カテゴリー:京都府
白峯神宮 その5
白峯神宮(しらみねじんぐう)その5 2010年1月17日訪問 白峯神宮 拝殿 白峯神宮 その4では、鳥羽法皇崩御後の崇徳天皇と保元の乱の戦場となった白河北殿と院政政治の中心となった白河街区について見て来た。この項では崇徳天皇の怨霊伝説の始まりから鎮魂のための崇徳廟の造営について調べてみる。 保元元年(1156)7月23日、崇徳上皇は讃岐国へ移される。乱の終結直後、後白河天皇は石清水八幡宮に勝利の報告を宣命で行っている。藤原頼長がいかに猛悪であり、流れ矢に当たって死んだのは神罰であると述べている。そして上皇の配流から乱に加わった者への処罰は法に則った処分であると八幡大菩薩に祈誓している。… ►続きを読む
白峯神宮 その4
白峯神宮(しらみねじんぐう)その4 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影 白峯神宮 その3では、では白峯神宮の最初に祭神となった崇徳天皇について、鳥羽法皇との関係を中心に近衛天皇の崩御と後白河天皇の即位まで見てきた。この項では鳥羽法皇の崩御から保元の乱までの経緯、そして崇徳上皇の讃岐国への配流までを調べてみる。 保元元年(1156)5月初旬頃より鳥羽法皇は体調を崩していたらしく、同月21日には食事の摂れない症状を治療するため灸を施されている。しかし容態は回復することなく、日一日と悪化していく。そして6月1日には病気回復の祈祷を取り止め、臨終を迎えるための万歳の沙… ►続きを読む
白峯神宮 その3
白峯神宮(しらみねじんぐう)その3 2010年1月17日訪問 白峯神宮 御由緒 白峯神宮 その2では、天武天皇以降の皇統の継承ともう一人の祭神である淳仁天皇の生涯とについて見て来た。この項では最初に祭神となった崇徳天皇について調べてみる。 白峯神宮の祭神である崇徳天皇は、保元元年(1156)7月に起きた保元の乱に破れ讃岐国に配流となった上皇である。天皇あるいは上皇の配流は、天平宝字8年(764)に起きた藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、凡そ400年ぶりの出来事であった。 崇徳天皇は、元永2年(1119)鳥羽天皇と中宮・藤原璋子(待賢門院)の第1皇子として生まれている。真偽… ►続きを読む
白峯神宮 その2
白峯神宮(しらみねじんぐう)その2 2010年1月17日訪問 白峯神宮 2011年6月18日撮影 白峯神宮では、その周辺の地で起きた歴史的な事柄から白峰神宮の創建の経緯までを記した。この項では後に祭神に加えられた淳仁天皇について書いていくこととする。 先ず淳仁天皇に至る皇統を見ていく。第38代天智天皇、第39代弘文天皇(大友皇子)そして壬申の乱後に即位した第40代天武天皇の後は、第41代持統天皇(天武天皇后)、第43代元明天皇(草壁皇子妃)と天智系の2人の女帝と天武系の第42代文武天皇、第44代元正天皇が交互に即位している。つまり弘文天皇から聖武天皇までの間は直系男子への皇位継承が為さ… ►続きを読む
白峯神宮
白峯神宮(しらみねじんぐう) 2010年1月17日訪問 白峯神宮 今出川通に面した鳥居と神門 上立売通から今出川通に向かい油小路通を南に下っていく途中の東側に本阿弥光悦京屋敷跡の石碑が建っている。この地にあった本阿弥家の屋敷について、本阿弥光悦京屋敷跡、その2、その3の3回に亘って、本阿弥家の成り立ちから室町時代末期から安土桃山時代にかけての町衆の暮らしと法華宗門徒の繁栄、天文法難を生じた経緯、さらには江戸初期の洛中絵図において本阿弥家邸宅の所在を確認してきた。町人である本阿弥家の邸宅が幕府の作成した洛中絵図に記されていることより、幕府が本阿弥家に対して特別の扱い行ってきたことが分る。… ►続きを読む
本阿弥光悦京屋敷跡 その3
本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その3 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷 本阿弥光悦京屋敷跡 その2では室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆への法華宗の浸透について見てきた。この項では、応仁の乱以後の法華宗の発展と法難、そして本題である光悦の京屋敷について調べてみる。 文正2年(1467)1月18日早朝、後から考えれば応仁の乱の前哨戦となる戦闘が洛中で起きている。前年末から窮地に追い込まれてきた畠山政長は、遂に耐えられず自らの邸宅に火をかけ上御霊神社に陣を敷いている。政長に対抗する畠山義就は山名政豊や朝倉孝景らの支援を受け、自… ►続きを読む
本阿弥光悦京屋敷跡 その2
本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)その2 2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷 本阿弥光悦京屋敷跡では初代・妙本から光悦にいたる系図を参照しながら本阿弥家の成り立ちについて見てきた。この項では、室町期の京の町の成り立ちから五山十刹の繁栄と衰退、そして京の町衆に法華宗が広まって行く過程を調べてみる。 本阿弥家が強力な法華(日蓮宗)信徒になったのは、初代・妙本の頃とも、あるいは熱心な法華信者であった松田家から養子を迎えた6代・本光の頃とも謂われている。本阿弥家初代の妙本と日静上人の出会いについて記述したものは、今のところ林屋辰三郎が「光悦」(第一法規出版 1964… ►続きを読む
本阿弥光悦京屋敷跡
本阿弥光悦京屋敷跡(ほんあみこうえつきょうやしきあと)2010年1月17日訪問 本阿弥光悦京屋敷 一部駐車場と化している報恩寺の境内を南に進むと上立売通に出る。この上立売通から油小路通に入る角に、かつての小川の痕跡を示す橋の欄干と昭和十年水害浸水被害記念碑が残されている。昭和10年(1935)6月27日から降り始めた雨は29日まで続き、京都市は明治初年以来の大水害となった。高野川、岩倉川、鴨川、東高瀬川、堀川、天神川、御室川、白川など市内諸川の堤防は決壊し、五条大橋、三条大橋、夷川橋など鴨川筋の橋を含む74橋が流失、浸水家屋は43,771戸、死者12名、負傷者81名を出す大災害となった… ►続きを読む
報恩寺
浄土宗知恩院派 堯天山 報恩寺(ほうおんじ)2010年1月17日訪問 報恩寺 境内 泉妙院の山門越しに尾形光琳とその一族の墓を拝観した後、寺之内通を再び西に戻り小川通を南に下る。凡そ40メートルくらい歩くと、通りの西側に報恩寺の山門と石橋が現れる。新しく建てられた寺号標には“浄土宗鳴虎 報恩寺”と記されている。寺之内通より北側の小川通は小川に沿って南下するが、百々橋の東橋詰めで通りが20メートル東に付け替えられている。そのため小川通から報恩寺の石橋までの間に20メートル程度の参道が生じている。その両側には民家の妻面が見えるため、少し不思議な空間になっている。山門手前の石橋は、かつて流れ… ►続きを読む
泉妙院 その2
泉妙院(せんみょういん)その2 2010年1月17日訪問 泉妙院 緒方家墓所 2016年3月5日撮影右側宝塔:光琳・乾山両人の供養塔 2019年最初のエントリーは、正月に相応しい国宝「紅白梅図屏風」の作者・尾形光琳になりました。 泉妙院では、尾形家の来歴から光琳が画家への道を歩み始める契機について、さらに門前に建立された 尾形光琳 尾形家一族 乾山菩提所の石碑を手掛かりに、建立者の三越が明治後期から行ってきた尾形光琳に対する顕彰活動について見て来た。この項では白崎秀雄の「尾形光琳取材ノート」を元にして、光琳が生存していた頃の三越との関係を調べてみる。 雑誌「日本美術工芸」に「尾形光琳… ►続きを読む
泉妙院
泉妙院(せんみょういん)2010年1月17日訪問 泉妙院 妙顯寺の山門を出て、寺之内通を東に20メートル進むと泉妙院の山門が現れる。泉妙院は妙顯寺の多くの塔頭の中の一つである。一般に公開されていないため常に山門は閉ざされており、境内の様子を外から伺うことはできない。山門の右手には尾形光琳 尾形家一族 乾山菩提所の石碑が建つ。この石碑は昭和51年(1976)に三越が建立したものである。勿論、東京日本橋の百貨店の三越のことである。 尾形光琳は万治元年(1658)京都の呉服商・雁金屋の当主・尾形宗謙の次男として生まれている。そして光琳の五歳下の弟が陶芸家の尾形乾山である。この2人の芸術家を生… ►続きを読む
妙顯寺
日蓮宗 龍華 具足山 妙顯寺(みょうけんじ)2010年1月17日訪問 妙顕寺 山門 宝鏡寺の特別公開を拝観した後、寺之内通を100メートル程度東に進むと、妙顯寺の山門が現れる。妙顯寺は日蓮宗の大本山、開基は日像である。 日像は文永6年(1269)下総国に生まれている。俗姓は平賀氏で幼名は経一丸。建治元年(1275)日蓮の弟子で兄の日朗に師事し、後に日蓮の弟子となっている。永仁元年(1293)日蓮の遺命を受け、京都での布教を始める。上洛して間もない永仁2年(1294)には、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い造酒屋の柳屋仲興や大覚寺の僧で後に妙顯寺2世となる大覚らの帰依を受ける。し… ►続きを読む
宝鏡寺 その2
臨済宗単立 西山 宝鏡寺(ほうきょうじ)その2 2010年1月17日訪問 宝鏡寺 宝鏡寺では、鎌倉時代後期から始まった五山制度から京都尼五山の成立、そして無外如大による景愛寺の創建、そして現在に残る大聖寺と宝鏡寺が子院として景愛寺を継承してきたことで終わった。この項では、いよいよ宝鏡寺創建の歴史に入っていく。 異説はあるものの、無外如大開山開基で景愛寺が創建されたのは、宝鏡寺が所蔵する「尼五山景愛寺伝系西山宝鏡寺逓系譜事蹟」から弘安8年(1285)と考えられる。荒川玲子氏の「景愛寺の沿革 ―尼五山研究の一齣―」(「書陵部紀要 通号28」(宮内庁書陵部編1976年刊)によれば、景愛寺の歴… ►続きを読む
宝鏡寺
臨済宗単立 西山 宝鏡寺(ほうきょうじ)2010年1月17日訪問 宝鏡寺 山門 小川にかかる百々橋跡を西陣側に渡ると、寺之内通の北側に宝鏡寺門跡の山門が現れる。 話しを宝鏡寺の歴史に進める前に、日本における五山制度の形成と尼五山第1位の景愛寺について見て行くこととする。室町時代に京都五山と鎌倉五山が制定されたことは比較的良く知られている。しかし、それ以前にはどのような格式があったかは明らかではない。元々は中国・南宋の寧宗がインドの5精舎10塔所すなわち天竺五精舎の故事に倣ったのが始まりとされている。鎌倉時代後期日本にも禅宗の普及が始まり、正安元年(1299)鎌倉幕府の執権北条貞時が浄智… ►続きを読む
表千家 不審菴 その2
表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)その2 2010年1月17日訪問 表千家 不審菴紀州藩より文政8年(1825)に拝領された長屋門 表千家 不審菴では、千少庵の大徳寺門前屋敷と二条屋敷に設けられた茶室について書いてきた。この項では千家再興後の少庵、宗旦による本法寺屋敷の不審菴を中心に見て行く。既に裏千家 今日庵の項で一部記したので重複する所もあるが、もう一度時系列的に変遷を辿る。 先ず少庵が二条釜座から本法寺門前に移居したのは、千利休が賜死する直前の天正19年(1591)正月のことであった。詳細不明であるが、秀吉の町割替えによって立ち退かざるを得なくなったようだ。敷地規模は「南… ►続きを読む
表千家 不審菴
表千家 不審菴(おもてせんけ ふしんあん)2010年1月17日訪問 表千家 不審菴 裏千家 今日庵では、千利休切腹後に家名断絶となった千家が再興し、表千家、裏千家そして武者小路千家に分かれていった経緯について記した。この項では不審菴と名付けられた茶室の変遷と表千家について書いて行く。 千宗左、千宗室、千宗守監修の「利休大事典」(淡交社 1989年刊)によれば、利休の手がけた茶室の姿が記録に現れてくるようになるのは、天文13年(1544)宗易の名で堺屋敷に於いて茶会を催すようになってからとしている。それ以前については、与四郎の名で記された茶室記録に武野紹鷗の教えを受けたとい… ►続きを読む
裏千家 今日庵
裏千家 今日庵(うらせんけ こんにちあん)2010年1月17日訪問 裏千家 今日庵 兜門 水火天満宮のある天神公園から小川通を南に下ると最初に現れるのが裏千家である。表千家と裏千家は、この小川通の東側に並んで建っている。2008年5月に訪問した際に、表千家と裏千家を記し、両家及び武者小路を含めた三千家の成り立ちについて触れている。利休亡き後、文禄3年(1594)千家は再興を果たし、2代千少庵そして3代千宗旦と利休の茶を継承してゆく。さらに3代宗旦の三男である江岑宗左が千家の継嗣として不審菴を継ぐ。宗旦が隠居所として不審菴の裏に建てた今日庵を四男の仙叟宗室が受け継ぎ、独立して裏千家を成し… ►続きを読む
本法寺
日蓮宗本山 叡昌山 本法寺(ほんぽうじ) 2010年1月17日訪問 本法寺 水火天満宮のある天神公園から、かつての小川の痕跡を求め、小川通を寺之内通まで下り、百々橋 その2、その3、その4の礎石まで来てしまった。今一度、小川通を北に裏千家の今日庵の前まで戻ると、通りの西側に本法寺の山門が現れる。この山門の前には、小川に掛っていた石橋が今も残されている。 本法寺は日蓮宗の本山で、室町時代の日蓮宗の僧侶・日親によって築かれた寺院。その開創の時期や場所については諸説あるようだが、本法寺の公式HPでは、 永享八年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。その後、永享… ►続きを読む
百々橋 その4
百々橋(どどばし)その4 2010年1月17日訪問 小川 百々橋 その3では、応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に、文正の政変直前の対立構造を書いてきた。ここでは政変前後の権力関係の変化から御霊合戦そして応仁の乱の初戦までを書いていく。 文正元年(1466)夏の時点で、第8代将軍・足利義政の幕府内に大きく分けて3つの勢力が存在していた。一つは将軍・義政の幕府権力伸長を目指す側近集団で、伊勢貞親と季瓊真蘂が中核となり、赤松政則と斯波義敏を取り込んでいた。この集団は将軍・義政を中心とした政治体制を目指したため、他の2派の勢力を削減するための方策をとってきた。すなわち守護大名… ►続きを読む
百々橋 その3
百々橋(どどばし)その3 2010年1月17日訪問 小川 百々橋 その2の項では、応仁以前の京の景観を描いたとされる中昔京師地図を基に、小川沿いの社寺及び東西両軍の大名邸宅の位置と室町幕府第6代将軍・足利義教の恐怖政治が齎したものについていた。この項では応仁の乱の火種となった畠山家のお家騒動の続きを中心に文正の政変までの緊迫の状況を書いてみる。 享徳3年(1454)4月、畠山持富の子・弥三郎(政久)を擁立した神保親子は、義就派の遊佐氏の襲撃を受けて戦死、そして椎名、土肥等の神保の与党も京都から逃げ出している。このように当初優勢だったのは義就派であった。しかし畠山氏の弱体化を狙う細川勝元… ►続きを読む