カテゴリー:洛西
御霊神社・下桂
御霊神社・下桂(ごりょうじんじゃ) 2009年12月20日訪問 御霊神社 南の鳥居前 ここからは桂離宮の周囲を一周する間に出会った社寺を記す。最初は桂離宮の西北にあたる桂久方町の御霊神社である。境内はそれほど広くはないが、大きな立派な樹木が印象的な神社である。境内へと続く参道が2本有り、東と南の二箇所に鳥居が設けられている。 祭神は橘逸勢。神社の御由緒によると創建は貞観18年(870)4月18日に下桂御霊神社に祭神として勧請されている。橘逸勢は空海、嵯峨天皇と共に三筆と称される人物である。 御霊神社 舞殿 御霊神社 拝殿と本殿 橘逸勢は延暦23年(804)に最澄や空海らと… ►続きを読む
桂離宮
桂離宮(かつらりきゅう) 2009年12月20日訪問 桂離宮 桂大橋から眺め 桂離宮は桂大橋の西詰め、即ち桂駅から駅前商店街となっている京都府道139号桂停車場線を東に進み、三叉路で京都府道142号沓掛西大路五条線に合流した後は、北東に歩くこと200メートルで桂離宮の南端が現れる。今回は拝観許可を得ていないので、離宮の周辺を歩くのみとする。2008年に京都御所、仙洞御所、修学院離宮を拝観した際にも、桂離宮に数日にわたりインターネットで申請したが、遂に許可を得ることはできなかった。 桂離宮 東側の笹垣 桂離宮 笹垣の詳細 桂離宮の建築や庭園については書かねばならないことが多… ►続きを読む
桂大橋
桂大橋(かつらおおはし) 2009年12月20日訪問 桂川左岸 日出前 烏丸駅から梅田行の阪急京都本線快速急行に乗車し、桂駅に到着したのは6時30分。本日は桂川の右岸の松尾から嵯峨野にかけて巡る。まだ日の出前のため、桂駅から徒歩で桂川に向かい桂大橋上で日の出を迎える予定である。 桂川は左京区広河原と南丹市美山町佐々里の境に位置する佐々里峠に発する一級河川で、その流域毎に名称を変える。先ずは右京区京北地区の流域では上桂川、そして南丹市園部地区に入ると桂川になる。南丹市八木地区から亀岡市は大堰川、そして亀岡市保津町請田から京都市嵐山までは保津川と呼ぶこともあるが、嵐山からは再び桂川に戻る。… ►続きを読む
維新殉難志士墓
維新殉難志士墓(いしんじゅんなんししのはか) 2009年12月9日訪問 維新殉難志士墓 元治元年(1864)7月19日、樫原の勤王家殉難地で、楳本僊之介、相良頼元そして相良新八郎と小浜藩兵との間で交戦があり、三士が無残にも斬り殺されたこと。そして小浜藩撤退後、村人によって三人の遺骸は村外れの丘に葬られたことまで記した。この日の最後の訪問地は、この三士の墓であった。大まかな場所は分かっていたものの、実際には墓地への入口を探すのにかなりの時間を費やすこととなった。 楳本僊之介、相良頼元、相良新八郎の3人の名は、明田鉄男氏の「幕末維新全殉難者名鑑」(新人物往来社 1986年刊)にも掲載されて… ►続きを読む
勤王家殉難地
勤王家殉難地(きんのうかじゅんなんのち) 2009年12月9日訪問 勤王家殉難地 小泉仁左衛門宅跡の東側を小畠川が流れる。もともと桂川の右岸の耕地を潤すための用水路であったため、それ程川幅は大きくない。山陰道に架けられた橋の上に勤王家殉難地の碑が建てられている。この碑については、フィールドミュージアム京都の記述が簡潔にして、詳しく説明されているのでご参照下さい。 勤王家殉難地 小泉仁左衛門宅跡 勤王家殉難地 嵯峨・天龍寺に布陣した国司信濃隊は、元治元年(1864)7月18日深夜に進軍を開始し、翌19日早朝には御所の西側の中立売門、蛤門そして下立売門周辺に集結した。中立売門… ►続きを読む
小泉仁左衛門宅跡
小泉仁左衛門宅跡(こいずみにざえもんたくあと) 2009年12月9日訪問 小泉仁左衛門宅跡 現在は集合住宅が建つ 樫原の辻から山陰道を西に少し入った所に、北から小畠川が流れてくる。この川は明智川ともよばれるように、明智光秀が天正3年(1575)丹波平定のおり、樫原を補給基地とし老の坂から樫原そして桂までの道を整備している。その際に、溜池や灌漑用水路の築造も行っている。小畠川はその際に作られた用水路とされている。小さな橋の傍らに駒札が建てられている。この駒札は、先の樫原の町並みで紹介した樫原宿場街と札場と同様、京都市の建てたものではないようだ。京の駒札(https://vinfo06.a… ►続きを読む
樫原の町並み
樫原の町並み(かたぎはらのまちなみ) 2009年12月9日訪問 樫原の町並み 山陰街道 松尾大社では重森三玲の松風苑を鑑賞させていただいた。本日の訪問地の中でも最も期待していただけに、予定以上の時間をここで費やすこととなった。この後、再び阪急電鉄嵐山線に乗車し桂駅で下車して徒歩で次の訪問地・樫原の辻に行く予定であった。しかし時間がなくなったので、タクシーを使うことに変更した。この道は、先ず京都府道29号宇多野嵐山山田線であるが、西京区山田の山陰道の交差点から先は、京都府道・大阪府道67号西京高槻線すなわち物集女街道に変わる。同じ直線上に接続されているにもかかわらず、山陰道を挟んで2つの… ►続きを読む
松尾大社 蓬莱の庭
松尾大社 蓬莱の庭(まつおたいしゃ ほうらいのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社の「曲水の庭」と「上古の庭」を拝観した後、磐座登拝入口の前を経て、霊亀の滝と滝御前社に至る。再び御手洗川に沿って神輩所横から出る。一之井川を東側に渡り楼門を潜り出た先には二之鳥居が見える。その手前左手に客殿があり、その脇に蓬莱の庭の入口がある。 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 松尾大社 松風苑 蓬莱の庭 現在の蓬莱の庭に面した場所に客殿が建設されたのは、それほど古い時代ではなかったようだ。 「松尾大社境内整備誌」(松尾大社社務所… ►続きを読む
松尾大社 曲水の庭 その2
松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭 松尾大社 曲水の庭では、この庭が完成するまでの時間的な流れを記し、いかに重森三玲が短時間の内に庭を創り上げて行ったかを明らかにした。また中国の風習である曲水の宴が日本に伝わった時期を考えることで、三玲がこの庭に託した歴史的な想いについても記してみた。 曲水の庭の設計図は、もちろん「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)に掲載されている。しかし「松尾大社造園誌」(松尾大社社務所 1975年刊)には設計図とともに施工以前の庭の様子や施工中の… ►続きを読む
松尾大社 曲水の庭
松尾大社 曲水の庭(まつおたいしゃ きょくすいのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭 上代の磐座・磐境をモティーフとした「上古の庭」に続いて、「曲水の庭」について見てゆく。 「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」に掲載されている重森三玲の日記によると、上古の庭を設計した昭和49年(1974)4月28日に大体の設計で終わり、5月10日に門弟の斎藤忠一氏による清書が完成している。これを同月25日に河田宮司に披露し、5月29日の大安の日に松尾大社造園工事着手の奉告祭を執り行っている。この庭の施工は上古の庭が完成してからとなる。昭和49年(1974)8月1日に… ►続きを読む
松尾大社 上古の庭 その2
松尾大社 上古の庭(まつおたいしゃ じょうこのにわ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 上古の庭 松尾大社 上古の庭では磐座と磐境のことでほぼ費やしてしまったが、ここからは話しを上古の庭に戻す。 「日本庭園史大系33 補(三) 現代の庭(五)」(社会思想社 1976年刊)には大判の松尾大社庭園設計図①と②が付けられている。①は上古の庭と曲水の庭を1枚で著したもの。②は蓬莱の庭のみの設計図である。重森三玲が設計した庭だから実測図ではなく設計図となる。実測図とは異なり、設計意図を表現したものであり、恐らくこれだけを見て施工することは不可能であったと思われる。大社で庭を拝観し… ►続きを読む
松尾大社 上古の庭
松尾大社 上古の庭(まつおたいしゃ じょうこのにわ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 上古の庭 松尾大社 松風苑では、作庭家・重森三玲の庭園史家としての業績について書いた。そして松尾大社 松風苑 その2では「松尾大社造園誌」から、松風苑の成立過程について考えてみた。ここからは各庭のデザイン・モティーフとなった時代の順に、先ずは「上古の庭」から記していこうと思う。 上古の庭は宝物殿の北側の斜面に造られた庭園である。社務所から西側には、すぐに山裾が広がるため、南側の曲水の庭も片勾配の敷地に作庭されている。特に上古の庭は丹波笹が敷き詰められているため松尾山と一体となり、あたかも山肌をその… ►続きを読む
松尾大社 松風苑 その2
松尾大社 松風苑(まつおたいしゃ しょうふうえん)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 曲水の庭 松尾大社の案内によると重森三玲の作庭した3つの庭を松風苑と呼ぶようである。松尾大社 その3でも記したように、大社の設定した拝観順路に従うと北清門と神饌所を結ぶ回廊の下を潜り、再び社務所と葵殿を結ぶ回廊を潜ると「曲水の庭」が現れる。この庭は葵殿と宝物殿、そして社務所と松興館に囲まれた空間に作られている。そして松興館と宝物殿を結ぶ回廊の先に次の「上古の庭」がある。もうひとつの「蓬莱の庭」へは、「上古の庭」の築地塀の外側の坂道を登り、磐座登山口の前を過ぎる。さらに宝物館と葵殿の裏側… ►続きを読む
松尾大社 松風苑
松尾大社 松風苑(まつおたいしゃ しょうふうえん) 2009年12月9日訪問 松尾大社 松風苑 上古の庭全景 昭和を代表する作庭家の重森三玲は、庭園史家として、初期と最晩年の2度にわたり研究成果を著している。最初は昭和11年(1936)より刊行開始した日本庭園史図鑑(有光社)である。未だ科学的分析手法を用いた日本庭園研究がなかった時代に、日本庭園史図鑑は画期的な研究書であった。この執筆のために重森は実に日本全国350の庭を訪れ調査を行い、その内から243庭を選出し、全26巻に纏めた。刊行を終えた昭和14年(1939)は第二次世界大戦を間近に控えた混乱した時期でもあった。 東福寺方丈… ►続きを読む
松尾大社 その3
松尾大社(まつおたいしゃ)その3 2009年12月9日訪問 松尾大社 本殿 大宝元年(701)秦都理は松尾社の社殿を営んでいる。その後数度の火事にあっているが、弘安8年(1285)3月の火事により、社中ことごとく焼亡している。現在、重要文化財に指定されている現在の本殿は天文11年(1542)の建造で、桁行三間、梁行四間の一重檜皮葺の両流造である。箱棟の棟端が唐破風形になっているのは他に類例がなく、柱や長押などの直線と屋根の曲線との調和、木部・桧皮の色と柱間の壁の白色とが交錯して醸し出す色彩の美しさ、向拝の斗組や蟇股、手挟などの優れた彫刻意匠に室町期の特色を見ることができる。なお松尾大社… ►続きを読む
松尾大社 その2
松尾大社(まつおたいしゃ)その2 2009年12月9日訪問 松尾大社 楼門 松尾大社では、祭神の大山咋神を中心に、この地や秦氏との関係について書いてきた。これが伝説上の松尾社の起源となっているが、伊呂波字類抄には下記のように記されている。 本朝文集云、大宝元年秦都理始建立神殿、 立阿礼居斎子供奉 飛鳥時代の最末期となる大宝元年(701)に秦都理が社殿を営み、山頂附近の磐座から神霊を移している。すなわち現在の松尾大社の創建より以前から松尾山の頂上近くの、秦氏本系帳では日崎の峰とよばれる場所に磐座があり、ここが松尾社の旧鎮座地であった。この遷宮は持統天皇8年(694)の藤… ►続きを読む
松尾大社
松尾大社(まつおたいしゃ) 2009年12月9日訪問 松尾大社 二之鳥居 阪急電鉄嵐山線を松尾駅で下車する。松尾の町並みで記したように、南北に走る京都府道29号宇多野嵐山山田線に東側から四条通が突き当たる。四条通は八坂神社を始点としこの松尾大社を終点とする。いずれにも共通するのは楼門と鳥居に用いられた朱色と背景地としての山であろうか。 松尾大社 一之鳥居脇の石碑 一之鳥居の脇には松尾大社と記された社号標とともに大きな一組の瓶子が置かれている。さすがにお酒の神様の社前であることを想わせるのに十分な大きさである。鳥居を潜ると左手に交番と2つの大きな石碑が見える。その傍らに忘れ去られ… ►続きを読む
松尾の町並み
松尾の町並み(まつおのまちなみ) 2009年12月9日訪問 松尾の町並み 松尾大社の一之鳥居 八条ヶ池の南半分に面する錦水亭の外観を眺めた後、長岡天満宮の中堤の入口に建つ大鳥居を潜り、天神通を東に進む。阪急京都本線の長岡天神駅までは200メートル程度である。ここより京都本線に乗車し、嵐山線の松尾駅を目指す。京都本線から直接嵐山に向う直通列車は行楽時期だけの臨時列車だけで、通常は桂・嵐山間の折り返し運行となっているため、桂駅で嵐山線に乗り換えると、上桂の次が松尾駅となる。 松尾大社のある場所は桂川の右岸でも、西側から松尾山・嵐山が迫り出しているため、平地の部分が最も少なくなっている。松尾… ►続きを読む
錦水亭
錦水亭(きんすいてい) 2009年12月9日訪問 錦水亭 八条ヶ池の南半分に面して錦水亭の建物が建てられている。もともと、筍料理で有名内老舗であることは承知していたので、その風情を楽しむだけで食事を頂く予定は立ててなかった。それでも帰宅後に錦水亭の公式HPを確認するとランチタイムに訪れない限り、夜の会席料理にはとても手を出せないことが分かった。 錦水亭 錦水亭 長岡京市の公式HPには「竹とたけのこ」というページが掲載されている。いまや筍は長岡京市の名産品のひとつとなっているため、市のHPに掲載されていてもおかしくはない。現在、日本で食用にされる筍の代表的なものは、中国から… ►続きを読む
長岡天満宮 その2
長岡天満宮(ながおかてんまんぐう)その2 2009年12月9日訪問 長岡天満宮 拝殿 菅原道真の配流に同行した中小路宗則は、道真の没後に再び開田に戻り聖廟を建てている。これが現在の長岡天満宮につながっていったと考えられている。宗則の末裔は、長岡天満宮の神官を務める一方、土豪として勢力を拡大し応仁の乱において細川氏の被官として中小路遠江守が登場するに至る。中小路氏が城主を務めた開田城については、「大乗院寺社雑事記」文明2年(1470)4月27日条に以下のような記述がある。 この山名是豊による攻撃が開田城の初見とされている。このことより、これ以前より開田城は存在しており、興福寺大乗院の門… ►続きを読む