれば爾か云う。其後此東西を片岡之辻子と呼び。烏丸に面する所を一本松と称す。明治二年二月。一本松片岡両町を合して。岡松町と為し旧称に復す。

 明治初年にかつて存在した地名・岡松町に戻したということらしい。もちろん一本松は二本松の誤りである。
なお、花乃御所の石碑を建立された大聖寺第27世門主・慈薫尼は既に2006年6月17日にお亡くなりになられている。先の花乃御所の石碑の向い側には、慈薫尼の歌碑「九品仏 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」が建てられている。慈薫尼は清華家・花山院家第35代花山院親家の長女。明治以降大聖寺には内親王の入寺がなかったが、慈薫尼のような公家華族の息女によって継承されてきたことが分る。

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大聖寺 境内の慈薫尼の歌碑

 大聖寺の前から一旦烏丸今出川の交差点に戻り、烏丸通の東側に渡る。そのまま北に進むと同志社大学今出川キャンパスの西門に差し掛かる。この校門の左側に薩摩藩邸跡の石碑が建てられている。
 江戸時代の京都は大坂に次ぐ西国の中心地であったため、西国を中心に京屋敷を持つ藩は少なくなかった。勿論、諸大名が独自に朝廷と接触すること望まなかった徳川幕府は京都所司代を設置し朝廷及び西国大名の動静を監視してきた。西国大名もいくつかの例外を除き、参勤交代で京都を通過するルートを避けられてきた。山陽道、西国街道、山陰道を東に進んでも京都に入らず伏見から大津へと抜けていった。これは禁中方御条目で禁じられていたためである。
 上記で例外と書いたように公家と縁戚関係を持つ大名家は婚家との儀礼を口実にした上京のために京屋敷を保有することもあった。また親藩や譜代大名で二条城代・二条在番や京都所司代・京都郡代などの幕府の役職に就いた場合は京都市内、特に二条城周辺の屋敷に赴任することもあった。多くの藩は御用達を務める商人に管理を委託していたが、下級役人の留守居役を常駐させることもあった。
徳川幕府の天保の改革や幕政改革などと同時期に、諸藩でも藩政改革が推し進められた。それにより各藩で生産された特産品が市場に流通するようになると参勤交代のための江戸屋敷以外にも大坂に蔵屋敷そして京に京屋敷を設けるようになっていった。しかしこれ等はあくまでも平時の京屋敷であり、文久年間に入ると情況は一変していく。

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薩摩藩錦小路藩邸跡 2018年3月17日撮影

 文久2年(1862)3月16日藩主島津茂久の生父・島津久光は、小松帯刀、中山尚之助、大久保一蔵(利通)等士卒1000余人を従え参府の途に就く。前年の文久元年(1861)10月には既に久光体制が確立しているので、恐らくこの頃に率兵上京を決断したと考えられる。凡そ半年をかけて準備工作を行ったのであろう。勿論、朝廷と京都守護するための上京であったが、それ以上に朝廷と幕府に先君の遺志に従い改革を求めるということが久光の最大の目的であった。
 4月10日に大坂、13日には伏見に入っている。久光は直接京都に入ることなく伏見の薩摩藩邸で宿泊した後、同16日早朝に入京、挨拶と共に入京の主旨を説明するため京都所司代・酒井邸を赴いている。これは嘉永4年(1851)4月23日、兄の斉彬が京都に立ち寄った際の事例を踏襲している。酒井が病気を理由に面談を断ったので、久光は近衛邸を訪れ自らの国事建言を開陳、近衛忠房は即日参内、久光の建言を奏上している。そして久光に対して滞京して浪士鎮撫の任に就くようにとの命が下っている。これを以って久光は錦小路の藩邸に入ったとされている。なお当日の大久保の日記(「日本史籍協会叢書26 大久保日記1」(東京大学出版会 1927年発行 1983年覆刻))によれば錦小路の藩邸に立ち寄った後に近衛邸を訪問したことになっている。4月21日、伏見の寺田屋で薩摩藩士による上意討ち事件が生じる。
 この時の薩摩軍の陣触れ上の構成は以下の通りであった。先ず小松帯刀以下の久光に随行する者、藩兵まで含めると310名になる。これに60人編成の藩兵4組240名を加えた550名が第一陣として天祐丸で大坂に入っている。第二陣が5組300名、第三陣は4組240名で総勢1090名となる。果たして予定通りの出兵になったか、また全兵が入京し錦小路の薩摩藩邸に入ったかは調べてみたが今のところ判明していない。石田孝喜氏は「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)の錦小路の薩摩藩邸跡には以下のように記している。

文久三年(1863)に相国寺門前の二本松薩摩藩邸が設けられたが、それまでは錦小路の藩邸が主なものであった。
したがって、文久二年四月に、島津久光が公武周旋のために兵士1000名を引きつれて上洛した時は、この屋敷に入った。

 この錦小路の薩摩藩邸がどのような規模であったかについて、河島一仁氏が「近代京都における大学の歴史地理的研究 ―藩邸、公家屋敷ならびに寺社地の転用を中心―」で「京都御役所向大概覚書」を用いているので、これを参照する。「錦小路通東 洞院江入町 、表口三十間 、裏行四拾六間 。右 地続東洞院四條上ル町ニ而 表口十九間 裏行拾五間四尺所買足。買得大橋金左衛門・藤本彦右衛門両人名代」は間口33間(59.4m)奥行46間(82.8m)の敷地とその隣の間口19間(34.2m)奥行(27m)ということである。合わせて5800m2強であるので1800坪弱となる。「京都御役所向大概覚書」は享保2年(1717)に纏められた書であるので、江戸時代中期にはこの規模の施設を薩摩藩は既に入手していたことが分る。

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薩摩藩伏見藩邸跡  伏見区東堺町 松山酒造
2011年12月24日撮影
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薩摩藩伏見藩邸跡 2011年12月24日撮影

 上記は文久2年(1862)前半に行われた島津久光による率兵上京である。この翌年の3月4日さらに大規模な将軍上洛が行われる。これに先立ち幕府は京の治安を維持するため文久2年閏8月朔日京都守護職を新設、会津藩主・松平容保を充て職俸として5万石の加増と仕度金3万両が貸与されている。容保は同年12月24日に三条大橋を渡り京に入る。同日、寺町の本禅寺で旅装を改め関白・近衛忠房に挨拶を済ませ金戒光明寺に入っている。当時会津藩は京屋敷を所有していなかったため、京において城郭にも似た浄土宗の総本山を本陣とした。会津藩兵1000名は1年交代で治安維持にあたったとされているが、多くの塔頭を抱える金戒光明寺ならばそれも可能であったのだろう。
 さらに幕府は将軍上洛に合わせ、24藩に対して市中の警備を命じている。その様子は未見であるが「御諸藩預場幷御屯之図」という形(「近世京都絵図十種」(京を語る会 1975年刊))で残されているようだ。これを基に、「京都の歴史 第七巻 維新の動乱」(京都市史編さん所 1979年刊)では「文久3年藩預場所」という図名の復元図を掲載している。

東山は北から下記の5藩

三条以北    細川越中守 (肥後)  法林寺
四条以北    松平修理太夫(薩摩)  祇園社中
五条以北    松平土佐守 (土佐)  六波羅
三十三間堂以北 松平出羽守 (出雲)  明暗寺 本町五丁目
三十三間堂以南 松平三河守 (津山)  滝尾社

鴨川以西 烏丸通以東 北から6藩

今出川通以北  松平阿波守 (阿波)  御霊社・寺町頭/借家・寺町今出川上ル
丸太町通以北  中川修理太夫(岡)   借家・石薬師町
三条通以北   阿部播磨守 (白河)  御所八幡・御池堺町
松原通以北   松平安芸守 (安芸)  常行寺・富小路錦上ル
         /会所・富小路四条上ル/徳正寺・富小路四条下ル/日彰富小路西入ル
五条通以北   松平豊後守 (平戸)  長生寺・麩屋町五条上ル
五条通以南   有馬中務大輔(久留米) 仏眼寺・下坂筋高倉西入ル
         /仏願寺・高倉下坂下ル

烏丸通以西 北から13藩

寺之内通以北  藤堂和泉守 (津)   妙蓮寺・寺之内大宮東入ル
一条通以北   松平美濃守 (福岡)  大超寺・千本一条上ル
         /清涼寺里坊
下立売通以北  松平備前守 (備州岡山)昌福寺・智恵光院出水下ル
         /松林寺
下立売通以北  南部美濃守 (盛岡)  極楽寺・下立売七本松上ル
御池通以北   紀伊    (和歌山) 西福寺・小川押小路角
         /町会所・油小路押小路下ル
錦小路通以北  加賀中納言 (金沢)  三宝寺・三条大宮西入ル
松原通以北   松平近江守 (安芸新田)会所・高辻室町上ル
         /功徳院・高辻室町西入ル
松原通以北   松平下総守 (忍)   西往寺・高辻大宮西入ル
         /正法院・松原大宮西入ル
七条通以北   戸沢上総守 (出羽新庄)円徳寺・仏具町魚棚上ル
七条通以北   松平相模守 (因州)  妙光寺・中堂寺村
七条通以北   加藤山城守 (伊予新谷)元海寺・新町花屋町下ル
七条通以北   関備前守  (備中新見)大宮七条上ル
七条通以南   松平陸奥守 (仙台)  竜岸寺・八条大宮西入ル

 以上24藩は警備のために預所内に陣屋や屯所を設けたが、その多くが寺院や神社あるいは町会所であった。また文久3年1月5日、将軍後見職の一橋慶喜が将軍上洛の先駆けとして東本願寺に入っている。2月4日には政治総裁職を任命された松平春嶽も入京し堀川の藩邸に入っている。この他にも老中小笠原長行、前尾張藩主徳川慶勝、前宇和島藩主伊達宗城、前土佐島藩主山内容堂等も前後して京に入っている。そして文久3年(1863)3月4日の第14代将軍徳川家茂は凡そ3000の幕臣を率いて二条城に入る。

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讃岐丸亀藩京屋敷跡 烏丸丸太町の西北 2016年3月5日撮影

 この文久3年の将軍上洛以降、京都に入ってくる諸藩の武士が急激に増加する。正式な京屋敷の総数を求めることは難しい。その代わりとして「京都の歴史 第七巻 維新の動乱」は京における大名屋敷の数を時代毎に発行された絵図や地誌を下に求めている。17世紀前半に68(寛永14年「洛中絵図」)が、17世紀末には83(貞享2年「京羽二重」)に増えている。しかし幕末になると60(元治元年「京羽津根」)、73(元治元年「大成京細見絵図」)、74(慶応4年「京町御絵図細見大成」)と著しい増加は見られない。同書は幕末の政局に積極的に関与していこうとする藩とその成り行き見守ろうとする消極的な藩に分かれたと見ている。つまり前者は複数の京屋敷を持つとともに屋敷そのもの面積も拡張させている。これは京にある程度の武装藩士を置いておく上で必要なことでもある。
 また京に京屋敷を持たない藩でも用達や呉服所などの取次機関を持っていた。京屋敷自体の総数の増加はなくても、これら取次機関は江戸中期の154(「京羽二重」)から、幕末になると203(「京羽津根」)まで確実に増えている。正式な藩邸は増えないものの、京における藩の出先機関は特産品の販売から政局情報の取得までに欠かすことが出来なかったのではないだろうか。

 元治元年(1864)時点(「大成京細見絵図」))で薩摩と因州が3つの京屋敷を所有し、彦根、筑前福岡、出雲松江、備前岡山、肥前鍋島、郡山、紀州、越前、阿波、広島、肥後熊本が2つの京屋敷を持っていた。さらに4年後の慶応4年(1868)(「京町御絵図細見大成」)になると彦根藩も3つ目の京屋敷を取得したものの、元治元年と大きな違いが見られない。つまり諸藩の方針は元治元年に発生した甲子戦争の頃には定まっていたということであろう。例え既に油小路通下立売下ル東側に京屋敷を設けていた因州鳥取藩は、文久年間に東堀川通中立売下ル東側に広大な屋敷を建設している。この屋敷は南北を中立売通と上長者町通、東西を東堀川通と油小路に限る凡そ1町四方の大きなものであった。この屋敷を建設するために松之下町通が消滅している。同様なことはその北に位置している筑前福岡藩の京屋敷でも生じている。なお、因州鳥取藩はさらに元治元年にも北野大将軍の西側御土居を越えた場所に新屋敷を設けている。

 文久2年(1862)9月6日には、中立売通・下立売通、葭屋町通・大宮通に囲まれた地域と上長者町通・出水通、大宮通・智恵光院通に囲まれた地域で縄引きが突然始まった。この周辺は安政元年(1854)の大火で類焼した地域で京町奉行所が再三復興促進の触流しを出してきた。しかし町人達の再建が思うように進まなかったので、幕府による京都守護職屋敷の建設に変更された。同月20日には立退き勧告が町の人々に告げられたので、この地域の人々は惣代を通じて嘆願書を提出したが受理されることは無かった。実際に守護職屋敷が建設されたのは御所の近くの現在京都府庁とその南側の京都第二赤十字病院等がある場所であった。上記の計画は沙汰止みとなったが、このような土地収用によって京屋敷の建設が進められた例は少なくなかったようだ。

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讃岐丸亀藩京屋敷跡 烏丸丸太町の西南 2016年3月5日撮影

 以上のように既存の寺院を本陣として定めたり、市内に新たな京屋敷を建設したりしてきたが、それでも賄う事ができなくなると、洛東や洛西に更に広大な屋敷を求めるようになる。現在の京都大学本部構内に尾張藩の藩邸が建設されたのは文久3年頃であった。また今出川通北側の北部構内を土佐藩白川藩邸として購入したのは慶応2年(1866)のことであった。さすがに交通の便も良くなくほとんど使用されなかったとも言われているが中岡慎太郎が創設した陸援隊の調練に用いられた。
 それでも本陣や京屋敷等に収容できなかった藩兵は、三々五々と分かれ京の町々の借家を仮の宿としたようだ。元々京都は城下町として発展してきたわけでないので武士が住む地域が設定されていない。そのため無理に町屋へ押し込めることとなった。文久3年後半から翌元寺元年前半にかけて入京した譜代大名の家臣のうち、本陣や藩屋敷以外に下宿した者については、未見であるが「京都諸家来名前」という形で残されているそうだ。「京都の歴史 第七巻 維新の動乱」には筑後久留米藩(有馬家)、讃岐丸亀藩(京極家)や芸州広島藩(浅野家)の事例が記されている。丸太町烏丸西入ルに藩邸を持つ丸亀藩の場合、391名を21ヶ所に分宿させている。例えば丸太町烏丸西入ル伊勢屋六兵衛借家には15名、丸太町両替町西入ルの藤屋源助の家には3名、烏丸通丸太町丹波屋長兵衛の借家鍵屋富吉宅には57名、油小路丸太町上ルの宝請寺に71名と場所もその人数もかなりばらついている。既に油小路丸太町の地に宝請寺は存在しないため、宝請寺71名の住環境がどんなものであったかは分らない。碓井小三郎の「京都坊目誌」(「新修 京都叢書 第15巻 京都坊目誌 上京 坤」(光彩社 1968年刊))で調べてみると米屋町東側293番地にはかつて真宗本派本願寺に属する宝受寺があったことが分る。碓井が著わした大正初年頃に宝受寺の寺地は147坪とあったとされている。もしこの宝受寺が幕末も同じ規模であり、ここに丸亀藩兵71名が寝泊りしていたとすればかなり窮屈であっただろう。さらに借家鍵屋富吉宅57名はただ人数あわせのために詰め込んだとしか思えない。外様大名で5万1千石の丸亀藩は、幕末期には尊王派として行動し御所警備のためにたびたび出兵を行ってきた。他藩と比べ小藩であっても多くの藩兵を京に置かなければならなかったのかもしれない。

 この項の最後に各藩の京屋敷の位置とその規模についてまとめた資料について記しておく。今回参照した「京都の歴史 第七巻 維新の動乱」(京都市史編さん所 1979年刊)には別添地図がついているようだ。「ようだ」という曖昧な表現は、たまたま図書館で借りた「京都の歴史」には地図が付いていなかったためである。本書の巻末26頁から29頁にかけて地図制作の主旨説明から制作方法について記した上でアイウエオ順の武家屋敷表を掲載している。下記の通りである。
 また石田孝喜氏の「幕末京都史跡大事典」(新人物往来社 2009年刊)にも「京都の大名屋敷の変遷について」という項を起こし 屋敷名称 所在地 規模(表口・裏行) 幕末までの存続等を記している。これは「京都町触集成」の別巻第一巻の「京都大名屋敷」を参照したもののようだ。総数は69と「京都の歴史」の85と比べる少ない。何れ時間が出来たら両者を比較してみようと思う。この他にも「幕末京都史跡大事典」には「幕末諸大名の宿陣」を掲載している。これは文久3年(1863)2~3月に上京した大名の宿陣を「東西起聞」を基にして石田氏が作成したものらしい。徳川慶喜が東本願寺、毛利慶親が河原町屋敷というように63件が記されている。中々興味深い資料である。

01 元 会津屋敷  / 荒神口鴨東
02   明石松平屋敷  / 御幸町丸太町下ル
03   出石(但馬)仙石屋敷  / 御幸町竹屋町下ル
04   安芸浅野屋敷  / 東洞院四条下ル
05    同上  / 二条川東
06   阿波蜂須賀屋敷  / 四条室町西
07    同上  / 二条川東
08   尼崎松平屋敷  / 仏光寺大宮西
09   飯田(信濃)堀屋敷  / 上長者日暮西
10   出雲松平屋敷  / 西洞院二条西
11   因幡池田屋敷  / 中立売堀川東
12    同上  / 油小路下立売下ル
13    同上  / 大将軍村
14   上田(信濃)松平屋敷  / 七本町下立売下ル
15   宇土(肥後)細川屋敷  / 古門前白川橋西入ル
16   宇和島伊達屋敷  / 五条室町西
17   越前松平屋敷  / 洛東聖護院
18    同上  / 二条堀川東
19   大垣戸田屋敷  / 富小路二条下ル
20   岡(豊後)中川屋敷  / 三本木
21   忍(武蔵)松平屋敷  / 東洞院蛸薬師下ル
22   尾張徳川屋敷  / 洛東吉田村
23    同上  / 錦小路室町西
24   加賀前田屋敷  / 川東仁王門通
25    同上  / 御池河原町東
26   勝山(越前)小笠原屋敷  / 出水大宮西
27   亀山(丹波)青山屋敷  / 松原新町東
28   川越(武蔵)松井屋敷  / 柳馬場二条下ル
29   紀伊徳川屋敷  / 西洞院四条上ル
30   朽木(近江)屋敷  / 麩屋町二条上ル
31   久留米有馬屋敷  / 西洞院四条上ル
32 元 桑名屋敷  / 大徳寺西
33   郡山柳沢屋敷  / 下立売日暮西
34    同上  / 上長者日暮
35   古河(下総)土井屋敷  / 油小路御池上ル
36   小倉(小笠原)屋敷  / 柳馬場竹屋町下ル
37   佐賀鍋島屋敷  / 日暮上長者町
38   篠山(丹波)青山屋敷  / 烏丸六角下ル
39   薩摩島津屋敷  / 錦小路東洞院東
40    同上  / 相国寺南二本松
41    同上  / 等持院村
42   新発田(越後)溝口屋敷  / 堀川武者小路上ル
43   膳所本多屋敷  / 祇園小堀町
44   仙台伊達屋敷  / 中長者小川東
45   園部小出屋敷  / 油小路松原下ル
46   高槻永井屋敷  / 蛸薬師大宮西
47   高鍋秋月屋敷  / 左女牛新屋敷
48   田辺(丹後)牧野屋敷  / 仏光寺大宮西
49   筑前黒田屋敷  / 中立売堀川東
50    同上  / 上立売室町東
51   長州毛利屋敷  / 河原町二条下ル
52   津(伊勢)藤堂屋敷  / 東堀川蛸薬師下ル
53    同上  / 四条千本東
54   津軽屋敷  / 釜座姉小路下ル
55   対馬宗屋敷  / 河原町姉小路上ル
56   津山(美作)松平屋敷  / 寺町筋違橋上ル
57   津和野亀井屋敷  / 室町頭
58   出羽佐竹屋敷  / 柳馬場四条上ル
59   土佐山内屋敷  / 洛東百万遍
60    同上  / 蛸薬師河原町東
61   中津(豊前)奥平屋敷  / 出水堀川東
62   中村(陸奥)相馬屋敷  / 柳馬場丸太町下ル
63   西大路(近江)市橋屋敷  / 清水門前四丁目
64   二本松(陸奥)丹羽屋敷  / 日暮中立売下ル
65   肥後細川屋敷  / 仏光寺大宮西
66   彦根井伊屋敷  / 寺町鞍馬口
67    同上  / 聖護院村
68    同上  / 河原町三条下ル
69   備前池田屋敷  / 元誓願寺小川
70    同上  / 猪熊中立売上ル
71   姫路酒井屋敷  / 東堀川二条上ル
72   平戸松浦屋敷  / 知恩院古門前
73   福知山朽木屋敷  / 烏丸四条下ル
74   北条(安房)水野屋敷  / 松原建仁寺新地
75   松代(信濃)真田屋敷  / 洛東六波羅裏
76 元 松山屋敷  / 蛸薬師高倉西
77   丸亀(讃岐)京極屋敷  / 丸太町烏丸西
78   水口(近江)加藤屋敷  / 東洞院四条下ル
79    同上  / 松原建仁寺新地
80   水戸徳川屋敷  / 上長者室町東
81   盛岡南部屋敷  / 川端一筋東丸太町下ル
82   柳川(筑後)立花屋敷  / 西洞院中立売下ル
83   八幡(美濃)青山屋敷  / 六角油小路西
84   淀稲葉屋敷  / 上長者葭屋町
85   若狭酒井屋敷  / 姉小路神泉苑町

「薩摩藩邸跡(二本松)」 の地図





薩摩藩邸跡(二本松) のMarker List

No.名称緯度経度
 薩摩藩邸跡 35.03135.7595
01  薩摩藩錦小路藩邸跡 35.004935.0049
02  薩摩藩伏見邸跡 34.9377135.7586
03  薩摩藩岡崎藩邸跡 35.1059135.7636
04  小松原調練場 35.0325135.7268
05  小松帯刀寓居 近衛家御花畑邸 小山町 35.0374135.7587
06  大久保利通邸跡 35.0275135.7681
07   西郷隆盛寓居 塔之段 35.0305135.7652
08  西郷隆盛寓居 石薬師中筋 中熊 35.0275135.7685
09  相国寺 養源院 35.0315135.7612
10  相国寺 普広院 35.0311135.7612
11  相国寺 林光院 35.0316135.7631

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