鞍馬寺 その2
鞍馬弘教総本山 鞍馬山鞍馬寺(くらまでら)その2 2010年9月18日訪問
叡山電鉄の鞍馬駅から大天狗を左手に眺めながら進んでいくとすぐに鞍馬街道に合流する。道なりに歩を進めると鞍馬寺の石段とその上の仁王門が見えてくる。石段の右手には赤褐色の鞍馬石で造られた寺号標が建つ。仁王門は柱間が正面三つで中央の一間が戸口になっている三間一戸の丹塗の楼門様式。元からあった古い楼門が明治24年(1891)11月に焼失している。今の仁王門は20年後の明治44年(1911)4月に復興竣工したものとされている。この仁王門の脇には勅使門があったことが、京都府立京都学・歴彩館のデジタルアーカイブに収蔵されている矢野家写真資料の写真より分かる。この門は現在地より一段下の民家の近くに建てられていたが昭和34年(1959)に現在の地に移されている。鞍馬寺の公式HPでは両側に立つ仁王尊像は運慶の嫡男である湛慶の作としている。
現在の鞍馬寺は鞍馬弘教総本山で正式には鞍馬山鞍馬寺となる。鞍馬寺の創建に関する2つの説話がある。第一の説話は「鞍馬蓋寺縁起」によるもので、宝亀元年(770)奈良の唐招提寺の鑑真和上の高弟・鑑禎上人が関係している。上人が正月4日寅の夜の夢告と白馬の導きで鞍馬山に登山したところ鬼女に襲われる。毘沙門天に助けられたことから、毘沙門天を祀る草庵を結んだという。「鞍馬蓋寺縁起」は室町時代に纏められたもので大日本仏教全集に収録されている。「鞍馬蓋寺縁起」の上一と二段に鑑禎上人が鬼女に出会った説話が残されているが、この説話は「鞍馬蓋寺縁起」以外に見ることができない。
第二の説話は造東寺長官の藤原伊勢人に関連するものである。先の「鞍馬蓋寺縁起」三段目には、藤原伊勢人が観音を奉安する一宇の建立を念願することから始まっている。伊勢人は夢告と白馬の援けを得て登った鞍馬山で、毘沙門天が安置されている鑑禎上人の草庵を発見する。観音菩薩を信仰していた伊勢人は訝ったが、再び「毘沙門天も観世音菩薩も根本は一体のものである」という夢告を得たことで、伽藍を整え毘沙門天を奉安したとされている。鞍馬寺の公式HPでは、鞍馬山開創について「鞍馬蓋寺縁起」を引用し、鑑禎上人と藤原伊勢人を並列に紹介している。藤原伊勢人は平安時代初期の貴族。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の七男。官位は従四位下・治部大輔。父である巨勢麻呂の異母兄が藤原仲麻呂であり、巨勢麻呂も藤原仲麻呂の乱に連座したため、天平宝字8年(764)に官軍により斬殺されている。この乱により仲麻呂の一族の多くは処刑され藤原武智麻呂を始祖とする藤原南家の勢力は大幅に低下する。南家に代わって政権の中枢を占めたのが、桓武天皇の夫人となった藤原旅人の藤原式家であった。つまり天平宝字3年(759)に生まれた伊勢人は、成人する前に反逆者の子となっていた。「扶桑略記」の抜萃 起聖武天皇紀下尽平城天皇紀に下記のような記述が見られる。
十五年。有ㇾ勅。草二創東寺一。」造東寺長官従四位上藤原朝臣伊勢人造二鞍馬寺一。則彼寺縁起云。
この後、観音像を祀る一堂を設けることを願っていた伊勢人の前に老人の姿をした貴船明神が現れ、「感二汝道心一。教二斯勝地一。」と鞍馬の地に導く。萱草の中に毘沙門天像を見つけた伊勢人に容顔端麗な童子が「観音則毘沙門天。」と告げるという、「鞍馬蓋寺縁起」と同じ記述となっている。童子は自らを「多門天侍者禪儞童子」と名乗っている。「扶桑略記」は以下のように続く。
構二造三間四面堂一宇一。奉ㇾ安二置彼毘沙門天像一。今謂鞍馬寺即是也。後経ㇾ年。伊勢人為ㇾ遂二本懐一。奉ㇾ造二観音像一。安置供養。今在二鞍馬寺西観音堂一也。
さらに修行禅僧が鬼女に出会う説話へと続くが、ここには鑑禎上人の名前は現れない。同様の説話は「今昔物語」の巻十一に藤原伊勢人始建二鞍馬寺一語第卅五にも見られる。
今昔。聖武天皇ノ御代ニ従四位ニテ藤原ノ伊勢人ト云フ人有ケリ。心賢シテ智リ有リ。
ここでは藤原伊勢人の造東寺長官の役職名や鑑禎上人と鬼女も現れて来ない。そのためか、昭和元年(1926)に鞍馬山開扉事務局が出版した「鞍馬寺史」の巻頭・第一章 鞍馬寺の創立で以下のように記している。
鞍馬寺は松尾山金剛寿命院と号す。京都市を北に去る約三里、加茂川の上流を脚下に控へたる鞍馬山の中腹にあり。地は即ち古への山城国愛宕郡出雲郷に属す。寺伝によればその創立は奈良時代宝亀年間にありとなし、過海大師鑑真と共に来朝したる鑑禎を以て創建者に擬すれども、古書に多く戴する諸説の一致するところに據れば桓武天皇の延暦十五年創立すべきなり。(中略)而してその創立発願者は東寺の造営長官たりしと伝ふる藤原伊勢人なりとす。
鑑禎上人が鞍馬の地に毘沙門天を祀る草庵を設けたという説話は「鞍馬蓋寺縁起」のみでありその設立が室町時代とかなり時代も下っていることから、「鞍馬寺史」は藤原伊勢人によって東寺と同じ延暦15年(796)に開創されたということが諸説の一致するところと認めたのである。
宇多天皇から醍醐天皇にかけての寛平年間(889~98)、東寺十禅師の峯延が伊勢人の孫の峰直の帰依を受けて鞍馬寺根本別当となっている。このことにより鞍馬寺は真言宗の公寺となったといわれている。天慶3年(940)には宮中から由岐大明神が移され由岐神社が鞍馬寺の鎮守社となった。そして天永年間(1110~13)には第46代天台座主忠尋の来山を機に天台宗に改められている。以来延暦寺には門跡相承の職として鞍馬寺検校職が設けられ、鞍馬寺は山門の末寺になり青蓮院の支配下になった。
鎌倉時代の寛喜元年(1229)青蓮院門跡座主が鞍馬寺検校職を兼務するようになる。これ以降鞍馬寺は正式に青蓮院の末寺となった。しかし江戸時代の享保15年(1730)に青蓮院の他、日光輪王寺の末寺ともなった。この頃の鞍馬寺の塔頭は宝積院、大蔵院、吉祥院、月性院、妙寿院、戒光院、歓喜院、円乗院、福生院、真勝院の十院と普門坊、正円坊、妙覚坊、薬師坊、蔵之坊、本住坊、梅本坊、実相坊、東光坊の九坊より形成され、十院を総称して衆徒、九坊を中方と呼んでいた全山の寺務は執行と権別当があたり、両職と称していた。うち真勝院は天台宗寺院門跡青蓮院宮が兼帯し粟田本坊とも称し、妙寿院は江戸東叡山寛永寺より代々の住職迎えていた。
文化11年(1814)に全山炎上する大火災があり、鞍馬寺の衰退が始まる。幕末のの安政2年(1855)には日光輪王寺のみの末寺となったが、明治元年(1868)には再び青蓮院の末寺となり、廃仏毀釈の後も復興事業を進めていた。しかし昭和20年(1945)再び本殿などを焼失する。このため、現在の堂宇はいずれも新しいものである。昭和期の住職・信楽香雲は、昭和22年(1947)に鞍馬弘教を開宗し。昭和24年(1949)には天台宗から独立して鞍馬弘教総本山となっている。
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