徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

カテゴリー:訪問地

京都御苑 凝華洞跡 その3

 

京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡の駒札  京都御苑 凝華洞跡 その2では元治元年(1864)春から福原、国司、益田三家老の出陣までを書いてきた。この項では甲子戦争の開戦に至る経緯を見ていく。 長州藩の世論が進発へ傾いて行ったことについて、元よりの賛成派であった来嶋又兵衛や池田屋事件といった突発的な衝突を除けば、京都で政情を観てきた久坂玄瑞の意見陳述が最終段階での後押しとなったと云ってもよいだろう。もともと長州藩は根来上総や井原主計の雪冤運動と共に、世子が率兵して上京するという2つの方向で、朝廷政治においての自らの… ►続きを読む

 

京都御苑 凝華洞跡 その2

 

京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡  京都御苑 凝華洞跡では、文久3年(1863)の八月十八日の政変以降の政治体制の変化と長州藩の活動、特に雪冤運動について見て行った。時間軸では文久3年8月から元治元年(1864)3月頃までの8か月間に当たる。この項では甲子戦争に至る残りの4か月間の動きについて書いて行く。ほとんど凝華洞跡とは関係のないことであるが、ここで記しておかないと次の甲子戦争に繋がって行かないので、もう少しお付き合いをお願いいたします。 奉勅始末記を朝廷に奉ったものの入京を拒絶された井原主計は、朝廷からの帰… ►続きを読む

 

京都御苑 凝華洞跡

 

京都御苑 凝華洞跡(きょうとぎょえん ぎょうかどうあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 凝華洞跡  京都御苑 猿ヶ辻から京都御苑 堺町御門 その5までを使い文久2年(1862)後半から文久3年(1863)の八月十八日の政変までを見てきた。政変直前には、急進派公家が尊攘派浪士の勢いを借り朝廷政治を自らの望むように動かすことができる体制をほぼ完成さていた。原口清氏は「文久三年八月十八日政変に関する一考察」(1992年発表 「原口清著作集1 幕末中央政局の動向」(岩田書院 2007年刊)所収)で、孝明天皇こそが八月十八日の政変で最も重要な役割を果たしたとしている。急進派公家の勢いを止める… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その5

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その5 京都御苑 堺町御門 内裏圖1889年製 より国際日本文化研究センター  京都御苑 堺町御門 その3では、文久2年(1862)12月9日に制定された国事御用掛と翌文久3年(1863)2月13日の国事参政と国事寄人の顔ぶれを見ながら、急進派の躍進を記してきた。また、京都御苑 堺町御門 その4で、急進派の主張する西国鎮撫使と御親征に対する公武一和派及び穏健派の対応について見てきた。そして8月13日から始まる八月十八日の政変の準備状況と共に、この政変を企画した人物についていくつかの論文を参照しながら考えてみた。ここでは8月13日から… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その4

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門 葵祭 2008年5月15日撮影  京都御苑 堺町御門 その2でも触れたように、真木和泉の入京が6月8日で、同月16日に東山の翠紅館で行われた会で、「五事献策」の基となる考えを披露したとされている。そして6月末頃から天皇の攘夷親征を望む声が高まって行き、7月初旬には朝廷内で攘夷親征論が三条実美等の急進派公家によって唱えられている。宇高浩著の「真木和泉守」(菊竹金文堂 1934年刊)によると、真木は6月29日に学習院出仕を命じられ、同日に「五事献策」を国事参政・豊岡随資に提出している… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その3

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門から堺町通を眺める  京都御苑 猿ヶ辻から その2、その3 そして その4までを使い、文久3年(1853)5月20日に発生した姉小路暗殺事件とその捜査の推移について書いてきた。この事件を理解する上で、攘夷決行期日に設定されていた5月10日から僅かの日の内に発生したということを忘れてはならないだろう。この暗殺事件の原因を長州藩の攘夷に求めることはできなくても、事件の推移は当時の政局を有利に運ぼうとする勢力に、大いに利用されたことは確かである。実行犯の一人と目されている田中雄平は、捕縛… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門 その2

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門の駒札  京都御苑 堺町御門では、姉小路卿殺害から文久3年6月末までの薩摩藩の情勢と中川宮の窮状について見てきた。この後に発生する八月十八日の政変まで推移をこの項で書いて行く。 姉小路暗殺に続く急進派の攻勢は単に暗殺犯の究明に留まらず、即今破約・攘夷実施に繋がって行った。この暗殺事件より10日前の文久3年(1863)5月10日は攘夷実行期日であり、長州藩が馬関海峡を封鎖し、通過する艦船に砲撃を実施している。また、同7月2日から4日にかけては生麦事件についての薩英間の交渉が決裂し鹿児… ►続きを読む

 

京都御苑 堺町御門

 

京都御苑 堺町御門(きょうとぎょえん さかいまちごもん)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 堺町御門  堺町御門はかつての公家町を守る九門のひとつで、現在の京都御苑の南側、丸太町通に面して設けられた門である。寺町通と烏丸通の中間に位置する南北路、堺町通の突き当りに御門がある。葵祭や時代祭が御苑から出発する際に潜って行く門としても有名だが、地図で確認すると御所の建礼門の軸線上には御門はない。そのため祭りの隊列は九条池の手前で東に折れて堺町御門に至る。 幕末に於いては、現在のように御苑の入口ではなく西の九条家と東の鷹司家の間を分ける道の中間にあった。 世の中は欲と忠との堺町  東はあ… ►続きを読む

 

京都御苑 猿ヶ辻 その4

 

京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻  京都御苑 猿ヶ辻 その3の最後で触れたように、6月11日に薩摩藩士の九門出入が自由となっている。町田明広氏は「島津久光=幕末政治の焦点」(講談社選書メチエ 2009年刊)で、薩摩藩の姉小路暗殺に関する嫌疑が冤罪として氷解したためとしている。その理由として、侍従・滋野井公寿と大夫・西四辻公業が姉小路暗殺に関与していたことを上げている。 滋野井は羽林家廷臣で天保14年(1843)、西四辻も羽林家廷臣の天保9年(1838)生まれで、2人とも即今破約攘夷派の若い廷臣である。広沢安任の「鞅掌録」(… ►続きを読む

 

京都御苑 猿ヶ辻 その3

 

京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻  京都御苑 猿ヶ辻とその2に続き、襲撃犯が田中雄平に決する過程と薩摩藩に下された処罰、そして八月十八日の政変へと続く薩摩藩による復権活動について見て行く。 長州及び土佐の武市派は、この猿ヶ辻の変を上手く利用し京都における薩摩の勢いを削ぐ事に成功した。その本当の襲撃犯が田中雄平であっても又はなくても、朝廷における薩摩の信頼を大いに損なわせることに成功したからである。その後の経緯については「七年史」が詳しい。5月27日に伝奏・坊城俊政は、会津藩主・松平容保、米沢藩主・上杉斎憲、広島藩の浅野茂勲… ►続きを読む

 

京都御苑 猿ヶ辻 その2

 

京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻  京都御苑 猿ヶ辻に続き、文久3年(1863)5月20日にこの付近で起きた暗殺事件の顛末を見てゆく。 姉小路公知襲撃の翌日の「中山忠能日記」(「日本史籍叢書 中山忠能日記4」(東京大学出版会 1916年発行 1973年覆刻)))には下記のように、九門警備が強化されたことが記されている。 清和門院 土州  堺町門  長州蛤門   水戸  寺町門  肥後乾門   薩州  下立売門 仙台今出川門 備前  中立売門 因州石薬師門 阿州昨夜朔平門辺姉小路少将様へ刃傷之義有之不容易候間右九門口今晩ヨリ… ►続きを読む

 

京都御苑 猿ヶ辻

 

京都御苑 猿ヶ辻(きょうとぎょえん さるがつじ) 2010年1月17日訪問 京都御苑 猿ヶ辻  京都御所の建春門前にある学習院跡から苑路に沿って北に進むと、京都迎賓館の入口脇に橋本邸跡の木標が建つ。慶応4年(1868)に刊行された「改正京町御絵図細見大成」(「もち歩き 幕末京都散歩」(人文社 2012年刊))を見ると御所東側の公家町に南北通が3本存在したことが分かる。つまり御所の外周と現在の寺町通との間には西側から中筋、二階通、梨木通があった。さらに中筋と御所との間には北側から、野々宮と清閑寺、姉小路、持明院、日野西、橋本、七条、修学所、白川、正親町の邸宅が並ぶ。京都御所 その5で少し触… ►続きを読む

 

京都御苑 学習院跡

 

京都御苑 学習院跡(きょうとぎょえん がくしゅういんあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 学習院跡  京都御所の建春門(日御門)の東側に学習院跡の木標が建っている。江戸時代末期に公家の子弟のための教育機関として開設された学習院学問所がかつてこの地にあったことを示している。7世紀後半の律令制のもとに大学寮が作られたている。しかし治承元年(1177)の安元の大火(太郎焼)で焼失すると以降再建されることは無かった。江戸時代後期に閑院宮出身の光格天皇が即位すると、朝廷の儀式の復旧に取り組み石清水社や賀茂社の臨時祭の復活を果たしている。さらに天皇は平安末期以来断絶していた大学寮に代わる朝廷の… ►続きを読む

 

京都御苑 一条邸跡

 

京都御苑 一条邸跡(きょうとぎょえん いちじょうていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 一条邸跡  京都御所の西北にある皇后門の西側に一条邸跡の木標が建つ。文久3年(1863)に作成された内裏図には、乾御門を挟んで近衛邸の南西の地に、一条邸が近衛邸とほぼ同じ大きさで描かれている。天保年間(1830~44)の五摂家の石高は、九条家3000石、近衛家2860石、一条家2044石、二条家1708石、鷹司家1500石であった。さらに時代の下った慶応4年(1868)の「改正京町御絵図細見大成」から、近衛家2860石余、一条家が2044石余、九条家が2043石、二条家1708石余、鷹司家は1… ►続きを読む

 

京都御苑 近衛邸跡 その5

 

京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その5 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡  月照に続いては近衛家の老女で有志達と堂上方の調整役を果たした津崎矩子、すなわち村岡局について見て行く。 梅田雲浜が西郷吉之助と伊地知正治に送った安政5年(1858)2月29日と考えられている書簡(「西郷隆盛全集 第五巻」(大和書房 1979年刊)の三)に近衛家の老女・津崎矩子村岡が出てくる。 陽明家は御手を廻され候や。彼の家中大夫皆愚物のよし、老女村岡と申す婆これあり、此の人物欲は深く候得共、理非の能く分かり候器量者にて、女丈夫也。陽明家の清少納言と申し、此の者の事をば、左府公能… ►続きを読む

 

京都御苑 近衛邸跡 その4 

 

京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その4 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡  京都御苑 近衛邸跡 その3では、幕末の近衛家の当主である近衛忠煕の経歴と戊午の密勅の降下後から安政の大獄が始まるまでの間に近衛家が関わった政治活動を薩摩藩士・西郷隆盛を中心に書いてみた。ここからは月照と津崎村岡の活動と、近衛忠煕の落飾後のことについて見て行く。 月照は文化10年(1813)大阪の町医者・玉井宗江の子として生まれている。俗名は宗久。父に伴われ叔父の蔵海が住持する成就院に文政8年(1825)と翌9年(1826)に訪れている。そして文政10年(1827)1月14日に上京… ►続きを読む

 

京都御苑 近衛邸跡 その3

 

京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その3 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡  幕末期に近衛家の当主となったのは第27代の近衛忠煕である。文化5年(1808)に左大臣・近衛基前の子として生まれている。鷹司政通が寛政元年(1789)、九条尚忠が寛政10年(1798)、三条実萬が享和2年(1802)、鷹司輔煕が文化4年(1807)、青蓮院宮が文政7年(1824)、そして孝明天皇が天保2年(1831)に生まれている。つまり忠煕は鷹司政通と九条尚忠の次の世代にあたり、三条実萬や鷹司輔煕とはほぼ同じ頃に生まれ、青蓮院宮と孝明天皇よりは一回り上の世代にあたる。 忠煕は文… ►続きを読む

 

京都御苑 近衛邸跡 その2

 

京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと)その2 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡  京都御苑 近衛邸では、平安時代に造営された近衛室町の近衛殿から、上立売新町の近衛殿桜御所、本能寺の変の戦場となった二条新造御所の北隣の近衛前久邸、そして現在の京都御苑東北角にある今出川・近衛邸跡に至る変遷と近衛基実から始まる初期の近衛家について書いてみた。この項では室町時代から戦国時代に至る近衛家の当主達について見てみる。 近衛家第14代当主となった近衛尚通は文明4年(1472)に近衛政家の子として生まれている。文明14年(1482)に元服、当時の室町幕府第9代将軍・足利義尚より… ►続きを読む

 

京都御苑 近衛邸跡

 

京都御苑 近衛邸跡(きょうとぎょえん このえていあと) 2010年1月17日訪問 京都御苑 近衛邸跡  近衛家の幕末の状況を記す前に、九條家に次ぐ五摂家の一つである近衛家の歴史を見て行く。 九条家が藤原北家九条流嫡流で藤原忠通の六男・九条兼実を祖とするのに対して、近衛家は四男の近衛基実が祖となっている。保元3年(1158)近衛基実は藤原忠通に次いで藤氏長者となっているが、これが藤原氏分家出身で最初の長者となるため、近衛家が五摂家の筆頭という扱いになっているようだ。ちなみに九条兼実が長者となるのは文治2年(1186)のことで、基実との間には松殿基房 、近衛基通、松殿師家の名が並ぶ。基実以降… ►続きを読む

 

京都御苑 九條邸跡 その7

 

京都御苑 九條邸跡(きょうとぎょえん くじょうていあと)その7 2010年1月17日訪問 京都御苑 九條邸跡 厳島神社  長野主膳と大老・井伊直弼に共通する考え方は、現状が自らの望み通りになっていない裏には敵対する勢力の陰謀が存在するというものであろう。この敵対勢力を排除するには力の行使が必要であり、それを正当化するために関連する風聞を積極的に集めるという手法であった。井伊大老は長野主膳がもたらす京状報告を以って、関東において処断を下すことになっていたが、長野の上京以前から一連の騒動の原因は水戸藩にあり、水戸の入説に従って三公と三条前内大臣そして青蓮院宮が動いているというシナリオを用意し… ►続きを読む

 
 

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