徘徊の旅の中で巡り合った名所や史跡などの「場所」を文書と写真と地図を使って保存するブログ

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上七軒の町並み

 

上七軒の町並み (かみしちけんのまちなみ) 2008年05月19日訪問 上七軒の町並み 提灯に五つ団子の紋章が見える  平野神社の東大鳥居から境内を出て、南門を見ながら再び西大路通に出る。衣笠校前から市バス50号に乗車し上七軒に戻る。後から考えると平野神社の東大鳥居から北野天満宮の北を歩き上七軒の北側に出てもよかった。 上七軒の町並み 上七軒の町並み  現在、上七軒は祇園甲部、祇園東、島原、先斗町、宮川町とともに京都の六花街、あるいは茶屋の営業が絶えた島原を除き、京都花街組合連合会に加盟する5地区の総称して使われる五花街と呼ばれている。祇園甲部は京都最大の花街であり、日本だけ… ►続きを読む

 

平野神社

 

平野神社 (ひらのじんじゃ) 2008年05月19日訪問 平野神社 東神門 既に閉じられている  引接寺を出て千本通を南に下る。五辻通を西に入り、大報恩寺を目指す。既に17時に近かったためか、五辻通に面した山門は閉じられていた。七本松通に面した西門に回ると、まさに門を閉め終わったところであった。大報恩寺には日を改めて訪問することとし、今出川通のから上七軒の停留所より市営バス50号に乗車する。北野天満宮の前を通過したバスは、北野白梅町を右折し、西大路通を北上する。木々の緑の濃い平野神社を通過し、次のわら天神の停留所で下車する。上立売通の交差点に近くに建つ鳥居を潜り境内に入る。 平野神社… ►続きを読む

 

引接寺

 

高野山真言宗 光明山歓喜院 引接寺(いんじょうじ) 2008年05月19日訪問 引接寺 本堂  建勲神社の白木の鳥居を出て、再び船岡東通を南に進む。しばらく進むと北東から南西に走る鞍馬口通に出会う。この道を進み、千本鞍馬口の交差点に出る。引接寺はこの交差点の一本南にある廬山寺通の先にある。 通称の千本閻魔堂の方で知られている引接寺は、高野山真言宗に属する寺院で、号は光明山歓喜院引接寺。元は蓮台野という葬送の地に開かれ、古くよりお盆、精霊迎えの根本霊場として知られてきた。開基は小野篁、開山は寛仁元年(1017)定覚とされている。寛政11年(1799)に刊行された都林泉名勝図会には、引接寺の… ►続きを読む

 

建勲神社

 

建勲神社(たけいさおじんじゃ) 2008年05月19日訪問 建勲神社 拝殿  大徳寺の塔頭・高桐院を後にして船岡山を目指す。玉林院、龍光院、大光院の前を通り、北大路通に出る。北大路通を南側に渡り船岡東通を南に下る。住宅街の中を進むと右側から船岡北通、左から建勲通が合流する角に建勲神社の鳥居が建つ。 建勲神社 船岡東通に建つ石標  天下統一の大事業とともに朝儀復興を進めた織田信長の偉勲とを称え、明治2年(1869)明治天皇による健織田社の創建が決定する。翌明治3年(1870)織田信長の子孫で天童藩知事織田信敏の東京邸内と旧領地の山形県天童市に建勲社が造営されている。明治8年(1875… ►続きを読む

 

大徳寺 塔頭

 

大徳寺 塔頭(だいとくじ たっちゅう) 2008年05月19日訪問 大徳寺真珠庵  大徳寺には現在22の塔頭がある。茶の湯の楽しみ に掲載されている大徳寺 諸堂 塔頭を見ると大徳寺の塔頭の変遷の激しさがよく伝わってくる。この内で常時公開されている塔頭は、龍源院、瑞峰院、大仙院、高桐院の4か院で、黄梅院、真珠庵、聚光院、総見院、芳春院、興臨院、孤篷庵などは期日を限って特別公開される場合もある。 大徳寺龍翔寺 山門 「大徳寺 諸堂 塔頭」で別山として扱われている寺院 ■21 龍翔寺  瑞鳳山萬歳龍翔禅寺。南浦紹明(円通大応国師)の開山。南浦紹明は、大徳寺開山宗峰妙超の師にあたり、筑前国… ►続きを読む

 

大徳寺 高桐院

 

大徳寺 高桐院(こうとういん) 2008年05月19日訪問 大徳寺高桐院 客殿南庭  大仙院を出て、法堂から孤蓬庵をつなぐ東西道を西に進む。総見院の前を過ぎて、南に入ると右手に高桐院の入口が現れる。ここには表門はなく、築地塀がコ字状に囲み、訪問者を参道に導いている。 戦国武将で熊本藩細川家初代となる細川忠興は、父細川藤孝の弟にあたる玉甫紹琮を開山として慶長7年(1602)高桐院を創建している。忠興の遺言により遺歯が高桐院に埋葬され、細川家の菩提寺となる。 大徳寺高桐院 左奥に表門が見える  細川忠興は永禄6年(1563年)第13代将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で… ►続きを読む

 

大徳寺 大仙院

 

大徳寺 大仙院(だいせんいん) 2008年05月19日訪問 大徳寺大仙院 表門  瑞峯院を出て、興臨院の前を通り、勅使門の横に出る。そのまま山門、仏殿、法堂そして本坊の西側を北に向かい進むと、正面に芳春院、右に大仙院と真珠庵が並ぶ。大仙院は常時公開している塔頭ではあるが、写真撮影不可である。そのため庫裏に入るところまでしか記録が残っていない。一番最初に大仙院を訪れたのは中学校の修学旅行の時であったように記憶している。前の住職である尾関宗園氏が昭和40年(1965)に33歳で大仙院12世住職・桃林宗園禅師となった頃のことである。ともかく大きな声で叱られる様に感じるほどの講話を頂いたことは鮮… ►続きを読む

 

大徳寺 瑞峯院

 

大徳寺 瑞峯院(ずいほういん) 2008年05月19日訪問 大徳寺瑞峯院 方丈南庭 独坐庭 玄関側から眺める  興臨院を出て、南隣の瑞峯院を訪れる。瑞峯院は常時公開されている4つの塔頭のひとつである。 瑞峯院は大友宗麟が帰依していた大徳寺91世徹岫宗九を開祖に迎え、自らの菩提寺として創建している。瑞峯院という寺号は宗麟の法名・瑞峯院殿瑞峯宗麟居士から名付けられたもの。 大徳寺瑞峯院 表門 大徳寺瑞峯院 庫裏の花頭窓が見える  大友宗麟は大友氏第21代、豊後の戦国大名でキリシタン大名として有名である。享禄3年(1530)大友義鑑の嫡男・義鎮として生まれる。天文19年(1550)… ►続きを読む

 

大徳寺 興臨院

 

大徳寺 興臨院(こうりんいん) 2008年05月19日訪問 大徳寺興臨院 方丈南庭  龍源院を出て、勅使門まで戻ると興臨院の表門が左手に見えてくる。興臨院は通常非公開寺院であるが、春と秋に特別公開が行われるので、丁度訪問した時が幸運にも春の特別公開日に入っていたのだろう。 大徳寺興臨院 平唐門の表門 大徳寺興臨院 方丈玄関を眺める  興臨院は大永年間(1521~1528)あるいは天文年間(1521~1533)に、能登の守護・畠山義総が、自らの法名・興臨院殿伝翁徳胤大居士を寺号として建立している。 畠山義総は能登畠山氏の第7代当主で、能登畠山氏の全盛期を創出した名君として知られ… ►続きを読む

 

大徳寺 龍源院

 

大徳寺 龍源院(りゅうげんいん) 2008年05月19日訪問 大徳寺 龍源院 龍吟庭  大徳寺の本坊は非公開であるので、勅使門、山門、仏殿、法堂を見終わると、次は公開されている塔頭に入ることとなる。龍源院は、北大路通から勅使門に向って参道を進んで行った先の左手に位置している。 龍源院は文亀2年(1502)能登の畠山義元、周防の大内義興、豊後の大友義親の三氏によって創建されている。開祖は大徳寺72世住持の東溪宗牧で大徳寺南派の本庵となっている。いわゆる大徳寺四法脈とされている龍源派、大仙派、龍泉派、真珠派であるが、その中でも大仙院を北派の本庵、そして龍源院を南派の本庵としている。茶の湯の楽… ►続きを読む

 

大徳寺

 

臨済宗大徳寺派大本山 龍宝山 大徳寺(だいとくじ) 2008年05月19日訪問 大徳寺 勅使門  若宮神社の楼門から銀杏並木の今宮門前通を南に下る。市立紫野高校の角で小堀遠州が開設した孤篷庵から東に延びる道に交差する。この道を左に入ると広大な大徳寺の境内に入っていく。今も孤篷庵の周辺には、寸松庵・梅巌庵趾の碑、大光院趾・瑞源院趾の碑、金龍院趾の碑が建つ。これらの碑からも、現在は大徳寺の境内から離れて建つ孤篷庵も東西に広がる大徳寺の境内にあったことが分かる。 大徳寺 今宮門前通沿いの塀と龍翔寺の竹林  大徳寺は臨済宗大徳寺派大本山で山号は龍宝山。開基は正中2年(1325)大燈国師宗峰… ►続きを読む

 

今宮神社

 

今宮神社(いまみやじんじゃ) 2008年05月19日訪問 今宮神社 本殿と疫社  正伝寺を出て、再び神光院前の停留所へ戻る。西賀茂の公共交通での移動は、市営バスと京都バスに頼るほか無い。京都バスの高野車庫―市原は本数も少ないため、時間が合わない限り使用できないことを考えると、神光院前の停留所から市営バス1、9、37号などに乗車することとなる。そのため西賀茂の社寺を巡るためには、神光院を中心にして徒歩で廻るしかない。今回は神光院前から、市営バス1号に乗車し南に下る。6つ先の佛教大学前停留所で下車し、今宮通を東に進むと北側に今宮神社の楼門が現れる。 今宮神社 楼門 今宮神社 拝殿… ►続きを読む

 

正伝寺

 

臨済宗南禅寺派 吉祥山 正伝護国禅寺(しょうでんごこくぜんじ) 2008年05月19日訪問 正伝寺 庭園  山を背にして建つ法雲寺を見上げながら、道を進むと正伝寺の駐車場と山門が現れる。  正伝寺は、臨済宗南禅寺派で諸山の格式を持つ寺院で、山号は吉祥山、正式な寺号は正伝護国禅寺という。北条時宗が鎌倉幕府執権になる文永5年(1268)鎌倉の建長寺で学んだ東巌慧安が、師である兀庵普寧を開山として烏丸今出川に正伝寺を創建している。 慧安は、嘉禄元年(1225)播磨国に生まれ、播磨の書写山圓教寺で出家受戒し、天台教学を学ぶ。泉涌寺で学んだ後、正嘉元年(1257)中国の宋へ渡るため博多へ下ったが、… ►続きを読む

 

西賀茂の町並み

 

西賀茂の町並み(にしかものまちなみ) 2008年05月19日訪問 西賀茂の町並み 神光院の参道 緑が濃い  西村家別邸を出て、西賀茂の正伝寺を目指して藤木通を西に進み始める。上賀茂神社の前を通り過ぎ、御薗橋を渡り賀茂川の西岸に入る。川岸より1本西側の道をやや北上し、左折する。大宮小学校の北側を通り抜けると、神光院前の交差点に出る。道路から奥まった参道まで続く樹木の新緑が美しかったので山門の近くまで入っていく。丁度、植木の手入れが入っていた。 西賀茂の町並み 御薗橋から賀茂川を眺める  神光院は真言宗系の単立・別格本山で山号は放光山。真言宗弘法大師の霊場で、東寺、仁和寺と共に京都三弘… ►続きを読む

 

西村家別邸

 

西村家別邸(にしむらけべってい) 2008年05月19日訪問 西村家別邸 北庭の全景  上賀茂神社の一の鳥居を出、酒殿橋を渡り、再び社家町に戻る。既に9時30分を廻っているため、西村家別邸の公開が始まっている。 西村家別邸 藤木通に面した門 西村家別邸 門の内側 西村家別邸 門から直線状に露地が続く 西村家別邸  社家の町並みの項で触れたように、社家の建築として梅辻家住宅(https://vinfo06.at.webry.info/201006/article_9.html : リンク先が無くなりました )、岩佐家住宅(https://vinfo06.at.web… ►続きを読む

 

賀茂別雷神社(上賀茂神社) その2

 

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ) その2 2008年05月19日訪問 賀茂別雷神社 楼門  上賀茂神社の一の鳥居、二の鳥居、楼門そして中門は玉垣や回廊を伴いながら4つの神域を作り出している。  一の鳥居を潜ると1番目の神域として一面の明るい芝生広場が広がる。これは下鴨神社の糺の森とは全く対照的な空間となっている。この芝生の中を真白い参道が一直線に二の鳥居へ伸びる。この参道に面して左に神馬舎、右に御所舎の建物が配されている他には、斎王桜、馬出しの桜、むちうちの桜、見返りの桐、御所桜などが植えられている。 賀茂別雷神社 玉橋 賀茂別雷神社 玉橋と片岡橋そして片岡社 賀… ►続きを読む

 

賀茂別雷神社(上賀茂神社)

 

賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ) その1 2008年05月19日訪問 賀茂別雷神社 一の鳥居と二の鳥居  社家町の西村家別邸の公開は9時30分から、まだ1時間近くあるので先に上賀茂神社に向かう。藤木通を西に進むと明神川に橋が架かる。府道に架かるコンクリート橋の北側に、小さな石の反り橋があり、その先は朱塗りの玉垣で神域が区切られている。この小さな石橋が酒殿橋で、この先の流れは楢の小川と呼ばれる。さらに玉垣に沿って西に進むと巨大な上賀茂神社の一の鳥居が現れる。 賀茂別雷神社 芝生の中に白い参道が二の鳥居へ延びる 賀茂別雷神社 賀茂別雷神社  上賀茂神社の正式な名称は… ►続きを読む

 

社家の町並み

 

社家の町並み(しゃけのまちなみ) 2008年05月19日訪問 社家の町並み 藤木社と楠の大樹 社家の町並み 大田神社  上賀茂の町並みを通る府道103号上賀茂山端線は、大田神社と大田の沢の前から南に進む。約50メートル下り、藤木通に入る。再び西に進むと通りの北側に長屋門が現れる。京都市の建てた駒札によると、上賀茂社家のうち神主筋である賀茂七家の一つ梅辻家である。門には柵が架けられ公開していないようなので、門外からの撮影に留める。 社家の町並み 梅辻家住宅 社家の町並み  梅辻家住宅の駒札(http://www.miyakoweb.net/kanko/annai.php… ►続きを読む

 

大田の沢

 

大田の沢(おおたのさわ) 2008年05月19日訪問 大田の沢 杜若の自生  大田神社の鳥居の右手には大田の沢と呼ばれる湿地があり、最盛期は過ぎたが多くの杜若が花を付けていた。この大田の沢は日本三大杜若自生地の一つとされている。Wikipediaによる三大自生地とは、愛知県刈谷市井ヶ谷町にある「小堤西池」、鳥取県岩美町唐川にある「唐川湿原」そして京都府京都市北区にある「大田の沢」とされている。ちなみに小堤西池は昭和13年(1938)、唐川は昭和19年(1944)、そして大田の沢は昭和14年(1939)にそれぞれカキツバタの群生地として国の天然記念物に指定されている。大田の沢にはそれを顕す… ►続きを読む

 

大田神社

 

大田神社(おおたじんじゃ) 2008年05月19日訪問 大田神社 拝殿と本殿  上賀茂の町並みで触れたように、深泥池から上賀茂神社へ続く町並みは、京都府道103号上賀茂山端線と一致する。深泥池から西に進むと道の北側に大田神社の鳥居が現れる。 大田神社 入口 大田神社 本殿へと続く参道の石段 大田神社 本殿 大田神社  大田神社の創祀は明らかでない。古くは恩多社と呼ばれ、地主神を祀っていたのが始まりと考えられる。上賀茂神社(賀茂別雷神社)が鎮座して以来、天鈿女命と猿田彦命を祭神とした摂社として、平安時代中期に編纂された延喜式にも載る古社で、この地を開墾した賀茂氏の崇… ►続きを読む

 
 

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