徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:洛中

西園寺

 

浄土宗 宝樹山竹林院 西園寺(さいおんじ) 2010年1月17日訪問 西園寺 山門  天寧寺の山門を出て寺町通を南に下ると、すぐに次の西園寺の山門が現われる。西園寺は寺名から分かるように清華家・西園寺家に所縁がある。 西園寺 本堂 西園寺 地蔵堂 左は稲荷社  西園寺家は藤原公実の四男・藤原通季を祖とする。父の公実は平安時代の藤原北家閑院流の公卿で、正二位権大納言に至り三条大納言と称された人物である。また、通季の異母兄である実行が三条家、実弟の実能は徳大寺の祖となるなど、公実の子達から清華家七家の内、実に三家が生まれている。西園寺家の家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)… ►続きを読む

 

天寧寺

 

曹洞宗 万松山 天寧寺(てんねいじ) 2010年1月17日訪問 天寧寺 山門の奥に比叡山が見える  上善寺の墓地への入り方が分からなかったため、残念ながら長州人首塚を果たせず、鞍馬口通に面した上善寺の山門前から寺町通を下った。 御土居建設時、寺町通に沿って寺院が移築されたため、この場所の寺院は寺町通の東側に一列に並ぶ。寺町頭から最初の寺院は曹洞宗の天寧寺である。この寺院は上善寺と同じく、天寧寺門前町として町名となっている。寛永14年(1637)の洛中絵図には既に「天寧前丁」の名を見ることが出来る。さらに宝暦12年(1762)刊行の「京町鑑」では鞍馬口通側を「天寧寺門前町」、寺町通側を「天… ►続きを読む

 

贈 正四位入江九一外七名首塚 その2

 

贈 正四位入江九一外七名首塚(ぞう しょうしいいりえくいちほかななめいくびつか)その2 2010年1月17日訪問 贈 正四位入江九一外七名首塚  贈 正四位入江九一外七名首塚では首塚の主である入江九一の略歴、甲子戦争での最期の状況について越前側の視点も含めて見て来た。ここでは首塚が発見されて碑が建立された経緯を書いてみたい。 長人首塚についての記述は、昭和初年に出版された「京都維新史蹟」と「京都史蹟めぐり」に見ることができるものの、昭和後期の竹村俊則の「昭和京都名所圖會 5洛中」(駸々堂出版 1984年刊)には「長州藩士入江九一外九名の墓がある」という紹介のみである。 「京都維新史蹟」は… ►続きを読む

 

贈 正四位入江九一外七名首塚

 

贈 正四位入江九一外七名首塚(ぞう しょうしいいりえくいちほかななめいくびつか) 2010年1月17日訪問 贈 正四位入江九一外七名首塚 上善寺山門前の碑  上善寺の山門前には3つの碑がある。先ず一番大きな「第一番六地蔵寺」、六地蔵巡りのためのものであろうが鞍馬口通に面する碑文には上善寺の文字が見えない。次に山門の右手の金属製の柵と築地塀の間に建てられている「七番 地蔵尊」。何の七番なのかは不明である。そして左手の柵の手前に建てられた「贈 正四位入江九一外七名首塚」の石碑である。この石碑はフィールド・ミュージアム京都に掲載されていない。この項を書くために調べていて、初めて未掲載石碑であっ… ►続きを読む

 

上善寺

 

浄土宗 千松山遍照院 上善寺(じょうぜんじ) 2010年1月17日訪問 上善寺  出雲路橋の西詰北側の公園にある出雲路鞍馬口の石碑と師範桜碑を確認した後、鞍馬口通を西に進むと、寺町通が鞍馬口通に突き当る先に上善寺の山門が現れる。鞍馬口通から今出川通にかけての寺町通に面した一帯を寺町頭とも呼ぶらしい。これからこの寺町頭の寺院を北側から順番に見てゆくこととなるが、まずは一番北側にある上善寺から訪問する。 上善寺 境内 右手に地蔵堂  寺伝によると、上善寺は貞観5年(863)円仁大師により草創されている。円仁大師は最澄・空海・常暁・円行・恵運・円珍・宗叡とともに入唐八家の一人に数えられる… ►続きを読む

 

光格天皇御胞塚

 

光格天皇御胞塚(こうかくてんのうおんえなづか) 2010年1月17日訪問 光格天皇胞衣塚  護浄院の境内に、五輪塔とともに光格天皇御胞塚の石碑が建つ。碑文は光格天皇御胞塚とあるだけで建立年や建立者も記されていない。碑文も摩滅し読み辛くなっているため、「第百十九代光格天皇御胞塚」という駒札が新たに建てられている。さらに読み方が示すために「おんえなづか」とふり仮名も付けられている。 胞衣とは胎児が生まれた後の胎盤などを表わす言葉である。胞衣は生命の誕生に関連するものであり、昔から神聖なものとして扱われてきた。妊娠し出産した後も子供が成人するまでは、胞衣は子供の分身として扱われていたようで、子… ►続きを読む

 

清三宝大荒神尊

 

清三宝大荒神尊(きよしさんぽうこうじんそん) 2010年1月17日訪問 清三宝大荒神尊  護浄院の荒神口通に面した山門の東脇に、清三宝大荒神尊と記された石碑が建つ。一見すると護浄院の建てた寺号を示す碑の様に見えたが、裏側(南面)の建立者を見ると、三宅安兵衛遺志とある。大正15年12月の建立である。三宅安兵衛遺志についてはどこか項を改めて書こうと考えているが、なかなか資料が集まらなく未だ筆を執るに至っていない。ここでは現在分かっていることだけをもとに書いてみる。 三宅安兵衛とは現在の京都市中京区高倉通六角西入ルに住む織物商であった。この人物の生涯については子の清治郎が父母の十三回忌として昭… ►続きを読む

 

護浄院

 

天台宗 護浄院(ごじょういん) 2010年1月17日訪問 護浄院 清荒神  京都府立鴨沂高等学校の校門脇に建てられた明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯の石碑を確認した後、寺町通を北上して荒神口通を右に曲がる。法成寺址の前を過ぎてさらに東に進むと、新烏丸通の東南角に護浄院が現われる。この寺院のある荒神町は寺町通から河原町通を越え三本木通までの荒神口通に面した南北町である。鴨沂高等学校のグランドは荒神町であるが、荒神口通の南側にある校舎は松蔭町に含まれている。また護浄院を過ぎると荒神口通の南側は上生洲町になる。南北町であるにも関わらず荒神口通の南側は護浄院と河原町通より先の数軒のみが荒神町であ… ►続きを読む

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 その2

 

明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯(めいじてんのうぎょうこうしょきょうとふじんじょうちゅうがっこうあと)その2 2010年1月17日訪問 明治天皇行幸所京都府尋常中学校阯 2009年12月10日撮影  2010年1月に京都府立鴨沂高等学校を訪れた際はまだ高校として使われていたが、2014年には既に建替工事が始まっていた。そして2016年には校舎も無くなっていたので非常に驚いた。当初は平成28年(2016)末には完成する予定だったが、土壌汚染が判明し竣工が平成30年(2018)夏に延びてしまったようだ。この土壌汚染の原因が過去の土地利用に関係するものなのか気になるところではあるが、この項では… ►続きを読む

 

京都府立鴨沂高等学校 その2

 

京都府立鴨沂高等学校(きょうとふりつおうきんこうとうがっこう)その2 2010年1月17日訪問 鴨沂高等学校 九条家河原町邸の門を移築  京都市教育会が大正4年(1915)に建立した「従是東北 法成寺址」の石碑についての事々を法成寺址 その5において書いてきた。石碑が建てられた後に鴨沂高等学校のグランドを囲むコンクリート製の塀が造られたため、塀には石碑を避けるような半円形の窪みが設けられている。京都ではこのような窪みを多く見掛けるのは昔からの碑を地域の人々が大切に守ってきたからであろう。 この碑の東北には、かつて藤原道長が最後の時を過ごすために建立した法成寺が存在した。そして道長の没後も… ►続きを読む

 

法成寺址 その5

 

法成寺址(ほうじょうじあと)その5 2010年1月17日訪問 法成寺址 左側は京都府立鴨沂高等学校の運動場  明けましておめでとうございます。2017年最初の更新となります。 昨年は9月頃から”別の作業”が忙しくなり、なかなか更新することが出来なくなりました。その作業も凡そ目途がつき、3月頃には完了する予定です。そうすればもう少し更新頻度も上がると考えておりますのでよろしくお願いいたします。  廬山寺墓地と慶光天皇廬山寺陵(その2、その3、その4、その5)を拝観し、御土居を見学した後、廬山寺の山門より、再び寺町通を100メートルほど南下すると京都府立鴨沂高等学校が現われる。鴨沂高等学校に… ►続きを読む

 

史跡・御土居

 

史跡・御土居(しせき・おどい) 2010年1月17日訪問 廬山寺 御土居  廬山寺墓地の東側、河原町通との間に南北に並ぶ木の列が見える。墓地の地盤に比べてやや高台になっている箇所が、豊臣秀吉の天正の地割りと共に築かれた御土居の東端にあたる。中村武生氏の「御土居堀ものがたり」(京都新聞出版センター 2005年刊)によれば、御土居建設は天正19年(1591)年に入ってすぐに着手されている。同書では近衛信尹の「三藐院記」を引用し、「閏一月に開始して、二月に過半ができた」としている。凡そ22.5Kmに及ぶ大土木工事を少なくとも2ヶ月、長くみても4ヶ月以内に完成させたこととなる。このように短期間の… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その5

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その5 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵  慶光天皇廬山寺陵 その4では、尊号一件の目的とするところとその始まり、そして松平定信の老中筆頭への昇格と関白鷹司輔平との交渉の経緯を書いてきた。ここでは朝廷側から申し入れられた“小一条院に準じる待遇”に対する幕府の拒絶から結末までの交渉を見て行く。 寛政3年(1791)4月22日、京の鷹司輔平より再度の照会依頼が定信に送られてきた。長和6年(1017)に藤原道長の圧力によって自ら皇太子の身位を辞退した第67代三条天皇の第一皇子の敦明親王に小一条院の尊号を前例とし、閑院宮典仁親王への尊… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その4

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その4 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺  慶光天皇廬山寺陵 その3では、天明8年(1788)1月30日に発生した天明の大火による御所焼失から寛政度の復古造営までの朝幕交渉について見て来た。御所御千度参において幕府との交渉の機会を得た光格天皇は、これを前例として御所造営の際には復古様式の採用を幕府に認めさせることに成功している。この項では御所御千度参と寛政度御造営に前後して発生した尊号一件について書いて行く。 既に京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように、尊号一件は光格天皇が父である典仁親王に太上天皇号を贈ろうとしたことから始… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その3

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その3 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺 南北に長く複数の墓石が配置されている  慶光天皇廬山寺陵 その2では、元々病弱であった後桃園天皇の急逝、安永8年(1779)11月25日の光格天皇即位から始め、天明7年(1787)6月7日より発生した御千度参りを中心に書いてきた。当時、天明2年(1782)から続く天明の大飢饉の真最中であり、同7年(1787)5月には農村から貧困に耐え切れず都市部に流入した人々により江戸、大阪で打ちこわしも行われている。御所の周りで自然発生した御千度参りは、このような世相を打破するため単に神仏に頼るではな… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵 その2

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう)その2 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵  慶光天皇廬山寺陵では、桃園天皇から光格天皇に至る江戸時代中期の朝廷の様子を中心に幕府の衰退の兆しにも触れてきた。この項では光格天皇によって行われた朝儀の再興、朝権の回復について書いて行く。 明和8年(1771)8月15日に閑院宮第2代典仁親王の第6皇子祐宮として生まれている。そのままならば兄の美仁親王が閑院宮家を継ぎ、祐宮は安永元年(1772)9月には聖護院宮忠誉法親王の付弟とされ、将来的には聖護院門跡に入る予定であった。しかし後桜町天皇から譲位され即位した後桃園天皇が病弱で欣子内親… ►続きを読む

 

慶光天皇廬山寺陵

 

慶光天皇廬山寺陵(けいこうてんのう ろざんじりょう) 2010年1月17日訪問 慶光天皇廬山寺陵  薬医門の右脇に大阪皇陵巡拝会が建立した慶光天皇廬山寺陵への道標が残されているように、廬山寺の境内には慶光天皇の陵墓が築かれている。慶光天皇とは京都御苑 閑院宮邸 その2でも記したように閑院宮第2代典仁親王である。閑院宮家は四世襲親王家として現在のところ一番新しく作られた宮家である。伏見宮・有栖川宮・桂宮の宮家がいずれも当時の天皇家とは遠縁になっていることより、皇統の断絶が危惧される中、天皇の近親者によって新たな宮家を創設するべきという新井白石の建議によっている。最初の世襲宮家である伏見宮の… ►続きを読む

 

廬山寺墓地

 

廬山寺墓地(ろざんじぼち) 2010年1月17日訪問 廬山寺墓地  廬山寺 その2でも触れたように、2008年5月13日に廬山寺を拝観した際には廬山寺陵の存在を知らなかった。そのため御土居を訪れることもなかった。その後、陵墓に関係するHPや文献を調べて見逃していたことに気が付き、今回の訪問では予定に繰み込んだ。 廬山寺の墓地は本堂の東側、御土居沿いに作られている。山門及び本堂が寺町通に西面しているので、自然と寺地の奥に墓地を作ることとなったのであろう。つまり寺町通から山門を潜ると正面の大師堂に至る。もともと北側の山門は大師堂のために造られた門と考えても良いだろう。そのため南側の薬医門が本… ►続きを読む

 

廬山寺 その2

 

天台系圓浄宗本山日本廬山 廬山寺(ろざんじ)その2 2010年1月17日訪問 廬山寺 山門 正面に大師堂  寺町通を挟んで梨木神社の東側に廬山寺の山門が見える。前回2008年5月13日は、仙洞御所と京都御所の拝観前の時間を利用して、廬山寺の「源氏庭」と呼ばれる庭園を鑑賞させて頂いた。今回は本堂には上がらず、境内の様子と前回訪問できなかった東側の廬山寺墓地を調べる。 廬山寺 大師堂  廬山寺の公式HPには、天台圓浄宗大本山 廬山寺とある。また、いつもお世話になっている「京都・山城 寺院神社大事典」(平凡社 1997年刊)によれば、廬山寺は圓浄宗の本山で山号は日本廬山、本尊は薬師如来と… ►続きを読む

 

梨木神社 その7

 

梨木神社(なしきじんじゃ)その7 2010年1月17日訪問 梨木神社 神門より二の鳥居を望む  梨木神社 その6は京都を舞台とした一橋派の裏面活動の前半である。これを表側の交渉と合わせてみると何を目的にしていたかが明らかになってくる。 正月17日に、主上は関白・九条尚忠に対して宸翰(「孝明天皇紀 第二」(平安神宮 1967年刊) 正月17日の条)を下している。この宸翰では、今回の条約は大変重大であるので関東からの贈賄を斥け、容易に関東の申し分を受け入れてはならないと注意を喚起している。やがて来る老中・堀田正睦が金品を使って条約勅許を得ようとすることを見越したものである。 正月25日には三… ►続きを読む

 
 

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